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閉幕セッション
未来へつなぐ科学のひろば~サイエンス、社会、そして人~

日時: 2010年11月21日(日) 15:00~17:00

会場: 東京国際交流館 国際交流会議場

登壇者(敬称略)

基調講演「科学者維新塾:理系博士が日本を救う」:
河田聡(科学者維新塾塾長、大阪大学教授)
パネル討論:
伊藤智義(千葉大学教授)
小川義和(国立科学博物館学習企画・調整課長)
五島政一(国立教育政策研究所 総括研究官)
元村有希子(毎日新聞東京本社科学環境部副部長)
河田聡
モデレーター:
美馬のゆり(公立はこだて未来大学教授)
司会:
中村征樹(サイエンスアゴラ2010企画委員)

中村:ただいまより閉幕セッション「未来へつなぐ科学のひろば~サイエンス、社会、そして人」を開会致します。サイエンスアゴラ2010企画委員の中村征樹です。今回の閉幕セッションは、人を共通テーマに、社会におけるサイエンスと私達の関わり、そして特に未来を拓く人材とそれを育む環境構築をいかにすべきかをという課題について、論じ合いたいと思い企画しました。サイエンスアゴラ2010は、科学技術でどのような日本を目指せばよいのか、そのためにはどのような研究環境を整える必要があるのかを論じ合った開幕シンポジウムを皮切りに、様々なシンポジウム、ワークショップ、トークセッション、ブース展示、ポスターセッションなどが実施されました。

最後を締めくくる本セッションでは、未来を拓く理系人材、あるいは科学リテラシーを備えた人たちをどのように育てていけばよいかについて語り合う中で、サイエンスアゴラに集う多様なセクターの人々が改めて問題意識を共有し、連携を強化していくきっかけとなる場になればと願っています。

それでは、科学者維新塾という活動を創設し、自ら塾長を務めていらっしゃいます大阪大学教授の河田聡様より、「科学維新塾:理系博士が日本を救う」というタイトルで話題提供していただきます。

河田:皆さんこんにちは。河田と申します。今日は、私がやっている科学者維新塾という塾のお話をしようと思ってまいりました。この塾を2年前に大阪で作った時に、マスコミの方々から結構取材を受けて、河田がかわいそうな理系のポスドクや理系博士を救おうとしているという記事を書いていただきました。しかし私は理系のポスドクも理系の博士も、救う気は全然ありませんでした。そうではなくて、彼らが日本を救うのだという思いで作った塾です。

お見せしていますビューグラフは、尖閣列島でのセンセーショナルな事件の映像です。YouTubeに流れた映像ですが、この事件が示唆するように、日本は今、混沌とした状態にあると思います。日本人みんなが自信をなくして、大切なことほど決断できない、決断すると失敗するかもしれないという不安に駆られるという状況にあります。まさに閉塞状態です。

この国は、官僚の方々が引っ張ってこられたというのが戦後の日本の歴史だと思います。しかし、官僚の方々は法律を作ることも政治的判断をすることもなく、規則に従って仕事をします。したがって、前例主義でコンサバティブにならざるを得ません。リスクを伴うデリケートな決断はできないのです。いまの日本は、国全体がリスクを伴う決断を回避したがる官僚的社会になってしまいました。

尖閣諸島ならぬ浦賀沖に黒船がやってきた時も、日本人はなかなか決断できませんでした。幕府と朝廷や大勢のお殿様がいましたが、皆、困った困った、どうしようと騒ぐばかりで、決断を出来なかったのです。その時に日本の方向を決めて、日本の国を救ったのは、脱藩した下級の武士、浪人たちでした。彼等は今で言うフリーターに相当するかもしれません。

村上龍の『半島を出よ』という小説は、外国からの侵略に対してフリーターとニートが日本を救うという物語ですが、かつての日本には本当にそういう状況にあったのです。脱藩した浪人達が日本を救い、その後の日本を作ったのです。

脱藩した浪人は、今の時代はどこにいるのでしょうか。それは理系博士、ポスドクだと思います。経済的にも精神的にも苦労し将来に不安をもちながらも人と違う道を歩く事を選び、昼も夜もなく研究に専念し学問を学んでいる。彼らです。彼らこそが平成の志士であり、日本を救うのではないだろうか、あるいは救うべきではないかと考えました。私達がやっている塾のモデルは、幕末にあった緒方洪庵の適塾です。

適塾は1868年まで大阪の北浜にありました。洪庵はその1年後に亡くなられて、その1年後に大阪府立大阪医学校、要するに阪大の医学部になりました。国立大学が保有し現存している最古のオリジナルな建物です。もし大阪に行かれたらぜひ見学に行かれるとよいと思います。2階に上がると30畳の畳の部屋があって、そこに30人の若者が地方から来て、蘭学を勉強していたそうです。蘭学を勉強していたということは、塾生たちは西洋医学を学び医者になることを目指していたはずなのですが、塾生たちのすべてが医者になったわけではありません。

司馬遼太郎の『花神』という小説があります。主人公は、後に陸軍を作った軍事戦略家の大村益次郎です。その大村益次郎も適塾で勉強しました。適塾は、そのほか、安政の大獄で処刑された橋本佐内や赤十字社を作った佐野常民や、特に有名なのは福沢諭吉など、幕末の明治に活躍をした人達をたくさん輩出しています。

福沢諭吉の『福翁自伝』にも、この塾のことが詳しく書いてあります。福沢諭吉は、緒方洪庵に非常に可愛がられて、若くして塾頭に抜擢されました。彼は適塾のすぐ近くの、中津藩の大阪藩邸で生まれて、この塾で勉強しました。『福翁自伝』によれば、これは他の本にも出てきますが、緒方洪庵は皆に、ここで西洋医学を勉強したからといって医者にならなくても構わないと話していたそうです。蘭学を勉強するということは西洋医学に限らず、科学を勉強したわけです。しかし、蘭学を勉強したからといって、サイエンティスト、科学者にもならなくてもいいのです。苦労して勉強をして、みなで競い合ったということが大事です。その結果、さっき申し上げた人達や、他の様々なキャリアに進む人達が育ったのです。福沢諭吉はその後中津藩に求められて江戸に出て、時事新報というメディアを作り、慶応義塾という学校を作り、起業を大いに援助し、いろいろな人を育てました。特に代表的なのは、慶応義塾の創設だろうと思います。科学者塾で勉強した福沢諭吉が、様々な社会への貢献を実現したのです。

皆さんがいちばんよくご存知な諭吉の言葉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。この言葉を聞くと、なんとなく日本の戦後教育に似てると思われるかもしれません。あるいは、最近の格差社会を批判するムードと似ているかもしれません。明治の初めは、封建主義から突然ある種の民主主義に変わって、非常にリベラルになりました。その時に、福沢諭吉が『学問のすヽめ』で言いたかったことは、みんなは平等ですよではないのです、福沢諭吉が言いたかったのは、その最後に続く部分、「生まれながら貴銭上下の差別なく」からです。そして「されども」と続きます。「されども今広くこの人間社会を見渡すに、貧しきもあり富めるもありて、その有様雲と泥との相違あるに似たる」と。どうして人は実際には平等でないかというと、生まれつき平等であるのだけども、学ばなかった人と学んだ人で差ができるのだ。だから学問のすすめ、勉強をしなさいと、福沢諭吉は一般の人達に説いたのです。「故に、医者、学者」等々、お金持ち、経営者といった人たちは努力をしている人たちであって、そうした人たちを悪く言っているのではありません。人に差があるとしたら、それは学問の力によるのだと言いたかったのです。まぁ、必ずしもこれを全部肯定する必要はないわけですが、人は平等だといいながら、努力するしないで結果は違いますよということを、福沢諭吉は哲学としてずっと持っていたのです。

私が科学者維新塾で塾生たちに言っているのは、博士というものは職業ではないということです。博士は資格である。ミスター河田とドクター河田の違い、それは資格です。医師免許や車の自動二輪の免許と同じです。

もうひとつ言っていることは、博士とは研究者という意味ではない。研究者は別に博士じゃなくてもなれます。研究をした日から研究者です。では、博士って何かっていうと、研究者じゃなくって、博学である人なんです。広く学問に通じている人です。博識である。要するに、一生懸命勉強して苦労して努力をして、広い知識を持っている人です。そういう資格をもって、次の世界に貢献していく、日本の社会に世界に、あるいは科学も含めていろいろな分野で貢献していく人たちです。

