2024年1月12日

(60)Japanese research is no longer world class — here’s why

これは、科学誌Natureの10月25日号のニュース記事の題名であり、日本の科学界にとって、まさに屈辱的な表現である。日本の政府機関による報告の見解であると、言い訳をしているものの、世界の多くの関係者が読むものなので、今後の国際協力も含めて、科学技術・学術外交への影響は無視できない。我が国の行政、誇りある研究現場はこの侮蔑的な題名にどのように対応すべきだろうか。他の有力国なら大人しく受容せず、直ちに反論するはずだ。

当該記事は「科学技術指標2023」(文部科学省、科学技術・学術政策研究所(NISTEP))という統計的調査報告書に基づく。同じくNISTEPの調査資料「科学研究のベンチマーキング2023ー論文分析で見る世界の研究活動の変化と日本の状況」にはさらなる詳細な分析が記載されている。この毎年継続して公表される報告は、文部科学省がかねてから主導してきた研究振興政策の結果でもある。ある執筆者は主観的発言を控えつつも、「現在の日本の研究環境は理想とは程遠く、持続不可能である。研究環境を整えなければならない」とする。彼らは筆者もよく知る真摯で有能な行政官たちである。もとより、報告書の内容は評価の一部表現であって、全貌というわけではない。この客観データの集積・分析の意味するところ、いかに統計値を多角的に解釈、適切に表現するべきか、彼らの苦悩が伺える。

科学における「失われた20年」

我が国は「失われた30年」と言われるが、経済状況と科学活動の間には10年ほどの時差がある。1990年代初頭、バブル経済崩壊の後も日本の科学力は伸長し続け、米国に次ぎ、分野によっては欧州全体とも拮抗する状況にあった。2000年初頭まで堅調が続くが、その後は20年間近く、日本の科学力は恒常的に衰退を続けてきた。原因の一つは、研究支出の恒常的な低迷で、この間10%しか増加していない。「科学は進歩し、科学技術分野は拡張し続ける」ことを鑑みれば、これは実質的に削減を意味する。米国とドイツでは約80%、フランスで40%、アジア勢では韓国が300%、中国に至っては900%以上の増加である。これでは戦えるはずがない。

この間、多くの企業は、自らなすべき基礎研究から撤退し、自社の成長と国益に資する先端技術開発に舵を切ったとされるが、さりとて世界を席巻する卓越技術が多く生まれたわけでもない。極端な「脱・自前主義」への反省はない。結果として、現在の科学論文の7割は大学発であるため、規模的にトップ4の大学と地方国立大学の減少幅が、全研究力の減衰に大きく影響している。一方で、公的研究機関の基礎科学における役割は相当に大きくなった。

日本の科学技術は、生死の狭間にある。日本人の本来の才能が劣化したはずはないが、当事者たちの情熱の萎縮と深い思索の欠落を懸念する。企業であれ、大学であれ、年配の指導者たちは衰退を傍観するだけ、あるいは不都合への言い逃れ、保身に終始するばかりで、V字型再生に向けリスクをとる決断をしたためしがない。明日に責任を持つべく宿命づけられている大学院生や30-40歳代の研究者、これまでアカデミアで分断されてきた女性たちは、この重ね重ねの失態をどう感じるであろうか。科学界では謙譲は美德でありえず、沈黙も不要である。是非とも勇気を奮って「再生は自分たちに任せろ」と言って欲しい。問題は研究開発費の多寡だけではない。社会環境が不全ならば、思い切って既得権を排除、大規模手術を断行せざるを得ない。行政、科学界、産業経済界は、若い世代の熱い想いに応えるべく最善を尽くすべきであろう。それ以外に復活の道はない。

科学論文数、論文被引用度の変化

自ら強い意思をもち科学強国を目指す中国は、21世紀に入り、先進国を追って急速に論文数を伸ばした。2006年には日本を抜いて米国に次ぐ2位に躍り出て、2018年には遂に首位に立った。筆者は1982年から化学分野でこの流れの中にいたが、やがて2000年前後、多くの国際科学誌が中国発の大量の論文の扱いに追われる事態に及んだ。ここで日本の研究社会は、中国は人海戦術で粗製濫造するだけ、質的には全く比較にならないと言い張った。一面正しくもあったが傲慢に過ぎ、特に人脈の薄い若い世代(現在の指導世代)は実態把握の不足で、依然欧米指向に止まり、危機意識は乏しかった。

その後も中国の決意に衰えはない。研究体制をさらに強化し、急速に、質の近似とされる被引用数上位10%の論文を増やし続けた。その結果、2019-21年にはシェア28.9%を達成、19.2%の米国を圧倒し、勢いは止まらない。他方、成り行き任せ、無策に終始する日本の科学技術の論文シェアは、20年間に6.0%から僅か2.0%に縮減、米英独に次ぐ4位から13位に低落した。韓国、スペイン、さらに僅差ながらイランにも劣後する。ここに「良質論文」生産の量的敗北は明白である。米国、中国は研究者、研究費が多いと言い逃れるが、違いは2.3倍から4倍程度で、決して10−15倍ではない。それでは欧州などの多くの小さな国に劣後する現状をどう説明するのか。

