75. 死の谷

ハードデイスクも光デイスクも1インチ角のなかに、1テラビットのデジタル信号を記録してそこから信号を読み出す技術を先に実用化すべく競って研究開発が続けられている(この技術が仕上がれば、2.5センチメートル四方の大きさでDVDのソフトがおよそ26枚分入るだけの容量になる)。そんな背景の中でここへきていわゆる「垂直磁気記録」の実用化の機運が急に高まっている。

垂直とは、信号を記録する磁石の薄い板の面に対しての方向で、これまでのハードデイスクが面内に信号の元になる小さな磁石の向きを向き合うように並べでいた面内磁気記録[長手記録とも言う]に対して、信号の元になる小さな磁石の向きが上向きと下向きになるように並べたもので、この並び方のほうが磁気的に安定になるので、信号の元になる磁石をより小さく出来る利点があるのである。垂直磁気記録の利点がいくら明白でも、デスクトップパソコンや家庭用デジタル録画装置などに使われている3.5インチ型のハードデイスクはどちらかといえば、成熟した技術をベースにして展開しているのと、必要な生産数量が巨大であることから、2.5インチ型から0.8インチ型への技術導入が計画されている。


この垂直磁気記録の提案が東北大学、岩崎教授(当時)のグループからなされたのは1975年、今から30年前のことである。当時実用化されていた長手記録に比べて,面積当たりの記録単位(記録密度)が原理的に飛躍することが期待されて、磁気記録の研究開発に占める垂直磁気記録の位置づけが急激に高まっていった。提案がなされた翌年の5月、筆者は蒸着型の磁気テープの開発プロジェクトに参画したので、垂直フィーバーを近くでずっと見てきた。

蒸着方式の磁気テープは究極の磁気テープと考えられていたことから、別の開発グループが垂直磁気記録テープの開発に入った。磁石にする薄い膜は、垂直記録向けにはその当時はコバルトとクロムの合金の微細な結晶の集合体からなるものでその結晶はほぼ膜面に垂直に立ち並んだものであった。

一方蒸着磁気テープはIBMが特許をもっていたフィルム、薄板などの面に斜め方向から蒸着することで強い磁石を作る、いわゆる斜め蒸着技術を工夫して生産性の高い蒸着技術によって作り、微視的にみれば、バナナが斜めに傾いて並べられたようなイメージの微細な結晶の集まりにした。

原理的に注目された垂直磁気記録とは違って、蒸着磁気テープは松下幸之助がプロジェクトスタートから3ヵ月後に開発現場に見えたことから、社内的に大フィーバーになってしまった。おかげで(?)、垂直磁気記録との優劣の技術論議は社内的にはほとんど無く、蒸着テープの開発に専念出来たといえる。だからといって一気に実用化までの道を進めたわけではなく、松下幸之助が提示した事業化目標にはまったく届かず、死の谷(悪夢の時代)に落ち込んでいってしまったのである。
しかし関係者はあきらめることなく開発を続け、10数年続いた悪夢の時代を払拭し家庭用デジタルムービー(DVカメラ)の出口を見出して事業としても(金額規模はさほどではないといっても)成功を収めたのである(といっても、プロジェクトスタートからおよそ20年が経過していた)。
蒸着テープが実用化された後も垂直記録の悪夢の時代は続き、基礎研究から生まれた提案から30年が経過してようやく、実用化の入り口に辿り着いたのである。

なぜこのように長い悪夢の時代が続いたのであろうか?
エレクトロニクスを支えてきた技術の群にあって、半導体技術、とりわけトランジスタ集積化技術の存在価値は群を抜いているが、情報を記録する技術において磁気記録技術の貢献もきわめて大きい。磁気テープを使う記録機器としてはオーデイオテープレコーダー、ビデオテープレコーダー、カメラ付ビデオレコーダー、そしてデイスクを使ったものとしてはパソコンを進化させてきたハードデイスクをあげることが出来る。
およそ30年間で情報を受け持つ磁石の大きさは1000分の1に小さくなってきている。しかし、この磁気記録の歴史を振り返ると繰り返し、学会でも「磁気記録は限界か?」といった議論が熱っぽく交わされてきたことが思い起こされる。そのつど垂直磁気記録の導入が議論されてきた。

しかし実行に移せなかったのは、開発現場がまったく新しい磁気記録原理の導入ではない技術への挑戦的開発により、限界説を打破してきたことが大きい。限界説を突破するのが容易であったからではない。
信号処理をふくめ、新たなシステム設計に基づいた半導体デバイスを始め、磁気デイスク、磁気ヘッドなどハードデイスクの構成部品を短期間に切り替え可能かは問わずもがなのことであった。
年間の生産量が1億台を超える業界に対応できる切り替えは現実の選択肢には無かったのである。

あるときから、垂直磁気記録の出口はハードデイスクになっていた。しかし磁気記録技術の歴史のなかで、ハードデイスクは異色なのである。テープを使った記録技術は業界で規格を決めて事業を始め、次の商品企画のイメージを支える新規格が提案され決まっていくとしてもおよそ10年間ほどの準備時間があった(蒸着磁気テープの出口到達が垂直記録よりも10年近く早かったといえるのはこのことも大きい要因であったといえよう)のであるが、ハードデイスクはインターフェースだけが規格であって、記録したり、信号を取り出したり、記録した信号をどうやって探すかなどはフリーなのである。
この条件が過熱した技術競争を休む間無く続けさせてきたといえ、半導体の有名なムーアの法則以上の速度で大容量化が進んできたのである。

蒸着テープは止まっている電車に乗って走り出せばよかったといえるが、ハードデイスクは猛スピードで走っている電車に飛び乗るようなもので、垂直磁気記録が原理的に優れていてもこれまで導入されることは無かったのであろう。今やっと小さいマーケットからテスト導入が可能な時期がめぐってきてその機会を捉える動きが日本で始まるというのは心強いことである。

悪夢の時代を出来る限り短くしたいと思っていかに優れた技術を蓄積していても30年も待たされることもあるのだ。この例一つを見ても、死の谷短縮の方法論確立は難度の高いテーマである。


                              篠原 紘一(2005.6.2)

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