福沢諭吉の言葉に、「独立自尊」という言葉があります。何かに頼って誰かに雇ってもらって誰かに育てられてというのではなくて、自立せよということです。「国を支えて国に頼らず」を実践できる人が、博士なのではないかと考えています。これは今日のセッションの話題とどれくらい重なるかわからないのですが、福沢諭吉の『文明論之概略』という本には多くの大切なことが書いてあります。その中のひとつに、「学者宜しく世間の喧しきを憚らず、異端妄説の譏を恐るることなく、勇を振ひて我が思ふ所の説を吐く可し」という文章が出てきます。みんなと違うことを言ったり何か新しい行動を起こすと、必ずたくさんの人から批判を受けます。前例のないことをやると必ずリスクが伴います。危険です。普通の人がやると、大変ダメージを受けます。十分に苦労して勉強して努力をして、それが何の分野であっても構いませんが、そういうことを実践してきた博士なら、それができるはずです。

この次にくる文章は、「故に昔年の異端妄説は今世の通論なり」というものです。昨日まではむちゃくちゃだといわれていたことが、今日は当たり前になる。科学とはそういうものです。ある日に全てがひっくり返されるわけです。天動説と地動説の関係もそうですし、1905年のアインシュタインのミラクルイヤーの3つの説もそうです。ニュートンの重力の発見もそうです。木からリンゴが落ちてくるのはみんな納得できるけれど、月は落ちてこないじゃないか。それは引っ張り合っているからだという話は、最初は異端妄説。でも、そういうことを言うのを恐れると科学は進歩しない。科学者というのは異端妄説を言うことです。そのためには十分な裏付けが必要であるわけですが、それがドクターコースあるいはポスドク期間に鍛えられるのです。必ずしもドクターをとらずに中退された方、あるいはドクターを目指そうとして結局は行かなかった方も含めてですが、博士を目指すということは研究者になることではありません。博士を目指すということはそしりを恐れず新しいものを創り出す人になることなのです。

異端妄説を発言できる人は、ある種の破壊者でもあります。創造と破壊は裏表。イノベーションという言葉を作ったシュンペーターの言葉そのものですが、創造することによって何かが破壊されて新しいものが生まれてきます。その能力のある人が全員研究者になる必要はない。ぼくは、科学者と研究者は同じではないと思っていますから。科学者であることは構わないけれど、研究者はそんなにたくさんいらないだろうと思っています。理系の博士は、世の中のもっと広い分野で求められているのではないでしょうか。

日本で軍事戦略家になるというのはありえないと思いますが、外国では理系博士が軍事戦略家というのは1つのキャリアだと思います。裏付けと自信と努力に基づいて生きている人が政治家になるのもよいでしょう。失敗を恐れず既存企業にないビジネスを生み出す起業家、画家、音楽家、それからサイエンスコミュニケーター、ジャーナリストなどになるのもいいでしょう。

持ち時間が過ぎているのに気がついたので速めますが、そういうことで、科学者維新塾を2年前から始めました。たまたま昨日11月20日が今年の最終回で、塾生達が発表会をしました。塾生は30人限定です。30人が議論できるマックスだからです。スポンサーがいないので、給料をもらっているポスドクの方や奨学金をもらっているドクターの方には、参加費が1年間10回で2万円、収入のない学生の方とかは年10回で1万円塾費を払います。あとは私個人と仲間達がお金を出してやっています。講師の方々には、ボランティアでお話しいただいています。まさに自主独立、独立自尊の塾です。

今まで参加してくれている人達をご紹介します。鈴木寛さんが文部科学副大臣になるとは想像もしていなかった野党議員の時に、彼と一緒に始めました。今は公的な立場になられたので、こんなところで名前を出していいのかわからないのですが、鈴木さんも講師の1人。梅村聡さんは、癌で闘病しながら最後まで癌患者救済の法案作成に尽力された民主党の山本代議士の後を継いで参議院議員になられた方。阪大の医学部の大学院生から前々回の参議院選挙で政治家になられた方です。それから元朝日新聞の新聞記者で、大新聞社という組織の中でのジャーナリストとしての行動の限界を感じて退職され、今フリーライターとして活躍されている井上久男さん。彼は文科系の博士単位取得者です。高嶋哲夫さんは、『ミッドナイト・イーグル』などの小説で知られる小説家。慶応工学部の大学院に行って、その後アメリカに渡り、Ph.D.は結局取らずに小説家になられました。そしてサイエンスアゴラでも大変お世話になっておりますが、翻訳家で最近も『種の起源』を訳されたサイエンスライターの渡辺政隆さん。東大で博士取得退学です。東工大でPh.D.を取られて、科学者の道ではなくて科学技術雑誌の編集長になられた西村吉雄さん。『ネイチャー』編集者で東京在住のレイチェル・ワンさんはマレーシア出身の女性です。家族が多かったため経済的理由で大学院に進めず、シンガポールで働いた後、奨学金を得てイギリスのアストン大学の博士コースに行ってドクターを取られました。いずれは教授になろうと思っておられたけれど、論文を書く研究者のサポートをしたいと考えられて『ネイチャー』の編集者になられました。ドクターコースに進みつつベンチャー企業を起こした渡辺君人さん。謝林さんは中国出身で、東大で博士を取って国研を経て大企業に勤めておられましたが、ベンチャー企業の経営者になられました。日本のベンチャーには起業家はいるけれども、経営者がいないんです。浅井亮介さんは、博士取得後にポスドクを何年もしておられるうちに、研究者をサポートする役がしたいと言って、大学の事務に入られて、今はJSPSのプログラムを担当されています。こんな人達が集まって、大阪で自主独立の自主講座を開催しています。

東京の仲間達がぜひ東京でもやりたいと言いだして、来年の1月からお茶の水でも開講します。そうするとますますぼくの個人的な時間がなくなるのですが、皆さんぜひよろしくご支援いただきたいと思います。理系博士をぼくたちが救うのではなくて、理系博士が私たちを救ってくれるのだという考えの基に、塾を開催しています。皆様にご紹介させていただきました。ご清聴どうもありがとうございました。

中村:河田様、ありがとうございました。理系博士が日本を創る、研究者になるだけが道ではなく、いろいろな道で将来の日本を切り開いていくための人材になるというのはすばらしいことだと思いました。科学に対して知識と経験と、また様々な才能を持った人たちが、日本のために活動していく、活躍していく、そのような場を作っていくことがとても重要なのではないかと思います。これはまさに、本日の閉幕セッションのテーマそのものです。夢を持てる社会を作っていくために、理系の素養を持っている人たち、あるいは理系にとどまらず、様々な才能と知識と興味関心を持ってる人たちが活躍していけるようなその場を作っていく、そのために何が必要なのかということを、皆さんといっしょに考えていければと思います。

ということで、パネル討論『サイエンス、社会、そして人』に移りたいと思います。ここからの進行は、公立はこだて未来大学教授の美馬のゆり様にお願いします。

美馬:お待たせいたしました。それではこれからパネル討論『サイエンス、社会、そして人』を始めさせていただきます。私は、本日のモデレーターを務めさせていただきます公立はこだて未来大学の美馬でございます。

サイエンスアゴラ2010の開会シンポジウムにご参加なさった方も多くいらっしゃると思います。そこでは、特に科学技術政策を中心に、研究支援、研究促進をメインにした話し合いがなされました。その中で必要とされたのが、科学者と行政との対話、そこに市民も参加しながら、日本の科学技術の研究をどういうふうに進めていくのか、促進していくのかが主に話し合われました。この閉幕セッションでは、それに対応するように、特に人材育成というところに焦点を当てます。開幕セッションとの対応で考えますと、じゃあそれは教育者と行政との対話が必要なのかというと、どうもそうではないだろうということになります。人材育成ということでは、子ども、これから社会を担っていく子どもたちがどのような社会の中にいるのか、それを取り巻く社会はどうであるのかということを考えなければならない。子どもたちを中心に見てみますと、その周りは学校であったり、家庭であったり、メディアの影響が多くあると考えられます。そこで本日は、そうしたことに関係する方々にご登壇いただき、それぞれどのような取り組みをなさっているのかをお話しいただこうと思っています。まずは、伊藤様からお話をお願いします。