視点を変えて、高質な論文(自然科学82誌、健康医学64誌の約7.5万本)の動向を調査するNature Index 2023を点検しても、日本は下降気味の5位。首位は自然科学では中国、健康科学では米国である。機関別では上位10のうち6機関が中国で、2機関の米国や1機関の独仏を圧倒し、日本組織はようやく東京大学が20位、京都大学が44位。だが、これも規模の問題と言い張れるだろうか。大学も財政当局に、ただ研究資金増額を陳情するだけでは済まされず、抜本的体質改革で勢いの反転を図るべきだ。話題の「国際卓越研究大学」制度でこれを克服できるのだろうか。

では、注目論文の総数ではなく、いったい研究論文の「平均的な質」はどうか。この指標とされるのは、その国で産出される「全論文数に占める被引用数上位10%論文の割合」(Q値)」であり、当然10%は維持すべきである。日本は現在8.0%で、英国の15.9%、米国の13.4%、中国の12.8%に比べて相当に貧しい。韓国の9.6%にも劣後する。実は、分水嶺は2003年ごろにあり、日中韓の力はすでに拮抗していたが、我が国はアジアの揺るぎないリーダーなどと、根拠の乏しい優越感に浸り緊張感を欠く振る舞いを続けた。

近年は、特に、産業技術との関わりが深く、かつて優位性が高かった化学、材料科学、計算機・数学、工学分野などにおけるQ値が7%未満と、下降傾向が大きいことが気がかりである。産学の研究者たちは現在の自らの活力をどう感じているのだろうか。なお、日本化学会の会員数は、1990年代後半の3万9千人をピークとして2万3千人程度に減少し、筆者が学部学生だった1960年頃の水準にある。これでは士気に関わる。いったい学協会とは何か。主要国の化学界に比べて努力不足は明らかであり、年配大学教員と企業人が連携して責任を果たすことを期待している。

近年の研究領域の変容への対応

科学の特徴は、分野が恒常的に変化、拡大し続けることである。全ての科学事象は繋がっている。文部科学省NISTEPの「サイエンスマップ2020」によると、国際的に注目を集める研究領域は919を数え、2002年統計から54%も増えたという。残念ながら、日本は既存分野の盛衰、分裂、複合だけでなく、エネルギー、ナノサイエンス、A Iなどに関連する新分野出現の潮流についていけず、わずか31%(2008年は41%だった)の283領域にしか参加していない。中国の66%、英独の5−6割にも全く及ばない。若手独立研究者が少ないため、広く躍動する分野を見渡して活動してこなかったためだろう。

科学全体としては基礎から応用研究寄りへの変化が見られる。ここでは、米中が全面的に主役であり、中国が先導する領域が216と米国の178領域を凌駕することに注目したい。両国の他国への影響力は異なる。中国は巨大な経済資源、若い国際人材の大部分を、既成分野ではなく新興分野に投入した結果、普遍的領域だけではなく、自ら先導して多くの「Made in China」の工学、学際的領域を開拓してきた。日本が存在感を示す領域もいくつかあるが、強みが伝統的な分野に偏っている。

以上はオープンサイエンスの流れに向けて人材の育成、多様化への対応を怠った結果であるが、研究社会にこの反省があるだろうか。大学教育における硬直化した学部、研究科制度の不具合が原因と考えるが、実際に自らの領域にとどまり続ける個々の研究者たちが、この変化を感じ取ることは困難かもしれない。

先端科学技術志向の科学の競争力

基礎科学力の劣勢傾向は、技術力やイノベーション力に及ぶ。韓国に相当の遅れをとり、米中にはすでに桁違いの差をつけられている。近年、韓国は安全保障面の基本となる先端技術においても日本を凌ぐといわれるが(豪州ASPI政策研究所)、さらに医薬品、電子機器、航空宇宙などのハイテクノロジーにおける技術貿易収支の大きな輸出超(世界首位。日本は30%の赤字)もこの周辺の基礎科学分野の優位性を反映するものではないか。

もはや総体として、日本はこの種の数値指標を基準にする限り、論文の量、質がともに言い逃れができない状況に追い詰められている。しかし、科学技術力の影響を強く受けるはずの社会には、この惨憺たる状況が十分に知らされていないようである。あるいは感知しつつ、自らの役割への批判を恐れて無関心を装っているのだろうか。

なぜ論文を書くのか

そもそも、我が国の大学人は、憲法23条「学問の自由は、これを保障する」に則り、自律的な研究教育を行うが、その高度な水準と倫理的正当性を主張するために、研究成果を(査読)論文として公表する。世界の専門家たちによる自らの成果に対する高い評価は何よりの生き甲斐であるが、ここで認められてはじめて自由の保障が成り立つ。学問の府といえども、過度に恣意的な研究教育活動であってはならない。

論文評価の代理指標は合理的か

Nature誌の記事にある悲観的状況は、我が国の個々の大学研究者たちの努力の問題だけではない。この不幸な状況は、かねてから科学界に蔓延、さらに加速するPublish or Perish傾向に加えて、近年の商業的科学情報・出版界の全学界支配を目論む経営戦略に起因するところが大きい。

