107. 力になる継続を

 人に元気を与える言葉はいろいろある。「継続は力」もそのひとつである。しかしこの言葉はあいまいさを多く含んでいる。継続とは同じことを繰り返すことかといえば、必ずしもそうとはいえない。ということはこの言葉を受け止める人や、人それぞれが置かれている状況によって、心にどういった作用をするかは幅があるということになる。ただ、あいまいであるからこそ、ひとを元気付けることができるのかもしれない(それはそれで良いのだと感じている)。

 ひとは進化の過程で言葉を得た。そして学習をすることを日常とし、学習効果によってひとを成長させるメカニズムの中心で活躍する脳が機能する上でも言葉は重要な役割を担ってきている。

  人生はplan(目標を定めてそこにどうやってたどり着くかのおよその道のりを描く)do(実際の作業や運動でことを進めていく)see(check)(期待通りの結果が得られたらよし、そうでないときはなぜかを振り返るいわゆる評価をして次のplanに進んでいく)のサイクルを基本としている。この、plan−do−seeのサイクルは時間軸ではさまざまの時間スケールがあるし、いくつものサイクルが並列にまわされていくのが人が生きていく実態であろう。このサイクルの中で、時に「継続は力」の言葉の魔力に頼りたくなる事態が起こることがあるものである。

 確かに「継続が力になる」のであるが、力を大きくしたいと考える場合はむしろ「力になる継続」を強く意識すべきではなかろうか。人間は向上心を持っているから、その強弱に個人差はあるにしても、鮮明に意識しなくても、単なる作業の繰り返しに満足するものではない。筆者もある状況で、漠然と「継続は力」の言葉で、気持を奮い立たせるのではなく「力になる継続」をはっきり意識し、それを目指すべきだと思う経験をした。

蒸着型の磁気テープ(蒸着テープ)の本格的な事業化までは、開発着手から実に20年弱の長い時間がかかったが、その間組織は色々変わったが(組織の規模、どこにぶらさがるかなど)技術のフェーズが変わってもずっとプロジェクト推進のスタイルは変わることはなかった。蒸着テープはまずマイクロカセット用途でオーデイオテープとして実用化され、次がビデオテープということになった。最初の事業機会は、8ミリビデオ(カメラ付き録画機器)で訪れた。米国の大手フィルムメーカーの相手先ブランドによる生産(OEM)がスタートして、プロジェクトチームは活気付いた。ところが品質管理で経験不足を露呈してしまった。プロジェクトチームは大きなダメージを受けた。研究所からテープの開発室のメンバーは全員が、事業部門に異動しての事業立ち上げで、生産の構えに入った工場で製造するものがなくなることは大変なことであった。挽回するのに許された時間は材料にかかわる問題解決に対しては無いに等しいような時間であった。本社の研究所の関連する部署の更なる後方支援を強化してアドホック的な挽回策とその実施プロジェクト体制が組みなおされた。

 ところが新しいプロジェクト体制には筆者の名前がなかったのである。プロジェクトは全社プロジェクトであったから、責任を取らされたように見えた。技術のプロジェクトリーダーは、筆者の組織上の上司であったが、なぜこういうやり方になるのかいくら尋ねても、はっきりとした答えは返ってこなかった。すぐにはどうしたらいいか答えが見出せなかった。腹が立つやら、情けないやらで、投げ出したくなるような状況ではあったが、徐々にではあったが、ここで投げ出したら終わりだと考えるようになった。そこで2つの考えで何をしたらいいか考えてみようと思えるようになった(とはいえ、なかなかすっきり割り切ってとは行かなかったが)。ひとつは実質的に、技術のリーダーであった筆者が責任を取らされたという理解と、二つにはプロジェクトチームのメンバーに名前がないからといって、外れているだけでは本当に責任を取ることにはならないのではという考えであった。「早期に信頼回復をはからなければ、プロジェクトの息の根がとまるだろうとの予感が当たらないようにするポイントは何か」と考えると「力になる継続」をひとりでもやり抜こうといった決意めいたものが芽生えてきた。「力になる継続をテーマに筆者がひとつだけやるとすればそれは何か」を考えた結論は、合金粉末を磁性体として使ったいわゆるMPテープに、画質性能で差をはっきりつけることであった。蒸着テープの全体バランスを確実に改善していっても、答えを出すまでの時間がかかりすぎるとMPテープで十分だとの判断が必ず出てくる。蒸着テープの画質性能のポテンシャルを計測値で示すのではなく、再生画像を目で見て差がわかるようにするしかないと、一人で大型蒸着機と格闘を始めた。今にして思えば蒸着テープは「死の谷」に落ちかかっていたし、筆者自身は「死の谷」で悪あがきをしているようなものであった(ただ、筆者は当時死の谷なんて言葉を知らなかった)。大型蒸着機は通常は3人で操作運転する規模の機械で、研究室でよく見かける薄膜作成装置(MBE装置、電子ビーム蒸着装置、スパッタリング装置、CVD装置、PLD装置など)からイメージできるものではない。こんな風に追い込まれることを予測して準備していたわけではないが、一人でも何とか動かせるようにリモコンやカメラを要所に配備していたことで、安全管理面から決して好ましいことではなかったが、事故を起こさないようにいつもにもまして安全重視で実験を始めた。そして画質の差をくどくど説明しないで見てもらうだけでわかる蒸着テープを用意できた。しかし米国のカメラメーカはMPテープでスタートを切ってしまい、蒸着テープのプロジェクトは、事業部サイドの参加メンバーを縮小し、本社の研究所から事業部に異動したメンバーは、筆者を含め事業部技術に残ったメンバーを除き研究所に戻った。出口の見えない長い(かどうかさえ良くわからない)トンネルに入った。しかしMPに対する画質の優位性を示せたことで、業界からも蒸着テープが抹殺されることにはならなかった。そして勢いを失ったプロジェクトを「力になる継続」で事業部門の開発部隊として乗り切るための新たな戦いが始まったのである。

そして、蒸着テープがあったから初めて市場にデジタルビデオカメラを提供できたといえるまで10年余の歳月が流れていた。「力になる継続」ができた証としての事業結実であった。

 


                              篠原 紘一(2006.9.22)

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