伊藤:千葉大学の伊藤と申します。自己紹介をかねて、自分がやってきたことをお話しします。私は20年くらい前、学生の頃に漫画の原作を書いていました。『栄光なき天才たち』というタイトルで、もともとは集英社ヤングジャンプで掲載されていたのですが、今年になって講談社の漫画文庫からも復刻されました。傑出した能力や業績がありながらも、当時の社会からは認められなかった人たちを描いたノンフィクションです。ただし、それぞれの生涯には強烈な輝きがありました。自分自身にしかない夢や目標を、追いかけ続けていく強い信念があったからだと思います。私は、夢を持てることは1つの才能であり、夢を追い続けることは1つの勇気である、という思いを込めて書かせていただきました。

青春ドラマとか、いろいろなところで、皆さん夢を持ちましょうとか、意外と気楽に夢を持つことはいいことだということが語られますが、夢を持つというのは意外と難しいと思っています。ですから、何か好きなことを見つけられるっていうのは、それだけでも才能じゃないかなと思ったりしています。さらにですね、それを追い続けるというのもすごい。たとえば何かの職人さんに、これくらいになるまでには何年かかりますかというインタビューをすると、まぁ10年くらいはかかりますねと言われて、まあすごいですねっていうような番組がありますけれど、それは裏を返すと、10年同じことを続けられるというのが1つの才能であり、勇気であると思っています。

私自身は、少し思い込みの強い性格もあって、夢を見ることは得意だったと思います。青年時代になりたかったものがいくつかあって、その1つが科学者でした。中学生の頃に歴史とかを勉強しているときにですね、世の中を本当に動かしているのは誰だろうかとなんとなく考えたら、政治家とかではなくて、文明が進んでいく中で何かを成し遂げた名も知れない技術者だったり科学者だったりするのではないか。そう思うと、最もかっこいい職業は科学者だと、中学校の頃にふと思ったんです。それであの、そういう道に進みたいと思いました。

高校生のときには、国語の時間に作文を褒められたことがありました。「面白いぞ」と。そしたら何を勘違いしたのか、自分には文才があると思ったんですね。思い込んでしまった。それで、高校生で作家になったらかっこいいなと思ったことがあります。さらにですね、私は大学を卒業するまでに4年間だぶっていて、このままだと普通の企業に就職できないと思ったので、教員免許を取るために教育実習に行ったら面白かったんですね。そうすると、高校の先生になりたい、と思ったりするわけです。

というわけで、当時は恥ずかしくて口にはできませんでしたが、自分自身の中には将来の理想像がありました。高校の教員をやりながら若者に夢を語り、ともに夢を追い、そのかたわらで本を書いて高収入を得て、研究は趣味の範囲で自由に行い、大発見大発明をして歴史に名を残す。という、まあ、夢というか、白昼夢ですね。

ですけれども、勘違いも続けていくと、そのうち現実味を持ってきたりします。まず一番難しいと思われた作者ですが、文才があると思い込んで高校の時からヤングジャンプの原作賞に応募していたら、続けていくうちに、大学の3年ですから7年くらいかかりましたが、賞をもらってデビューさせていただくことができました。それが『栄光なき天才たち』です。当時はバブルの全盛期だったので、単行本が出ると年収が跳ね上がり、大学院1年生のときに年収が1400万円を超えました。非常にいい時代でしたね。その年に希望の大学院に受かりましたので、漫画は一旦やめにして、研究者の道をめざしました。そしたら運がいいことに、3年後にある大学で助手のポストに就くことができました。ただし、そのときの年収は300万円で、今は教授になりましたが、大学院1年生の頃の年収には届いていません。

最後に残った高校の先生という夢は、大学院に入ったからできないなと思っていたのですが、教員免許は学部を出たときから有効なので大学院に通いながらでもできることを知り、大学院時代の2年間、私立高校で非常勤の数学の先生をやりました。それを辞めて大学の職についた2年後に、その高校に女優の菅野美穂さんが入学してきたらしいので、東京に残ってもうちょっと続けていたらよかったなと思うことがあったりします。最後は関係のないことで恐縮ですが、簡単な自己紹介でした。

美馬:引き続き、国立科学博物館学習・企画調整課長の小川様お願い致します。

小川:科学博物館の小川です。私は自己紹介ではなく、どういう社会を作っていくのかという問題意識に関連して、こんなことがあったらいいなというのを簡単にまとめてみました。こういう議論は、今日だけに終わらせずに、ぜひ続けてやっていただきたいと思っています。私は、サイエンスコミュニケーターの養成講座をやっておりますが、サイエンスコミュニケーションを考えていく場合には三段階ぐらいの枠組み考えてはどうかと思っています。

最初は、目標のレベルがあると思います。自立した個人が社会を構成しているというのがすごく重要なことで、個人が自立しつつも、自立しっぱなしだと孤立してしまうので必要に応じて協働するような仕組みが必要だろうと思います。多分そこで、サイエンスコミュニケーションという人と人をつなぐ機能が重要になるのかなと思います。

次は政策レベルですが、ここで話題になっている人材育成の政策ですが、これは科学を楽しみ、知識を活用し、課題に対して適切に対応できる人材、言いえるなら科学リテラシーをもった人材が望ましい。一般の人々にここを目指してほしいと思います。その中で、特にこういう人材を育てるためにはどういう能力が必要かという議論は、いずれしなきゃいけないのですが、今日は省略します。例えば必要な能力としては、4つくらいにまとめられます。それは科学に限ったものではなく、基本的には論理的な思考力だとか、社会生活をするに当たり必要な能力です。その中で特にコミュニケーションに秀でた人、それがサイエンスコミュニケーション能力を有した人ということで、知の循環型、知の社会還元を担う人材となります。一方科学的知識を身につけ、研究を行う人材が知の創造を担う人材として位置づけられます。

こういう人たちを育てていくためには、いくつかの既存の機関、社会教育や学校教育の機関を活用して、人材を育成していく必要があると思います。この組み合わせ、資源の連携・協働が、非常に重要な戦略になると思います。それも、できれば幼児から熟年期まで合わせて世代別にどのような戦略マップが組めるかというところを議論できればいいのではないかと思います。今日は細かい話は議論しないつもりですが、各地域で、地域の課題に対応した機関連携マップみたいなものを作っていただいて進めていったらいいのではないかと思います。

さて地域を考えた場合、目標の「どんな社会を目指すのか」というのは漠然としていますので、ここではサイエンスコミュニケーターを中心に位置づけ考えてみました。一般の人々、科学コミュニティ、教育機関、企業、メディア、政府・行政という、社会を構成する6つの領域があって、この間を繋ぐものをサイエンスコミュニケーター、またこの中で行われるものをサイエンスコミュニケーションと考えたい。この領域のそれぞれの人たちの持っているいろいろな課題があると思います。その課題、地域の課題に対して知恵を出し合って解決していく。また地域にある知を掘り起こして、知を創造し、知を共有していく。継承し発展していく。こういう活動を、ぜひサイエンスコミュニケーター等が行えるといいのではないかと思っています。サイエンスコミュニケーターというよりは、むしろサイエンスプロデューサーと呼んでいいのかもしれませんが、そういった地域の様々な課題に対して答えていくことが重要かと思います。小さい地域の単位で社会を考えていくといいのではないかと思います。

美馬:五島さんお願いします。

五島:国立教育政策研究所の五島です。私は16年間中学校で理科の教員をやっておりました。今は研究者をやっています。なぜ教員になったのかといと、高校生の時に素晴らしい英語の先生に出会いまして、世の中に学問の好きな人がいることを知ったのが、自分も教員になった動機づけです。理科の先生じゃないんですけど。ですから自分が教員になって、いかに子どもに魅力ある授業をやるのかを、常に考えて実践してきました。

今は研究所にいて、カリキュラムの開発とか、評価の方法など、いろいろな仕事がありますけれども、私にとっての生涯の目標は、自分が習ったような先生にいかにしたらなれるか、そういう先生になりたいと思って努力してきました。そして、そういう先生をどうやって育てるかを1つの研究テーマにしています。簡単に言えば、テストとか受験のための科学教育ではなくて、問題解決とか、日々の生活の中で科学を楽しめるような子どもは、どんな教員によって育てられるのかです。

