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科学技術振興機構報 第282号

平成18年4月20日

東京都千代田区四番町5-3
科学技術振興機構(JST)
電話03(5214)8404(総務部広報室)
URL https://www.jst.go.jp

神経発生を司るリン酸化酵素が情報伝達にも関与していることを解明

 JST(理事長 沖村憲樹)の研究チームは、株式会社カン研究所、東京医科大学、株式会社三菱化学生命科学研究所、富山大学、自然科学研究機構生理学研究所、大阪大学と共同で、若い神経細胞の成長に重要な役割を果たしているリン酸化酵素の「SADキナーゼ」が、成熟した神経細胞では、神経回路網のつなぎ目であるシナプスの軸索側(前シナプス)に存在し、神経伝達物質放出の制御に重要な役割を担っていることを発見しました。
 前シナプスは脳の正常な活動に極めて重要な役割を担っていますが、その分子メカニズムについてはほとんど知られていませんでした。本研究チームは、若い神経細胞が他の神経細胞とシナプスを形成する上で重要な役割を果しているリン酸化酵素(注1)SADキナーゼ(注2)に注目し、成熟した神経細胞における存在位置を調べたところ、SADキナーゼは前シナプスに特異的に存在していることがわかりました。さらにこのSADキナーゼを調べたところ、学習や恐怖の条件付けなどに重要な役割を果たしているたんぱく質を特異的にリン酸化することで、神経伝達物質(注3)放出の制御に重要な役割を担っていることがわかりました。これらの知見で、SADキナーゼは成熟した神経細胞においても重要な役割を担っていることが示唆されました。 このように、脳の高度な機能に関与するたんぱく質のリン酸化機構の一端を明らかにしたのは、本研究が世界で初めてであり、今後、SADキナーゼのより詳細な解析で脳障害の発症機構の解明やその治療法の開発に繋がることが期待されます。
 本成果は、井上英二(株式会社カン研究所 研究員)とJST戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CRESTタイプ)「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」研究領域(研究総括:津本忠治(独立行政法人理化学研究所脳科学総合研究センター ユニットリーダー))の研究課題「情動発達とその障害発症機構の解明」(研究代表者:西条寿夫(富山大学大学院医学薬学研究部 教授))の研究者 大塚稔久(同 助教授)らによって得られたものです。本研究成果は米国神経科学雑誌「Neuron(ニューロン)」オンライン版に2006年4月19日(米国東部時間)に公開され、誌面でも翌日に掲載されます。

【研究の背景】

 神経細胞は軸索および樹状突起という二つの特徴的な構造体を有しています。発生の過程において未熟な神経細胞から軸索と樹状突起が形成され、軸索は他の神経細胞の樹状突起と"シナプス"と呼ばれる特殊なつなぎ目を形成します。軸索側を前シナプス、樹状突起側を後シナプスと呼びます(図1)。私たちの脳の活動に必要な情報伝達は、シナプスにおいて神経伝達物質を介して行われています。神経伝達物質は前シナプスに存在するシナプス小胞(注4)に含まれており、このシナプス小胞がアクティブ・ゾーン(注5)と呼ばれる特殊な構造体に結合し、細胞膜に融合した後に、神経伝達物質を放出します。このシナプス小胞からの神経伝達物質の放出は厳密に制御されていて、私たちの正常な脳の活動にとって極めて重要な役割を担っていると考えられています。 したがって、神経伝達物質の放出の場所とタイミングを決めているアクティブ・ゾーンの構造と機能を明らかにすることは、正常な脳における高度な機能について、分子レベルでの動作の解明に繋がるだけでなく、シナプス異常による各種脳神経変性疾患の原因究明とその治療法の開発に大きく寄与することから盛んに研究が進められています。

