事業成果

記憶痕跡の重複により生まれる新たな記憶

記憶のメカニズムに迫る!2018年度更新

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井ノ口 馨(富山大学 大学院医学薬学研究部 教授)
CREST
生命動態の理解と制御のための基盤技術の創出「細胞集団の活動動態解析と回路モデルに基づいた記憶統合プロセスの解明」研究代表者(H25-30)

記憶の再編成で生まれる新たな記憶

私たちの記憶はいったん脳内に蓄えられた後、時間経過や新たな経験により変化するというダイナミックな性質を持っている。「犬のように足が四本で動く生き物は動物」、「カラスのように羽があり空を飛ぶ生き物も動物」といった記憶が関連づけられて、「動物とはこういったものだ」という記憶(知識・概念)が形成されていく。しかしながら、どのようにして複数の記憶がつながり新たな記憶が生まれるのか、不明な点が多い。

井ノ口馨教授らは、異なる経験による複数の記憶情報が関連づけられて変化する性質に注目して、脳の細胞レベルでの「記憶のメカニズム」の解明に取り組んだ。

図1

脳と記憶エングラムの概要

カギを握るのは、神経細胞集団同士の重複

まずマウスを対象として、新たな記憶を人工的に作り出す試みを行った。

四角い箱に入れられてすぐに電気ショックを与えられたマウスは、四角い箱と恐怖体験を関連づけることができず、四角い箱に対して低い恐怖反応しか示さない。しかし四角い箱にしばらく入れておき、場所の記憶を作ってから電気ショックを与えた場合は、四角い箱に対して恐怖を示すようになる。そのマウスの脳を調べると、海馬と扁桃体(へんとうたい)と呼ばれるところに場所の記憶に対する神経細胞の集まり(セルアセンブリ)と恐怖の記憶に対するセルアセンブリが存在し、その2つが部分的に重複していた。これらのセルアセンブリは、それぞれの記憶に対する記憶痕跡を形成している。

次に、丸い箱という場所の経験と、電気ショックという恐怖体験を独立した記憶としてマウスに覚え込ませたあと、脳内にあるそれぞれのセルアセンブリを光遺伝学的手法(レーザー光照射)で人為的に同期活動させた。その翌日、このマウスを丸い箱に入れると、丸い部屋では電気ショックを与えていないにもかかわらず、強い恐怖反応を示した。

この結果から、2つの独立した記憶に対する記憶痕跡を同期活動させることで、新たな記憶を人為的に作り出せることが明らかになった。

図2

2つ目の研究テーマは、人が強烈な体験をした時に体験前後のささいな出来事も忘れずに覚えている「行動タグ」と呼ばれる仕組みの解明だった。東日本大震災では、直前の昼食は何だったかなど、震災前後のちょっとした出来事を覚えている人が多いという。

ここでもマウスを対象としてささいな出来事と強烈な体験を続けて経験させる実験を行った。ささいな出来事だけを経験させると、マウスは24時間後にはそのことを忘れていたが、ささいな体験の前後1時間以内に強烈な体験を行った場合には、24時間後でもささいな体験を覚えており、行動タグが成立することが分かった。その時に活動した脳の神経細胞を調べると、ささいな出来事の記憶を思い出す時に活動するセルアセンブリと、強烈な記憶のセルアセンブリが重なり合っていることが分かった。この時、強烈な体験のセルアセンブリを特殊な方法で抑え込むと、ささいな出来事が思い出せなくなる。これによって、2つのセルアセンブリの重複、すなわち2つの記憶痕跡の重なりが複数の記憶をつなぎ合わせた新たな記憶を形成して「行動タグ」を生むことが明らかになった。

さらに3つ目の研究テーマは、重複したセルアセンブリの機能的な役割の解明だった。「甘い水と倦怠感の記憶(CTA記憶)」と「ブザー音と電気ショックの記憶(AFC記憶)」などの異なる2つの記憶を関連づけた。重複する細胞の活動のみを抑え込むと、既に関連づけられている2つの記憶を切り離すことができたのだ。しかも、2つのそれぞれの記憶は問題なく思い出すことができた。
このことから、セルアセンブリの重複部分は、記憶の関連づけのみに関係しており、各々の記憶を思い出すこと自体には必要ではないことが分かった。

図3

サッカリン(甘い水)とブザー音・電気ショックなどでできた2つの記憶細胞集団とその重複のイメージ。

人が知識や概念を生み出すプロセスの解明へ

井ノ口教授らによるこの画期的な研究により、脳のさまざまな記憶がどのように関連づけられ、新たな記憶を作るのかという「記憶のメカニズム」の一部が解明された。この研究は、人が一つ一つの記憶から知識や概念を生み出していく「高次脳機能の解明」につながる大きな成果である。

これらの研究成果に対する社会的な関心は高く、新聞やテレビ・ネットニュースなどに多く取り上げられると共に、各方面から注目を集めている。

精神疾患の新たな治療への期待

人間にとって、さまざまな記憶の「正常な関連づけ」が大事だが、「ささいな出来事の記憶」と「強烈な記憶」など、関連性が薄い記憶同士の不必要な結びつきが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの精神疾患に密接に関わっている。この研究成果によって、もとの記憶には影響を与えずに「記憶を引き離す」ことができれば、つらい記憶が突然よみがえるPTSDや、実際の体験とは違ったことを思い起こす記憶錯誤などの記憶障害に悩む人々の治療法の発見につながる可能性がある。