私も理学部の物理学科を出ているのですが、教員としての基盤、知識の面も技能の面もその基礎となる部分は、大学で養成している。だけど現実に教員になると、私が目指した教師になるためには、実は20年くらいかかるなと考えています。私は途中までしかやっていませんから、完璧にはそこまでいかなかったのですが、これは自分や友人の実体験を交えた経験から言えることです。そこで、20年くらいでいい先生を作るためにはどうすればよいか。最初の5年間は、多分、教科書を教えるのに必死で、まあまあわかりやすく教える。そのほか、生徒指導とか部活動とか、進路指導とか、いろいろなものを必死になってやっていく。そういう中で、これは私の1つの動機づけなのですが、子どもたちに魅力ある授業をやるために、たとえば遺伝の授業をやるときにメンデルに扮して授業をする。これは子どもたちに魅力的な授業をする1つの例です。最初の5年間くらいは、多分そういう教員像でいいかと思います。

5年目から10年目くらいにかけては、学校の教員生活に慣れてきて、今度は自分で教材とか教具を開発するようになる。写真は地震波がどうやって伝わるかというのを見せるウェーブマシンなんですけれど、これを買うと20万円はする。中学校で20万円というと、それだけで年間の予算がなくなってしまう。そこで、100円ショップで綿棒とパンツのゴムを買ってきて、簡単なシミュレーションが同じようにできる装置を工夫しました。また、これは実験をイメージで再現できる飛び出す絵本で、すごく人気があるんです。あとは断層。私の専門は地学教育ですので、断層をモデル作ってみるとか、5年目から10年目くらいにはそういう教材を開発できる先生になる。いよいよ最後はどういう先生なのかというと、おそらくそれは、総合的な学習をイメージするとわかりやすいと思います。地域の自然を使って探究的な学習を指導できるような先生を育てていきたいと考えています。

今の学習指導要領にもそういう教育をやりましょうと書いてありますが、実際に子どもたちが地域の中に出てテーマを見つけていろいろ調べる教育をやる。そうすると、地域の動植物などについて、先生も当然勉強するようになります。そういうのをまとめていくと、地域の副読本というか、三浦半島の地層ですとか、三浦の植物とか、三浦の人文関係などをまとめた副読本がたくさんできてくる。そういう中で、本当に興味をもった子どもは、優秀な子どもですね。そういう子たちは学生科学賞などに応募させて、県知事賞とか内閣総理大臣賞を取る。そうすると地域が活気づく。神奈川県の三浦は、昔はマグロで有名な漁業の町だったんですが、今は寂れている。そういうところが一気に活気づく。おらが町の子どもたちがということで、夢が出てくる。地域を利用した授業をやっていると、子どもたちが地域のいろいろながらくたを集めてきます。そうしたがらくたで理科室が博物館のようになってくる。

そういう教育は、受験勉強ではなくて、自分たちの周辺の自然や文化を調べてミニ博物館を作ることに繋がる貴重な教育になるのではないかと思うわけです。そうすると、先生はいろいろなことを学ぶ必要が出てくるので、博物館を利用したり大学を利用したり、地域の自然にくわしい人に教えを請う中で、キノコのおじさんとか野鳥大好きなおじさんとかとのネットワークができていく。そんな教育ができたらいいなあと思ってやってきました。実は、そういう教員が、百年くらい前の日本にはいたわけですよ。例えば、物理で言うならば寺田寅彦、地学で言うなら宮沢賢治です。そういう人と同じになることはできないけれど、そういうセンスを持った教員は育てられると思っています。以上です。

美馬:最後のパネリスト、元村さんお願いします。

元村:私は、高校時代に理科が嫌いで、文転したという人間ですが、今は科学を伝える仕事に就いています。昨日、同じお台場で開かれた就職フェアに行ってきました。私が進行役をして3つのトークショーをしたんですね。理系の就職活動をしている人達が並ぶ前で、理系出身でいろいろな仕事に就いている人をステージに招いて、仕事がどんなふうに面白いとか、どういうふうに就職活動したのとか、どうやってこの会社に決めたのですかというのを、公開インタビューみたいな形式で学生さんに聞いてもらうということをやりました。

その3人の中の1人が、ゲームクリエイターでした。現在34歳の人なんですけども、大学時代からゲームが作りたくて作りたくてたまらない。それで、高校の時から好きだったので大学の学科もそういうところを選んで、それから就職活動もほとんどせず、もうゲーム業界一本。それで、入った会社で体を壊したのに、ドクターストップがかかってもそれでもやりたくって、二度目の就職もゲーム業界ですというようなお話をたっぷりとしてもらいました。150人くらいの学生さんが聞いてたのですけれども、終わった後でアンケートの自由回答欄を見ていたら、かなりの数の感想が、「自分の好きなことを仕事に選んでいいことがわかった」というものでした。理系の人にそういう感想を書かれるっていうのは、ちょっとショックでした。

よく考えたら、今20歳21歳の彼らっていうのは、生まれた瞬間から不景気の中にいて、しかも親から不景気だ不景気だと聞かされて、右肩下がりの経済の中でネガティブな情報ばかりに曝されて大きくなってきた。理系の学部に進んだけれども、皆さんが熱く語っているような自分の好きなことを仕事にしたいとか、科学者になろうとかという志を持てないでいるんですよね。率直に言って、それで大丈夫なのかなと思いました。

私は科学記者として、「理系白書」という連載を通して、河田さんがおっしゃったように、理系が日本を救うと訴え続けてきました。ですけれども、去年の政権交代で理系の博士が首相になられたものの、日本を救えなかったですよね。二代目も理系の方なのに、また混乱の時期にある。つまり理系に行くということや、科学を勉強するということと、社会を変えるっていうところにはかなりのギャップがあって、うまくリンクしてないところが問題なのではないかなと思うんです。だから、ここで「理系が日本を救う」と言いたいのですけれども、理系と文系、いろいろなセクターの人が協働しないと社会は変わらないなということを強く感じています。

その一方で今年は、社会は科学に夢を託したがるのだなと思わせられた1年でした。2010年を振り返ると、科学ニュースが目白押しで、科学記者としては、忙しいながらも充実した1年でした。例えば、山崎直子さんが4月にスペースシャトルで宇宙に行って、それから6月に野口聡一さんが帰ってきて、同じ月にはやぶさが帰ってきて、10月にはノーベル賞が2人。ということで、新聞で言うと一面もののニュースが目白押しでした。科学ニュースというのは、どちらかというとマイナーな存在で、なかなか一面に顔を出せないという宿命にあるのですが、今年はかなり控えめにプレゼンをしても、必ず一面になるという、これでいいのかしら、こんなに幸せでいいのかなというような状況が続きました。

一面のニュースのラインナップを決める編集者に聞いたところ、「はやぶさ以外のニュースは全部暗い、一面を見て暗くなるような新聞は作りたくないんだ」と言う。逆に言うと、はやぶさが夢を与えてくれる、あるいは日本ってすごいなあ、元気になれるなっていうメッセージを、ニュースで読者に届けられたということなんです。これは本当にすごいことです。こういう感じで、科学がポジティブに受け止められていけばいいなと思いますけれども、じゃあその科学を生み出す人がきちんと育っているのかということを、今日この場で考えなければいけないわけです。それと、人材を「育てる」って、さっきから何回も出ていますけれども、人材を育てるという発想だと、やはり限界があるような気もします。

例えばアメリカに飛び出して、必要なことはすべてアメリカで学んだっておっしゃった根岸さん。なんでアメリカに行かなければいけなかったのか。アメリカに行かなかったらノーベル賞を取れなかったのかということも含めて考えないといけない。だから、人材を育てるというより、「人材が育つことをどう支援するか」という視点も必要なのかなと思ったりもします。

それで、スライドを1枚用意しました。20年後、メディアで私がどういう仕事をすればいいかということなのですけれど、もうメディアは混とんとしていて予測不能です。むしろ、新聞とかテレビとか、既存のメディアに限らず、いろいろな人が個人でも発信できるようになっていますし、公共メディアも、これから実力を蓄えていくでしょうから、いろいろな人がいろいろなメディアを通して、自分たちの手法なり表現方法で伝えていく。議論したり、伝えたり、楽しんだりするような時代が来ると思います。私はそれでいいと思っています。メディアリテラシーの話は、あとでまた議論したいと思います。以上です。

