生体の中では、たんぱく質や糖、核酸などさまざまな生体高分子がホストとなり、特定のゲスト分子を認識して結合し、超分子という新たな形と機能を持つ複合体を作ることによって、生命活動が営まれ、遺伝情報が次の世代に受け継がれています。
この仕組みを解明し、それを再現できる人工超分子系を作ることは現在のナノ科学の大きな目標の1つです。中でも、最も強く結合する天然のホスト・ゲスト系であるアビジン・ビオチン複合体注1)は、免疫や細胞膜の研究、がんの検査・治療など幅広い分野で利用されていますが、これに匹敵する人工超分子を作るのは不可能だと思われていました。
本研究グループは今回、樽型の空洞を持った人工ホスト分子であるキューカービチュリル注2)をホスト分子、中央部が丸く両端に正電荷を持つフェロセン誘導体注3)をゲスト分子とするホスト・ゲスト系で、アビジン・ビオチン系に匹敵する親和力(結合力)を持つ完全に人工の超分子系を作り出すことに成功しました。この研究は次の5点において、現在の化学、生物学における常識を打ち破る成果だと考えられます。
<研究の背景>
化学反応の起きやすさが、熱量の出入りを表すエンタルピーと、系の秩序・規則性を表すエントロピーの両者によって決まることはよく知られています。ところが、従来の化学ではエンタルピーの方に力点が置かれ、エントロピーの寄与は小さいと考えられてきました。しかし、本研究グループでは超分子系、生体系など従来の化学が対象としてこなかった領域において、エントロピーがエンタルピー以上に大きな影響を及ぼすことを明らかにしてきました。
生命活動は、生体内の水という媒体の中でたんぱく質や糖、核酸といったさまざまな生体高分子がホストとなり、特定のゲスト分子を認識して結合し、超分子という新たな形と機能を持つ複合体を作ることによって維持され、さらに遺伝情報が次の世代に受け継がれています。
この仕組みを解明し、それを再現できる人工超分子系を作ることは現在のナノ科学の大きな目標の1つですが、本研究グループは従来とは異なる考えのもとに研究を進めてきました。そこで最も重視したのは、超分子ができあがっていく過程を詳しく解析し、それに基づく新たな超分子設計法を考え出すことです。
その具体的な手段として、さまざまなナノ構造を形成する超分子の自己組織化プロセスについて本研究グループが見出した「エンタルピー・エントロピー補償則の定量的解析法」注6)を用いました。そしてその定量的解析法の適用範囲が、人工および天然の超分子系にどこまで拡張できるかを検討してきました。
<研究内容と成果>
本研究グループは上記の研究途上で、標記のキューカービチュリル(図1)とフェロセン誘導体(図2)が作る人工超分子錯体(図3)が、天然の最強ホスト・ゲスト系であるアビジン・ビオチン複合体(図4)に匹敵する親和力を示すことを見出し、その原因がこれまで軽視されてきたエントロピー(系の自由度)にあることを突き止めました。
1.「エンタルピー・エントロピー補償則」に基づく超分子形成の定量的・包括的理解
どのような化学反応もエンタルピー(熱量)注4)とエントロピー(自由度)の変化を伴い、両者には「エンタルピー・エントロピー補償則」として知られる直線関係が成り立つことはよく知られています。本研究グループは、この補償関係の定量的理解に関する理論を発展させ、化学反応のみならず生体内におけるさまざまな超分子相互作用(図5に酵素系、図6にDNA系の例を示す)まで適用可能なことを見出しました。
2. アビジン-ビオチン系を凌駕する最強の超分子錯体
一方本研究グループは、キューカービチュリル(図1)とアミノ基を有するフェロセン誘導体(図2)とが、生体系で2つの構成要素を結合する手段として頻用されるアビジン・ビオチン系(図4)や抗原-抗体系を上回るほど強固な錯体を形成することを発見しました。しかも、この超分子錯体形成が、完全にエントロピーのみで制御されていることを突き止めました。
下の表に示すように、ヒドロキシル基を持つフェロセン誘導体[図2(a)]、アミノ基を1つ持つフェロセン誘導体[図2(b),(b')]、アミノ基を2つ持つフェロセン誘導体[図2(c)]はいずれも、エンタルピー変化(ΔH°)は88kJ/mol発熱(負の値)と一定ですが、ゲストを(a)から(b)に変えるとエントロピー変化(TΔS°)は自由度が増す正の方向に16kJ/mol増加し、その結果、親和力(結合定数K)は1000倍も強くなりました。
また、もう1つアミノ基の入ったゲスト(c)になると、エントロピー変化はさらに16kJ/mol増加し、結合定数Kはゲスト(a)に比べて100万倍と飛躍的に強くなり、結合力において生体系で最強の超分子であるアビジン・ビオチン系と肩を並べました。それも完全にエントロピーの増大のみによって達成されたわけで、このような超分子系はこれまで見出されていません。

<今後の展開>
これまで達成不可能と思われていたアビジン・ビオチン系に匹敵する極めて強い結合が人工超分子系でも達成できることが明らかになり、今後ホスト・ゲスト系をさらに改良することで、天然の超分子系を超えることも可能と考えられます。
アビジン・ビオチン系は現在、免疫や細胞膜の研究、がんの検査薬、ミサイル療法などに幅広く使われていますが、価格が高く、加工や取り扱いが難しいという欠点もあります。この人工超分子系は、ゲストであるフェロセン分子の酸化・還元により、超分子の生成・解離を自在に制御できるというアビジン・ビオチン系にはない新しい機能を持ちます。将来的には、アビジン・ビオチン系は人工超分子系に完全に置き換わってしまう可能性を秘めています。
図1.キューカービチュリル(ホスト分子) |
図2.フェロセン誘導体:(a)ヒドロキシ体、(b)モノアミノ体、(c)ジアミノ体(ゲスト分子) |
図3.キューカービチュリル(外側)とフェロセン誘導体(内側)の複合体 |
図4.アビジン・ビオチン複合体の構造 |
図5.酵素系でのエンタルピー・エントロピー補償則プロット |
図6.DNA系でのエンタルピー・エントロピー補償則プロット |
<用語解説> |
<論文名>
A synthetic host-guest system achieves avidin-biotin affinity by overcoming enthalpy-entropy compensation
(合成ホスト・ゲスト系がエンタルピー・エントロピー補償則を打ち破ることによって天然のアビジン・ビオチン系に匹敵する親和力を達成)
doi: 10.1073/pnas.0706407105
<研究領域等>
国際共同研究事業(ICORP)
研究プロジェクト名:エントロピー制御プロジェクト
研究代表者:井上 佳久(大阪大学 大学院工学研究科 教授)
研究実施期間:平成14年3月~平成19年3月
<お問い合せ先>
大阪大学 大学院工学研究科 教授
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井上 佳久(いのうえ よしひさ)
TEL:06-6879-7920 FAX:06-6879-7923
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