残念ながら、昨今、行政や政府系資金配分機関、そして大学上層部すら学術に敬意を払わない。むしろ、権力的に研究者に(分かりやすい)説明責任を求めて、論文の量産を迫るため、劣化した研究環境の中で、若手研究者を中心に疲弊感は強い。現実に、10年間の論文総数の伸びは6%程度と、新興国、先進国に比べて異様に低いが、それでも、年間に約7万本(世界7位)の論文が生産される。しかし、上述のTop10%論文のみならず、Top30%までの論文割合も長期的に低落傾向にある。

さらなる問題は、被引用数が0-3回の論文割合が、実に48.7%と半数近くに及び、他の主要国に比べて高い。この驚くべき数字はいったい何を意味するのか。これらが、他人がその価値に気付かない創造的な「sleeping beauty (眠れる美女)」なら良いが、ほとんどは「研究廃棄物」と呼ばれるものではないかと推察する。少なくとも、この研究水準の代理指標に照らすなら、所期の説明責任を果たすような作品群とは言い難い。

一方で、もちろん誠実な研究者は多く、近年、気の毒な立場にある彼らを弁護しておきたい。大学人は「考える」生き物である。十分な自由な思考時間を必要とするが、最も憂うべきことは、彼らの教学以外の管理業務の増大に伴う著しい時間制約である。時間の質の劣化は国内外共通であるが、大学運営体制不備の日本において特に著しい。大学教員が研究に費やす時間は2002年の47%から2018年には33%にまで減ったというし、新着論文精読に使える時間は1日平均、せいぜい30分程度と聞く。論文一編を熟読、理解できればたいしたものだが、一年を通して僅か300−400本の読書で、いかに創造的な着想を得るのであろうか。私たちの時代は、多くの人が週日の数時間、週末の1日を大学図書室や自宅で静謐に過ごすことができた。いったい日本発の7万本の論文は、世界でどのくらい読まれているだろうか。執筆者個人として、自らの専門分野の広さ、知己の研究者数を想像してみてほしい。他人に興味をもって読まれ、意義が認められて初めて引用される。この過程への無理解が由々しき状況をもたらしている。

現実には、この「他人に読まれない多くの論文」が、また「他人の論文を読まない多くの著者たち」が、膨大な論文を引用している。ここに何の意味があるのだろうか。そして、今日の政治の世界と同じく、この「専門集団迎合民主主義」が蔓延する科学社会では、すべての論文におけるすべての引用論文を平等に扱うという。商業的科学情報機関の都合による非科学的な取り決めである。

資金配分機関はこの経済的な非合理性をどう考えるのか。上記の「ほとんど読まれない論文」の作成についても、多額の研究遂行直接費が必要であり、さらに商業誌投稿論文の掲載費として一編あたり数十万円を支払うと言う。国全体として数万本、合わせて膨大な研究資金の海外流失を招いている。さらに関連する教員、学生、職員の人件費、時間の浪費は巨大である。もとより、評価の未知、不可能への挑戦の成否は不確実なので、忍耐と寛容は必要である。しかし、これで、行政も研究現場も一般社会に対して、研究・教育費配分に十分な「説明責任」を果たしているわけがないではないか。

科学技術の進化への確実な対応を

論文被引用度という指標で測る限り、他国から心配してもらうほど日本の科学力は極度に低迷している。しかし、高頻度引用論文研究と創造的研究とは同義ではないし、決して日本の研究者たちの能力が劣るわけではないことも、銘記したい。

実際に、筆者が接する有力研究者たちが自信をもって語る成果は力強く、質は高い。毎年秋になれば、メディアも我が国は誇るべきノーベル賞大国であり、自然科学3賞とも候補者が目白押しと囃し立てるが、確かにそうかもしれない。もちろん、この栄誉に向けて研究者が競争するものではなく、授賞の判断はスウェーデンの選考委員会の主観に委ねられる。自国主義に偏ってはならないが、今後とも日本人受賞が相次ぐことを願っている。

では、日本が主張する研究力と上記の論文引用数解析の結果の齟齬は何か。主たる論点は、評価対象となる研究分野や主題の「時間軸上のフェーズのずれ」である。研究実績評価は、しばしば過去の営みにつき長期的かつ多面的な視点でなされる。ノーベル賞受賞者リストは、おおよそ10年以上昔の状況を反映した「遅行指標」である。他方、論文被引用度解析は、主として当該論研究論文の近年の注目度、専門分野の盛衰を反映しているだけで、当然、科学的、思想的、社会的洞察は不在である。両者の性格は全く異なる。

過去の我が国の研究実績が高く評価されるとすれば、それは20世紀の環境に即した施策、研究体制と運営、研究者たちの献身の結果である。基礎・応用研究とその技術的展開を合わせて社会経済への恩恵も多とすべきであろう。しかし、科学技術は進歩し続けて、国の優勝劣敗、世界の地政学をも左右する。近年の惨憺たる一連の統計結果は、決して明るい未来を約束するものではない。冒頭のNature誌の警告には強く抗議すべきなのか、それとも消極的ではあっても感謝すべきだろうか。