美馬:今こちらに登壇なさっている5人の方は、ちょうど元村さんのこのスライドの最後にある「多様性は活気の源」という言葉そのままです。そしてまさに、多様な人材を育てるというお話が出てきました。科学と社会の新たな関係の構築が必要だというのは、サイエンスアゴラに参加されている方は皆さん、同じ思いの方が多いと思います。そういう中で、今回出てきた話として、教員養成なども含めた科学リテラシーの向上が1つ、それと、トップの科学者をいかに育てていくかということだけではないというところに、焦点があてられていたと思います。科学技術を基盤とする社会を支えるための有能な専門人材ということでは、科学者、技術者のほかに、そういう社会を効率よく動かすための産業やサービスに従事する人材であったり、科学や教育イベントを企画したり、そういったものをコミュニケートして伝えていく人材が必要であるというような話も出てきました。河田さん、皆さんのお話を聞かれて、今回ご自身の活動も含めて、人材を育てるということについて、お考えお聞かせいただけますか。

河田:元村さんのスライドにあった、「多様性が活気の源」に尽きると、ぼくは思います。日本の社会は、赤信号をみんなで渡ることほど怖いことは実はないのに、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言いたがる社会です。マスメディア、大企業、巨大政党、要するに大きなものが勝つという社会だったと思うんです。市民運動にしても、ぼくらが学生の時は、みんなでベトナム戦争反対って言っていればよかった。その中で違う意見は、やっぱり言えなかった。ところが今は、ベトナム戦争反対という1つのキーワードで議論をする時代ではなくなっている。マスメディアではなくて、個人個人が情報を発信する、大企業ではなくて、個人個人が会社を作る、そういう時代がようやく先進国として、日本にも訪れつつあるのではないかと思います。アメリカと同じような形に、40年くらい遅れてなりつつあるのではないかと思っています。個人個人ということでは、博士課程に進んだ人が、その役割を果たしてほしいとぼくは思っていますが、一人ひとりが違うことを言わないといけない。でも、二番目に言ったら、それはもう人のまねです。誰も言っていないときに、ただ1人違うこと言ってこそ初めて、それが論文になる。そういうことをやるのを怖く思わなくて、その後もみんなを説得していけるような人が、日本でたくさん育っていかないと、日本は多様性のある活気のある社会にならないと思っています。その意味で、私の仕事としては、そういう志をおそらくポテンシャルとして持っている、博士課程に進んだ人たち、人と違うこということばかり毎日考えて、人と違う結果を示すことばかり考えて、みんなが出来ないと言ってたことをやろうとしていた人達、この人たちをポスドクとか研究者から解きほどいて社会の中に出し、運動していってくれるようにしてあげたい。それは、伊藤さんが、夢を持つことも才能だとおっしゃったとおりです。夢がいくつもあって、やりたいことがたくさんあって、どれになったらいいかわからないという人が、たくさん増えてきてほしい。そのためには、多様化というものが社会の中に生まれつつあることが必要です。そこに科学者として、お手伝いをしたいと、皆様のお話を聞いて感じました。

美馬:人材を育成していくという図が小川さんのスライドに出てきました。人材育成が戦略としてうまくいくかどうかはさておき、こういう子どもたち、人材育成といったときには学校教育だけではなく、幼児から熟年期・高齢期まであって、この中に連携機関とあります。小川さんがこれを作られた時には、学校教育と社会教育という2つの基盤が示されていますけれど、具体的にどういったように進めて、どういう人達が関わっていくべきか、何かもう始めておられますか。

小川:私は博物館に勤めておりますから、どうしても博物館中心に考えてしまうのですが、博物館がこういうような取りまとめをしたらよいと思っています。地域によっては博物館がないところもありますが、そういう場合には研究機関があればいいと思います。その地域によってそれぞれの文脈があるので、具体的には言えませんが、例えば博物館が中心になって、社会教育機関や大学や高等学校、中学校をうまく巻き込んでいくというやり方はあると思います。それからここには書けなかったのですが、家庭もあります。例えば学校で博物館を活用した後で家庭に戻ってもう一度博物館にきたくなるといった、家庭教育を活性化していくというやり方もあると思います。いずれにしろ、地域で子どもたちが育っていく様子を見守っていけるような、戦略というかマップみたいなものが、地域ごとに作れればいいのではないかなと思います。

美馬:五島さん、小川さんの発言は、今の学校はだめだから博物館が中心になっていくと言われているようにも聞こえますが、いかがでしょうか。

五島:私は理学部物理学科を出ました。それで教員になった時に、博物館をものすごく利用したのです。なぜかというと、中学校の教師は、物・化・生・地全部を教えます。しかし、物理の教師は、この花なんだとか、この石なんだとかいう知識がないわけです。つまり地域の自然に合った知識がなかったんです。だから私は博物館に通いました。博物館というのはすごいいリソースのあるところなので、教員養成の場所としても重要です。私は、自分が教員になった時に、ミニ学芸員みたいになりました。教員として、博物館に通ってる間に、地域のいろいろなことを自然に学んでいく。最初は博物館から学んでいるのだけれど、だんだんボランティアとして手伝いをするようになって、講師をしたり、自分の生徒ではない老人とか子どもを教えたりする機会を作っていくことが、教師にとって、本当に魅力ある授業をやるためには必要だと思います。だから、まさに博物館を利用する教員を育てるシステムが必要だと思います。

美馬:それは、五島さん自身はそういうことを自分から気付いて実際おやりになったわけですが、それをシステムとして、他の教員にもということでしょうか?

五島:そうです。先ほども言ったように、総合的な学習は、小学校ではうまくいっているけれど、中学校ではうまくいっていない。私の経験では、地域の教材をやれば、自然に総合的な学習になっていくのです。ですから、教員になったばかりの人は教科を教えるのに必死ですが、10年目からとか20年目になって、つまり40くらいになった時に少し余裕が出たら、地域のことよく知っていればいい総合的な学習ができるのです。そういうようなものを、県レベルでは大きすぎるけれど、市レベルでそういうシステムをつくることが、それぞれの市の将来の教育を考え、新採用で入った先生をどういうビジョンで育てていくかという体系的な取り組みが大事だろうと思っているわけです。

美馬:何かそれに対してご意見のある方、いらっしゃいますか? さっき小川さんが、教師がいる一方で、家庭も大事。親が大事ともおっしゃいました。子どもにとっては、博物館に連れていってくれる親はいいのですが、そういうところに全くひっかかってこない親の代わりとして、たとえば漫画に何か可能性はあるのでしょうか?

伊藤:理系を出てる私の同級生が少年チャンピオンの編集長をやっています。『宇宙兄弟』という、講談社のモーニングに連載されている評判の高い漫画の担当編集者も、東大の理系を出ている方です。その『宇宙兄弟』の編集担当者が私のところに相談に来ました。漫画の舞台は2025年のJAXAとかNASAなのですが、話がなんとなく現在とかぶってしまっているのです。それを彼は非常に悩んでいて、2025年というのはどういう社会なのかを懸命に模索している。そういう意味で、漫画とか他のメディアに、どんどん理系の素養を持った人たちが進出していくと、しっかりとした非常に面白いものができると思っています。漫画大国、アニメ大国日本の礎は、手塚治先生に始まるのだと思いますが、手塚治は大阪大学の医学部を卒業している。そういうふうに、理系の素養を持った人にもどんどんマスメディアに進出していってほしい。二足歩行のロボットにこだわるのは日本くらいだといわれてますけれど、それも鉄腕アトムの流れがあるわけで、科学者にならない理系の素養を持った人に広い領域で活躍してほしいと思っています。

美馬:河田さん、先ほどお話しされた維新塾ですが、講師を選ぶ基準は何かあるのでしょうか?

河田:まず職種的には、仮にどこかに所属されていても、個人として来られる方ですね。個人で参加できる方でないと、その組織の立場というものが出てくる。それで、あとは塾生たちから最初にアンケートをとって、自分たちは本当にそうなれるとは思わないけれど、怒りとして世の中をなおしたいとか、喜びとして関わりたいというような希望の分野や職業を言ってもらって、それに共鳴いただける方にお声をかけて、お話ししていただいています。毎回ものすごく盛り上がって、昼の2時から夕方の5時まで激論した後、その後、二次会三次会まで、昨日も夜遅くまでみんなで盛り上がっていました。特に理系だけにこだわっているわけではないのですが、理系にはやはり博士の人が多くて、理系に博士のプログラムがたくさんあるので、とりあえずそういう形で始めたということです。

美馬:たとえば「科学者、軍事戦略家・・・」とありますが、例えばどんなお話をされるのですか?

