インフルエンザの感染プロセスには、ウイルス表面にあるたんぱく質ヘマグルチニンと宿主側の糖鎖あるいは抗体との相互作用が重要だと知られています。これらの相互作用を分子レベルで解析することができれば、インフルエンザウイルスの感染・変異メカニズムの解明や抗原変異の予測に役立つと考えられますが、従来は経験的な近似計算をするのが一般的で、定量的な信頼性を有する理論解析は困難でした。
本研究チームは、抗原であるヘマグルチニンとその抗体との結合系の立体構造を用い、フラグメント分子軌道法注3)と呼ばれる巨大生体分子系に有効な高速並列計算手法を使って分散力注4)などの効果も適切に取り入れた電子状態計算を行い、抗原と抗体の間でどの残基同士が強く相互作用しているかを明らかにしました。その際、電子相関注5)効果は2次の摂動法であるMP2法注6)で取り入れ、積分の計算方法、フォック行列注7)の構築、MP2計算における積分変換などに工夫を凝らし、地球シミュレータ上での効率的な並列ベクトル計算注8)を実現しました。
その結果、4096個のVPU注9)を用いて1時間以内で計算し、抗原の各アミノ酸を抗体がどのように認識しているかを定量的に明らかにすることが可能になりました。本計算は、生体高分子に対する電子相関を取り入れた第一原理分子軌道計算としては世界最大規模(約1万4千原子)です。
本研究によって、今まで解析が困難とされた巨大生体分子系の定量的な第一原理分子軌道計算が、短時間で網羅的かつ系統的に行えるシミュレーション技術の基盤を築くとともに、インフルエンザウイルスの変異予測といった重要な問題に、コンピューターを用いてアプローチする実用的な道が開かれたと言えます。
本成果は、欧州科学論文誌「Chemical Physics Letters」のオンライン版で近日中に掲載されます。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST) | ||
研究領域 | : | 「シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築」 (研究総括:土居 範久 中央大学理工学部情報工学科 教授) |
研究課題名 | : | 「フラグメント分子軌道法による生体分子計算システムの開発」 |
研究代表者 | : | 田中 成典 神戸大学 大学院人間発達環境学研究科 教授 |
研究期間 | : | 平成16年度~平成21年度 |
<研究の背景と経緯>
たんぱく質やDNAといった生体高分子の機能を分子シミュレーションで解析することは、従来から試みられてきましたが、その際には分子を構成する原子の間に働く力を古典力学的なポテンシャル関数(力場)で近似した分子力場法や分子動力学法が用いられてきました。しかし、分子間の相互作用は古典的力場関数では精度よく記述できない場合が多く、第一原理(量子力学)に基づいた巨大分子計算手法の実現が待たれていました。
本研究チームでは、平成16年度よりフラグメント分子軌道法に基づく生体分子の電子状態計算技術の開発を行ってきました。フラグメント分子軌道(FMO)法は、1999年に北浦 和夫(現 京都大学 教授)によって提案された生体分子系に対する効率的な計算手法で、巨大系を比較的小さなフラグメントに分割し、各フラグメント・モノマーとダイマーの分子軌道計算を並列処理することにより、全系の電子状態をこれまでの手法よりはるかに短時間で解析することができます。本研究チームは、過去3年あまりの研究開発を通じて、このFMO法による電子状態計算の精度・速度・適用範囲を改良し、PCクラスタやスーパーコンピューター上で有用なたんぱく質やDNA、RNAなどに対して(経験的な知見を用いない)第一原理的な計算を可能にしてきました。
最近、新型鳥インフルエンザの脅威が大きな問題となっており、インフルエンザウイルスの変異・感染メカニズムの解明や抗原変異予測の重要性が指摘されています。インフルエンザウイルスは、その表面にヘマグルチニンというたんぱく質を有し、感染プロセスにおいてはこれと宿主側の糖鎖あるいは抗体との相互作用が重要であることが知られています。これらのヘマグルチニンを含むたんぱく質複合体の立体構造は既にいくつか知られていますが、インフルエンザウイルスの感染や変異にとって重要なアミノ酸残基の特定は、立体構造情報のみに基づく定性的なレベルでしか行われてきませんでした。ウイルス側のヘマグルチニンと宿主側の分子との相互作用を定量的に明らかにすることで、キーとなるアミノ酸の特定が可能であろうと考えられますが、そのためには、まず、ヘマグルチニンを含む巨大たんぱく質複合体に対する高精度の第一原理電子状態計算が必要です。
