事業成果

数理モデルで政策立案に貢献

近未来の感染症を予測・制御2022年5月更新

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西浦 博(京都大学 大学院医学研究科 教授)
さきがけ
生命現象の革新モデルと展開「歴史統計を活用した非特異的感染症対策の予防効果推定」研究者(2009-2013)
RISTEX(社会技術研究開発)
科学技術イノベーション政策のための科学 研究開発プログラム「感染症対策における数理モデルを活用した政策形成プロセスの実現」研究代表者(2014-2017)
CREST
科学的発見・社会的課題解決に向けた各分野のビッグデータ利活用推進のための次世代アプリケーション技術の創出・高度化「大規模生物情報を活用したパンデミックの予兆、予測と流行対策策定」研究代表者(2014-2021)

「経験と勘」から客観的評価へ

デング熱やHIVなど、感染症の流行は人類全体に大きな影響を与えてきた。その制御は社会全体に共通する課題であり、特に現代社会では効果的な医療技術の開発・改善とともに、政策レベルで感染症対策を立案していくことが求められている。その政策立案に有効だと期待されているのが、RISTEX研究代表者の西浦博教授が取り組む「感染症数理モデル」だ。

感染症数理モデルは感染症がどのように伝播し、感染したヒトがどの程度の期間で発病し重症化するのか、といったプロセスを数式によって記述する。モデル化した社会の中で、感染症の流行を再現して対策を考えたり、実施した対策の有効性を客観的に評価したりすることができる。ここ15年ほどで飛躍的に信頼性が高まり、数理モデルの専門家グループが国の政策決定のブレーンの役割も担うなど、欧州を中心に保健医療政策の形成過程で盛んに活用されるようになっている。

一方日本では感染症の流行があるたびに、感染症の専門医や疫学の専門家などが会議に呼ばれて観察データを分析し、いわば「経験と勘」で予防接種などの対応をしてきた過去がある。本研究の数理モデルに基づいて明確なエビデンスを政策立案に持ち込むことができれば、より効果的に感染症を制御することができると期待されている。

図1

数理モデルで計算した渡航抑制によるエボラ出血熱の流行リスクの低減効果の推定値
(Otsuki S & Nishiura H,PLoS One 2016を改編して利用)

男性が免疫を獲得すれば、風疹は大流行しない

数理モデルを活用することで、何が可能になるのか。わかりやすいのは予防接種の見積もりだ。さまざまな感染症に対して、人口の何%がワクチンを接種して免疫を持てば大規模な流行が防げるのか計算することができる。

日本では2012年から13年にかけて風疹が大流行したが、その時のデータを分析してみると、流行の中心的役割を果たしたのは成人男性だった。風疹の定期接種は1994年まで女子中学生のみに対して行われていたため、2010年代に入ると免疫のない成人男性が目立つようになっていたのだ。西浦教授は成人男性のデータを感染症数理モデルに取り込み、風疹が再度流行しないようにするための条件を算出した。すると、具体的には30~50代の男性が追加で予防接種を受けると大規模な流行は起こらないという結論を得ることができ、西浦教授らの研究成果は同年齢群の定期予防接種を決断する上で重要な理論的根拠となった。

図2

感染症の数理モデル

エイズでも感染者推定の仕組みを考案

風疹の流行制御については、30~50代の男性に優先的に予防接種すべきこと、そのために予算がどの程度必要かなどを国立感染症研究所の統括責任者に伝えたところ新しいプロジェクトが立ち上がり、どのような予防接種プログラムで目標を達成するかについて話し合いが行われている。予防接種に関しては保健医療政策の策定担当者とやりとりを重ねており、30~50代ではなく30~40代に絞ったらどうなるのか、男女同等に接種するとどうなるのかといった質問に応じてさまざまなシナリオを作成し、数値実験を行っている。本研究開発を通じて、厚生労働省の感染症対策に関する予防指針の改訂、および流行時の被害想定の創出などにも貢献することができた。

その他にも、HIV/エイズについても研究を進めている。HIVに感染してからエイズを発症するまでには数年から10年かかるが、医療機関を受診して血液検査をしなければHIV感染の有無は判断できない。感染に気づいていない人がどの程度いるのか、日本ではこれまで公式な推定値が出されていなかった。そこで西浦教授は数理モデルを使い、報告されるHIV感染者数とエイズ患者数から、未診断のHIV感染者数を推定する仕組みを考案した。

このように、今まで観察できなかった政策策定について、一定レベルの科学的妥当性を担保しつつ理路整然と議論できるようになったことが、数理モデルの一つの核心といえる。

図3

予防接種に対する示唆
出典:Kinoshita & Nishimura(2016)を改変して使用

図4

HIV/AIDS対策への示唆

リテラシー向上が重要な課題に

西浦教授らの成果は、風疹の大流行が社会問題化するなかで社会的注目を集め、大手オンラインメディアや大手ニュースサイトなどで広く取りあげられた。複数の流行シナリオとその予算を具体的に提示した上で、保健医療政策の担当者と研究者が相談できるようになったことは、行政側にとっても革命的なことだと言える。

今後は、感染症数理モデルのリテラシーをさらに高めていくことが重要な課題になってくる。感染症数理モデルは、政策担当者に研究成果を参照してもらうことで次の展開が生まれる研究領域であるので、対等な関係を築き、先方のニーズを連続的に得ながらどんどん発展していくという状態が理想といえる。

また、数理モデルは予防接種以外のさまざまな分野にも活用可能である。例えば、未曾有の高齢化を迎えている日本の人口構造の変化による産業の需給バランスの崩壊を未然に予測して必要な対策を提案することはできるだろうし、外国人労働者の大規模な増加に伴う結核やHIVなどの疾病リスクの予測や流行の予防にも役立てることができるだろう。数理モデルに基づいて一定のエビデンスを持ち込み、それによって政策が形成されれば、政策の効果が上がるだけでなく、コスト削減も期待できる。