河田:科学の進歩は、良し悪しは別として、ほとんど国を守るためにお金がつぎ込まれている。スーパーコンピューターでも、結局は軍事目的で開発してるのがほとんどの国で、国立研究所というのも原子爆弾作ってたり、他のサイエンスでも軍事目的に開発しているところが多い。携帯電話は、別にみんなが遊ぶために作ったわけではなくて、兵士と連絡するためですし、インターネットもそうです、回線切られてもつながるように。デジタルカメラの撮像素子CCDもそうです。日本の国はそういう道は歩んでいないわけですが、世界的には軍事のアナリストというのは、理系のきわめて有能な方々が職業として選ばれている。ただ、そういう人たちは、われわれの中では想定していないということで、お声はかけていません。というか、日本にはたぶんあまりいらっしゃらないかと思います。

美馬:日本では、理系の出身者が、例えば、マスター取った人とか、ドクター取った人とかが、そういうところに就職の道があることさえも知らないのではないですか? 実際に道もありますね?

河田:そうですね。ポスドクのポストが急に増えて、みんなが職を探さなくなった。科学を発展させようとして作ったポスドク制度のせいで、みんな外国に行かなくなったり、別の職業を探さなくなったりという逆の効果が起きてる。ぼくは大学を出て仕事がなくって、アメリカに行ってアメリカで働いていたのですけれども、そういうことを今は、普通は考えなくなった。世の中にはいろいろと活躍できる職業があります。法学部を出たからといってみんなが弁護士にならなければいけないわけではないし、理学部を出たからといってみんなが理科の先生にならなければいけないわけではない。大学や大学院では、あくまで資格を取るために勉強しているわけで、その後いろいろな職業に就いてもいいんじゃないですか。その具体例をそういう道に進んだ方々にお話ししていただいて、みんながそれに刺激を受けていろいろ考えだすということを狙っています。

元村:先ほど河田さんが、「塾生の人は、社会に怒りを持ったり、変えなきゃいけないと思っている人が集まってきている」っておっしゃったけれど、それに驚きました。つまり、理系の博士課程まで行って、社会に怒りが持てるんだと、私としてはちょっと元気が出る思いがしました。一般市民の科学リテラシーを上げなきゃという話だけど、むしろ理系の人たちの社会リテラシーも上げなきゃいけないと思っていて、お互い様なんですよね。やっぱりお互いに自分の専門に妙に閉じこもって相手を拒否するようなところがあって、どうしても社会がうまく回っていかないというか、そんなことをすごく強く感じますけど。

河田:理系の博士を取って政治家になるというのは、外国ではかなり普通のことで、ドイツの今の首相もそうですし、中国なんてほとんど理系ですよね。だから、博士をとってもそのみんながポスドクになる必要はない。博士課程の人には、非常にいろいろなことを考えてる人が多いと思います。大企業からほとんど取ってもらえないというのは悪いことではないと思います。個人ベースで生きる人は大企業では役に立ちにくいと思うからです。だから、その人たちは違う仕事を探せばいい。例えば中小企業に入って、中小企業を大きくしてやろうという人たちがもっと出てきてほしいなあとも思います。メディアにも、もっと入っていってもらいたいと思います。

美馬:今日はフロアにポスドクの方がたくさんいらっしゃると思います。そういう方に優先的に意見を言う時間を設けたいと思っています。どなたかいらっしゃいますか?

会場1:今、名古屋大でポスドクをやっています。先ほど、ポスドクのポスト数が増えすぎて、逆に職を選ばなくなったというようなお話がありましたが、そうすると、例えばこれからポスドクの数を国の政策として減らすみたいな動きがあるのでしょうか。

河田:私でしょうか。減らす必要はないと思います。科学者になりたければ、世界中で科学を教えてほしいと言っている国はたくさんあるわけです。私はポスドクを経験した学生をフィリピン、モロッコ、中国などいろいろな国に行かせていますけれども、彼らはそれぞれの国で必要とされる科学者になって、日本で助教や准教授になるよりもはるかに充実感のある仕事をしていると思います。もちろん最初は設備がないけれど、だんだん整っていく。だから、日本の中で就職を考えるのではなくて、科学者になりたいのなら、どこの国に行ってでも科学者になればいい。行き先は必ずしもアメリカやヨーロッパだけではない。世界中で科学者を欲している国はたくさんあると思います。だからそういうところに行くのもいいし、あるいはポスドクを経て、違うキャリアに進むということもあっていいと思うんです。ただ、ポスドクから国内で大学教員になろうと思ったら、これはもうパーセントの世界で、いかに優秀でも、不運だったらなれない。だから、科学者になりたければ、世界に飛び出していただきたいと僕は思います。

美馬:他にはどなたかいらっしゃいますか? じゃあ、ポスドク優先発言権を解除します。他にどなたかご意見、ご質問等のある方いらっしゃいますでしょうか?

会場2:大学の修士課程に所属している大学院生です。正直申しまして、私は博士課程をあきらめたタイプの人間です。というのも、教員の方は役に立つ研究をしろというだけで、自分のやりたい研究とうまく合わせられなくて、研究の世界をあきらめた人間です。研究室の教授は、研究をいかに世の中に役立てるかというところにすごくフォーカスしていて、それでお金を取ってきているからだとは思います。その科学を活かす、研究を世の中に活かすということと、夢を持つっていうことの兼ね合いが難しいと思うのですが、そのへんはどうお考えでしょうか。皆さんにおうかがいしたいです。

美馬:どなたがいいでしょう。さっき夢を語った伊藤さんは?

伊藤:私でいいでしょうか。今の発言は、日本の大学教育の1つの悪いところを反映していると思います。研究室が非常に閉鎖的になっている。研究室ごとに非常に色合いが違う。例えば、私の研究室では、高校の教員志望の学生が1人います。しかし出身県の教員採用試験に落ちてしまった。来年は私立学校の非常勤か専任かになる予定ですが、彼には博士課程への進学を進めています。教員として働きながらの社会人博士です。それはなぜかというと、ただの教員よりも、河田先生のいう1つの資格として博士号を持っている教員のほうが、彼にとっては人生の視野が開けると思って、勧めています。そんなふうな感じでやっている研究室も多いです。また、最初に言いましたけれど、夢を見るのは非常に難しい。例えば、SMAPの『世界で1つだけの花』という歌が大ヒットしましたけれど、あれにも少々違和感があります。ナンバーワンになることが難しいというのはすぐに受け入れられますけれど、オンリーワンになるというのも実は非常に難しいんですよ。オンリーツーじゃだめなのかということになりますと大変厳しい。高等教育においても、自分の人生にもうちょっと付加価値をつけるためのものという考え方があってもいい。肩の荷をちょっと下ろしたような博士のあり方っていうのも、今後広まっていくのではないかと思っています。ぜひ、担当の先生とじっくり話し合われたらよろしいかと思います。

河田:僕は、役に立つ研究なんて糞くらえだと思います。そんな浅はかな心で研究はしちゃいかんです。科学をやってはいかん。真剣に科学をやるだけでいい。ただですね、日本の総合科学技術会議だけではなくてアメリカもヨーロッパも世界中が、納税者に対する説明責任として、使ったお金でどれだけ役に立つことをやったかを問う時代です。もう少し前にさかのぼれば、いくつ論文書いたかです。論文いくつ書いても、役に立たない論文は書いても意味がない、あるいは科学に貢献していない論文なんか、書いても紙代の無駄だと思うのだけど、論文をいくつ書かないといけないという。常にそういうもう1つの指標がでてくるんですよ。でも、それにあまりイライラしてもいけない。わがままに自由に研究したかったら、それは私の理想ですが、大学に勤めずに自分の家に科学研究室を作ってやればいいだけです。それが独立自尊なんです。しかしそれができなくて、どこかに雇われている限りは、研究所か大学か教育に何らかの貢献をしないと。自分の好きなことだけして、給料くださいというわけにはいかない。ただ、あなたの場合は学生ですから、学生にはその責任はまったくないので、よく先生と話をされて、うまくいかなければ別のところを目指されるのもいい。学生が研究の有用性にまで責任を持つ必要はないと思います。ただ、そういう研究があってもいいと思うので、それでどこの国のどこの大学のどこの分野を選ぶかは、あなたの選択だと思います。

元村:役に立つ、立たないっていう分類ではなくて、役に立たないのだったら、「役に立たないけれど価値があるのだ」ということを、科学者の側から、社会、官僚、政治家にきちんと伝えることの重要さだと思います。あるいは、役に立つ、立たないだけで科学者を評価するような評価システム、そこを変えていかないとだめですよね。

美馬:先ほどの伊藤さんの話で、博士号をもった先生のほうがいいという点で、大学の中にいると博士号をもっているのが当たり前で、それはドライバーズライセンスのようなものです。それよりは博士号を持った起業家、博士号をもった先生、博士号をもった博物館、科学館の職員というほうが、よっぽどその価値がしっかりと認められるのではないかと思うのですが、博物館でそういう方はいらっしゃいませんか?