<研究の内容>
抗原であるヘマグルチニンと抗体のFab領域(抗原と結合する部分)との複合体の立体構造は、既に2000年に得られています(図1)。しかし、この複合体は921個のアミノ酸残基(14086個の原子)を含む巨大系で、この系に対する第一原理的な電子状態計算は従来の技術では困難と考えられてきました。
本研究チームは今回、これまでに開発してきたFMO計算手法を並列ベクトル計算機用にさらに改良し、横浜市にある地球シミュレータ上での高速計算を可能にしました。具体的には、MPI(Message Passing Interface)による並列化FMO計算を行うABINIT-MPプログラムにおいて原子軌道積分注10)の生成とフォック行列の構築法をベクトル化に向けて改良しました。また、電子相関の2次摂動効果を取り入れるMP2法の計算においても、高速並列化モジュールに加えてDGEMM(倍精度行列演算)を用いた積分変換等の点でも高速化処理を行い、地球シミュレータ上の4096個のVPUによる効率的な計算を実現しました。
その結果、このヘマグルチニン抗原抗体複合系のFMO-MP2/6-31G(基底関数)計算を、わずか53.4分という極めて短い時間で完了することに成功しました。
FMO計算は系全体をアミノ酸を単位とするフラグメントに分割しているため、アミノ酸間の分子間相互作用を系統的に解析することが可能です。生体分子系における相互作用としては、電荷や極性をもった残基間の静電相互作用や水素結合相互作用がよく知られていますが、それ以外にも疎水性のアミノ酸が関わる分散力(ファンデルワールス)相互作用が重要な働きを演じる場合も少なくありません。
今回の計算では、分散力に関係する電子相関の効果をMP2法によって適切に取り入れているため、生体分子系において重要と思われる相互作用の多くを定量的に論じることが可能です。さらに、FMO計算で得られたフラグメント間相互作用を専用のビューアーであるBioStation Viewerによって可視化したことにより、図2のように抗原抗体間の分子認識にとって重要なアミノ酸残基をもれなくピックアップできるようになりました。
<今後の展開>
本研究チームは現在、ヘマグルチニンたんぱく質抗原抗体系の分子間相互作用解析を通じて、抗原が抗体によってどのように認識され、抗原側のアミノ酸残基が抗体圧注11)から逃れるためにどういった変異を起こすのが妥当かといった点に関する解析を進めています。このような理論解析が現実的な計算時間内で実行可能となれば、数多くの系に対してこのような解析を網羅的に行うことができます。その結果を実験データと比較することによって、既存のヘマグルチニンたんぱく質複合体の立体構造から、将来変異を起こす可能性の高いアミノ酸残基が予測可能となります。
よって本成果は、近い将来起こることが懸念されているインフルエンザ・パンデミック(大流行)に対する事前対策の作成にシミュレーションの立場から貢献すると考えます。
図1 インフルエンザウイルス・ヘマグルチニンタンパク質の抗原-抗体複合系の立体構造(PDBID:1EO8) |
図2 (a) 抗体のFab領域と抗原の各アミノ酸の相互作用、(b) 抗原のHA1-HA2領域と抗体の各アミノ酸の相互作用を図示したもの |
<用語解説> |
<掲載論文名>
"Large scale FMO-MP2 calculations on a massively parallel-vector computer"
(大規模並列・ベクトル型コンピューター上での巨大分子のFMO-MP2計算)
doi: 10.1016/j.cplett.2008.03.090
<お問い合わせ先>
田中 成典(たなか しげのり)
神戸大学 大学院人間発達環境学研究科
〒657-8501 神戸市灘区鶴甲3-11
Tel: 078-803-7752 FAX:078-803-7761
E-mail:
望月 祐志(もちづき ゆうじ)
立教大学 理学部化学科
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1
Tel: 03-3985-2407 Fax:03-3985-2407
E-mail:
中野 達也(なかの たつや)
国立医薬品食品衛生研究所 医薬安全科学部
〒158-8501 東京都世田谷区上用賀1-18-1
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瀬谷 元秀(せや もとひで)
科学技術振興機構 戦略的創造事業本部 研究領域総合運営部
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