小川:博物館にはいっぱいいますよ、博士号持っている方が多い。ですから、先ほど河田さんも言われたように、博士号というのが、博識の博士なのか、それともある意味で狭い領域の博士なのか、そこらへんはまた違う考えとして整理しておかないといけないとは思っています。

美馬:開幕シンポジウムで1つのデータとして紹介されたのが、博士号を持って社会に出た人が、博士課程や修士課程にいる後輩に、今何を学んでおくべきかというアンケート調査の結果でした。もっといろいろな分野を学んでおくべきだという話がありました。そのあたり、河田さんの維新塾では、研究者ではなくいろいろな分野のトップの人を育てたいということでした。専門性が高くなってきたせいか、それ以外のことはしなくなってきたという点はどうでしょうか。たとえば元村さん。

元村:専門を極めるというのは大変なことだから、よそ見できなくなるっていうのはあると思うんですね。人に与えられた時間って平等ですからね。だから、視野の狭い博士を育てないで、視野の広い博士を育てようという命題は、ある意味無理があるかもしれない。ただ、博士のやる気というか好奇心、社会に対する関心とかがあれば、何年かかっても勉強はできるわけですね。つまり生涯学習みたいな形で。その時に初めて博識の博士になれるというか、多分それは死ぬまでやり続けるのだけど、その意識を持ち続けているかどうかが重要なのかなと思います。ただしそれをやるために専門性をないがしろにしていいという話ではないです。

美馬:五島さんの話で出てきた寺田寅彦などはまさにその例だと思うのですが。

五島:私はポスドクとか博士号を持っている人が、もっと教育現場に入ってきてほしいと思っています。実際、生態学をやっている人が、奄美大島で小中の子どもたちを教えて、本当に探究的な学習をやらしているんですよ。四年制の学部を出たくらいでは、なかなか本当の研究の面白さとか研究ノウハウって、私も結構頑張って勉強した方なんですけれども、やはりなかなかできなかったですね。私の場合は、博物館に行って、研究とは何なのか、それを教育にいかに役立てられるのかという視点でやってきましたけど。ポスドクとか博士号を持っている人達がもっと現場に来て、夢を語ってほしいなって思います。

美馬:もし、ここにいるポスドクの人が教師になりたいと思ったときに、ちゃんと門戸は開いていただけてるのでしょうか。

五島:私達が教員になった時よりは、年齢制限とかもなくなっていると思います。やはり、学問の面白さを知っている人が教師になって、受験とか将来のためだけではなく、学ぶことって面白いよと子どもたちに語ってほしいですよね。私が教師だったときは、そういう人をいかに呼んでくるかを考えていました。そうすると、教師もそういう人になりたいと思う。本当は教員やりながらでもドクターをとれるようなシステムもいいと思います。今は少しずつですが、実現しつつあると思います。

美馬:子どもたちはどういう教科が好きだとか嫌いだとかいう統計で、小学校5、6年生までは理科が好きなのに、中学になると急に理科とか数学とかが嫌いになってしまう。いくつかの要因を見ていくと、先生の影響だったり、内容が急に難しくなってわからなくなったとかいう話があるのですが、そのあたりはいかがですか?

五島:私自身は、子どもの頃はガキ大将で、目標は「巨人の星」でした。私のアイデンティティを示せるのは野球だけだったんです。そして、習った先生方は、勉強は大事だと言いつつも、本当に勉強が好きな人に出会ったことはありませんでした。それが高校の時にすばらしい英語の先生に出会った。英語の一個の質問から、ドイツ語、フランス語の話、ラテン語の話になって、僕はここまでしか知らないから、あとは五島君、自分で勉強するようにっていう感じでした。確かに教え方のスキルもありますけど、そういう学ぶことが楽しい人が増えてくれると、教育が変わっていくのかなと思います。そのためには、教員として知識を教えるだけではなくて、これからはコーディネート役となってそういう専門家を呼んくるのもいい。ただし、ただゲストとして呼ぶのではなくて、自分の教えてる中にうまく位置づけないと、お客さんで終わってしまうので、そのへんは教員が自分も勉強する必要がある。そういうのを意識的に育てるシステムが必要だと、私は思っています。

美馬:そうすると、小川さんが書いていたマップやなんかで、連携というところに繋がってくると思うのですけど。

小川:今の議論との関連では、博士にも多様性があるだろうと思っています。基本的には、自分で常に新しいものを見つけていこうと努力する人がプロの人だと思うんですね。その際、非常に広い領域に目が向く人と、狭い領域でやる人と、様々な多様性があっていいと思います。そういう多様性の中で、その人たちを繋ぐのがコーディネートです。五島さんがおっしゃったように、学校の先生博物館の学芸員も、そういうことができることが望ましいと思います。そこで、個々の地域にどういう専門家がいて、そういうことができるのか、課題を見つけて協働してそれを解決していくということが重要なことだと思います。最初からサイエンスコミュニケーションありきではなくて、地域の課題があって、サイエンスコミュニケーションが自然発生するような姿が美しい姿だと、私は思っています。

美馬:そうすると、どんな人が小川さんの言うサイエンスプロデューサーになりうるのか、なりえるのか。

小川:名前を勝手に作っていますが、単にコミュニケーションするだけではなく、もうちょっといろいろなコーディネーターをできる人、お金の切った貼ったができるような人という意味で、プロデューサーという名前にしたのです。この人はどこに属するかっていうのは、図で示した6つの領域のどこかに属せればいいと思いますし、空中で浮いちゃうっていうのはちょっとまずいのかもしれませんが、NPOという可能性もあります。そういう方が、この間をくるくる回ってですね。お金をもらってくる方はうまくもらってきて、そこで地域のイベントとか、何か1つ課題を見出して解決していく。そういう時に、そこをうまくコーディネートできるような人、そういう方をサイエンスプロデューサーと位置づけてみました。

美馬:わかりました。

伊藤:さっきの学生さんへの答えで、1つだけ補足させてください。河田さんから、馬力がある学生はどんどん外国に行けという話がありましたが、そこまで馬力のない学生さんも多いと思います。最近の大学の状況はずいぶん変わってきていて、私達の頃は、博士課程はすごく狭くて一部の人が行くようなところだったのですが、今はかなり範囲が広がっていて、国内の大学でも、非常に門戸が広いですから、いろいろ探してですね、コンタクト取ってみて、相性の合う先生がいたら積極的に他大学の先生の門を叩いてみるといい。意外と受け入れが広かったりしていますので。

美馬:ありがとうございました。先ほどメモが入りまして、根岸先生が成田空港からこちらのほうに順調に向かわれているということです。だいたい16時50分過ぎにはおみえになるという報告が届いております。気に留めていらした方もいらっしゃると思うので、まずは現状のご報告です。根岸先生がこういう公開の席でお話されるのは、受賞が決まってから初めてのことだそうですので、その時間はなるべく長く取りたいと思っております。

というわけで、このセッションはまだ話が中途半端だったりしますが、最後に皆さんに、一言ずつお願いしたいと思います。サイエンスアゴラの中で、科学者、研究者のトップをどう育てていくかということではない形での人材育成の話というのは、たぶんこれまであまりなされていなかったと思います。その意味で、このセッションは重要だったと思います。そこで、最後に、ちょっと難しいかもしれませんが、今年生まれた子どもが成人になった時の社会と科学の関係はどうなっているだろうか、あるいはどうあるべきだろうかについて、一言ずつお願いします。2030年の日本をちょっと理想像で結構ですので、考えてみて、それを実現するために今、私達が何をすべきか、そして子どもを取り巻く社会に何ができるか、お話をいただければと思います。

私がいる教育関係の世界では、教育者にその人の子どもの教育を聞いてはいけないともいわれていますが、ご自分が実践していらっしゃることの話でもいいと思いますけれども。順番は関係なく、どなたからでも。

伊藤:まず1つは、30年後であっても、知的好奇心のなくならない社会であってほしいと思っています。私の場合は、最初は天文学から始まって、今はコンピュータを専門にしていますが、インターネットの発展というのはあまりにも急速で、ちょっと情報過多になっていると専門家の間でも危惧されています。つまり、座ったままで全ての情報が手に入るようになったりという状況が作られています。それが人間の耐性を超えてしまうと、かなり危険かなと思っていまして、自分の体を動かして何かを見つけようとか、何かを作りだそうとか、30年後でもそういう好奇心のあるような、人間の好奇心を常に駆り立たせるような社会であればいいなと思っています。大学人としては、5年間くらいの大型プロジェクトもやっていますが、20年後30年後を目指した研究を細々とやっていって、そのくらいに芽が出ることで少し貢献できればと思っています。

小川:自分はサイエンスコミュニケーションの話をしながら、今17歳の上の娘と、15歳くらいからうまくコミュニケーションが取れない状況になっております。これはまさしく、先ほどの美馬さんの話にあった、教育者は自分の教育のことは語るなということかもしれません。それについては自己反省しています。しかし私は、人は変わる、人は変わっていくものだと信じております。自分は変えられるということです。他人を変えることはなかなか難しいと思いますけれども、自分は変えられるということです。ということは、自分が変えられるような環境を作っていくことが、すごく重要なことだと思います。もうさらに言いますと、いろいろな人とコミュニケーションがとれるような環境というのが、多分もう少し進んでいくんだろうと思います。あるいは、お腹が減るとどうしても食べたくなるように、そういう極限みたいな場面というものも、ある程度意図的に作って、ある程度の危機感をもつということも、すごく重要なことだと思います。

今の社会は、どちらかというと、情報を全て与えて、豊かに、その中でぬくぬくと生きているところが若干あります。よく、今の若者たちはって言いますけれども、そうじゃなくて、やはり人は変わっていくのだろうと、私は思っています。ですから、30年後に、今の若い人たちも社会を担う人になってくるんだろう、その社会の中でやっていくのだろうと思っております。そういうようなことで、スライドにも書きました、ラーニングソサイエティといいますか、自らすすんで学んでいく、常に向上心をもって学んでいく社会を期待しています。ここでいう「学ぶ」というのは、いわゆる勉強だけじゃない。人生を学んでいくということを、私は期待をしております。

河田:30年後には、予想としてですけども、自然科学(ナチュラルサイエンス)、人文科学、社会科学という壁はなくなっていると思います。そういうふうに分けられなくていい時代が来ていると思います。カーボンナノチューブ、そして今年グラフェンがノーベル賞を取りましたけれども、これらは自然科学の中でも物理なのか化学なのか、応用も考えた物理学なのか生物なのかわからない。カーボンナノチューブを体の中に吸い込むと、アスベストどころではなく人体に危険であるという議論もあります。倫理学を知らない科学者が科学を研究するのはとても危険です。社会科学、人文科学なしに、自然科学だけで研究をする、科学をやるっていうのは大変危険です。逆に、文系の方も、カーボンナノチューブは自分と別の世界のものだと考える必要は全然ない。学問の壁は越えていくだろうと思います。哲学から科学が分かれて、まだたかが300年です。物理とか数学とかが分かれて、まだ100年くらいです。その前は、ニュートンは天文学も光学もやり微分方程式も発明する。今の縦割りは長く続いてきたものではなく、これからもどんどん変わっていくと思うのです。自分の子どもにそういう教育をしてきたかというと、わからないんですが。結果的に、私の子どもは誰も物理の科学者になっていなくて、一人は絵描き、画家ですが、もう一人は南米に10年くらい住んで、原住民の生活を向上させる仕事を一人でやっています。結果的には、科学者にあるいは物理を選ばなくっていいよということになった。いや、反面教師で、僕と同じ道に進みたくなかっただけかもしれませんが、でも、その距離感、いろいろな分野の距離感は近くなってきつつあるし、そうでないと科学は進歩しないのです。あるいは世の中の役に立っていかないと考えます。

五島:端的にいえば、NHKの「地球大紀行」のような番組を、家族で楽しく見たり、家族で、単なるハイキングだけではなくて、フィールドに出て自然の楽しさをエンジョイできるような家庭を作れる親をたくさん育てたいなと思っています。例えば私が理想とする宮沢賢治になぞらえるなら、漬物石は漬物石でただの石一個ですが、お母さんが、「実はこの漬物石、蛇紋岩でね、一億年前に・・・・・・」という話をすれば、子どもはたかが石だけど、されど石だと思う。あるいは、私が大学で物理を勉強しているときに、なんかつまんないな、よくわかんないなと思ってるときに、高校の三年の担任だった恩師が、「お前、寺田虎彦全集読め」って言ってくれた。その中の、マントル対流に関する寺田虎彦の説明がスゴイ。みそ汁を見ながら、これが地球だ。地球を真っ二つに割るとマントルがある。赤だしみそ汁の中でわかめがこうやって動いてるように、これがマントル対流だよなんていう。それは、モデルとしては、もしかして極めて危険かもしれないけど、そういう会話ができる家族であってほしいし、そういう一般のお父さんお母さんを育てるような教員が育ってくれたらいいなあという夢を見ています。

元村:2030年の科学と社会の理想の関係は、新橋の居酒屋で、サラリーマンが政治や社会と同様に科学政策を批判してる、ビール飲みながら批判してる、そういう社会です。つまり、今もそうなんですけど、私達の暮しって否応なく科学と技術にどっぷり浸っているのだけど、そのことに気づいていない、気づく余裕がない、気づこうと思わないという人が結構多い。それが新橋の居酒屋で、新橋でなくてもいいのですが、私の好きな新橋でビール飲みながら、あの科学技術だめだよなとか、俺だったらこうするぜとか、あたしだったらこうするな、というような世間話が交わされている社会になっていてほしいと思います。メディアとして、どういうお手伝いができるかということなんですけれども、1つは、活字を通して、きちんと正しく伝えていくということはもちろんのこと、科学を良いニュースとしてだけでなく悪い面も伝える。もっと大切なことは、わからないことをわからないというふうに伝える。あまり脚色しない、決めつけない。わからないから後は皆さんで考えてくださいというような提示の仕方が、科学ジャーナリズムに根付いていくといいなと思っています。一方で、その新聞なりテレビを見た人、メディアに接した人が、自分のフィルターを通して、そのことを自分がどう受け止めるか、批判、拒否するか、受け入れるか、賛美するかということを判断できるような社会になるように手伝っていきたいと思っています。

美馬:ありがとうございました。サイエンスアゴラは今年で5年目になります。2006年に始めた時には、「科学と社会を繋ぐ広場を作る」、「サイエンスが社会と交流し、対話するアゴラとなります」、「サイエンスを担う、多様な人々の間の対話を促すアゴラとなります」、「日本中のサイエンスコミュニケーターが集い、議論するアゴラとなります」ということで、5年続けてきて、少しずつ参加者も増えてきたと思います。今回特に目立ったのは親子連れの方。そういった意味では、家族ぐるみの参加もだんだん増えてきたかなと思います。本日はパネル討論、『サイエンス、社会、そして人』というテーマで、河田さんのご講演を元に、そのほかにそれぞれの分野でご活躍いただいてる伊藤さん、小川さん、五島さん、元村さんに登壇していただきました。この話は、結論がでるものではありません。また続けて来年も議論していきたいと思っております。まずは登壇者の方々、皆さんどうもありがとうございました。また、今日本日こちらに参加いただいた皆さん、どうもありがとうございました。これで、パネル討論を終わらせていただきます。

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