【今回の論文の概要】

 今回、本研究チームは、特定のたんぱく質にリン酸基を付加する酵素(リン酸化酵素)であるSADキナーゼに注目し解析を行いました(図2)。SADキナーゼは、若い神経細胞が成長して軸索と樹状突起を伸ばし、他の神経細胞とシナプスを形成する上で極めて重要な役割を果たしている物質です。しかし、成熟した神経細胞、特に形成されたシナプスにおける機能については全く明らかになっていませんでした。
 そこで本研究チームは、成熟した神経細胞のシナプスにおけるSADキナーゼの存在する位置を調べるために、あらかじめ標識となるSADキナーゼに対する抗体を作製し、SADキナーゼと反応した抗体の存在する位置を電子顕微鏡を用いて確認しました。培養3週間目の成熟期の神経細胞では、SADキナーゼは前シナプスに濃縮して存在していて、シナプス小胞とアクティブ・ゾーンの両方に有りました(図3)。このように、前シナプスに特異的に存在し、かつ、シナプス小胞とアクティブ・ゾーンの両方に存在するようなリン酸化酵素はこれまで報告がありませんでした。
 このような特徴から、本研究チームは、アクティブ・ゾーンにおいてSADキナーゼが神経活動に重要なたんぱく質をリン酸化しているのではないかと仮説を立てました。中でも、Munc13-1とRIM1(注6)と呼ばれるたんぱく質は最も解析が進んでいるアクティブ・ゾーンたんぱく質であり、これまでに多くの研究からアクティブ・ゾーンからの神経伝達物質の放出を制御していることが明らかとなっていました。そこで本研究チームは、実際にSADキナーゼがこれらのたんぱく質をリン酸化するかどうか検討しました。その結果、Munc13-1は全くリン酸化されませんでしたが、RIM1が特異的にリン酸化されることが明らかとなりました(図4)。
 また、SADキナーゼを神経細胞に過剰に発現させたところ、神経伝達物質の放出が促進し、リン酸化できないSADキナーゼの変異体(注7)を発現するようにした神経細胞では神経伝達物質の放出が阻害されることが明らかとなりました(図5)。したがって、若い神経細胞において神経細胞の形作りに重要な働きをしているSADキナーゼが、成熟した神経細胞においては、前シナプス内にあるたんぱく質をリン酸化することで神経伝達物質の放出を制御していることが明らかとなりました。

【今後期待できる成果】

 後シナプスに存在する神経伝達物質の受容体などの研究に比べると、前シナプスのアクティブ・ゾーンの構造と機能の解明はまだ始まったばかりであり、ほとんど解析が進んでいないといえます。しかし、その特徴的な構造から、アクティブ・ゾーンが学習や記憶、情動形成(注8)など、ヒトの高度な脳機能において重要な役割を担っていることが考えられます。実際に、アクティブ・ゾーンにあるたんぱく質であるRIM1は学習・記憶や恐怖の条件付けなどの高度な脳機能に関与していることが明らかにされています。今後SADキナーゼによるRIM1のリン酸化の意義を詳細に解析したり、またSADキナーゼそのものの働きを調節している仕組みを明らかにしていくことで、アクティブ・ゾーンが関与する学習・記憶や情動の形成などの分子レベルでの仕組みが明らかになっていくことが期待できます。 そして、それらの知見をもとにシナプス機能の異常による発達障害(注9)情動障害(注10)などの神経変性疾患の発症のメカニズムやその治療戦略に新しい方向性を示す可能性も秘めています。

【用語の説明】
図1.シナプスの概略図
図2.SADキナーゼを発現する部位のDNA分子構造
図3.免疫電子顕微鏡法を用いたSADキナーゼのシナプスにおける存在位置
図4.SADキナーゼにより酸化されたRIM1
図5.SADキナーゼのリン酸化能力と神経活動との関係

【論文名】

“SAD: A Presynaptic Kinase Associated with Synaptic Vesicles and the Active Zone Cytomatrix that Regulates Neurotransmitter Release”
(和訳:シナプス小胞とアクティブ・ゾーンに局在するSADキナーゼが神経伝達物質の放出を制御している)
 著者:井上英二1、持田澄子2、高木博3、比嘉進4、俵田真紀1、力津絵津子1、井上真理枝1、矢尾育子3、武内恒成1、北島勲4、瀬藤光利3,5、大塚稔久1,4、高井義美6
(1:株式会社カン研究所、2:東京医科大学、3:株式会社三菱化学生命科学研究所、4:富山大学、5:自然科学研究機構生理学研究所、6:大阪大学)
doi :10.1016/j.neuron.2006.03.018

【研究領域】

この研究テーマが含まれる研究領域、研究期間は以下のとおりである。
「情動発達とその障害発症機構の解明」
(研究代表者:西条寿夫 富山大学大学院医学薬学研究部システム情動科学 教授)
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CRESTタイプ)
研究領域:「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」
(研究総括:津本忠治 独立行政法人理化学研究所脳科学総合研究センター ユニットリーダー)
研究期間:平成16年度~平成21年度

【お問い合わせ先】

大塚 稔久 (おおつか としひさ)
 富山大学 大学院医学薬学研究部 臨床分子病態検査学講座
 〒930-0194 富山県富山市杉谷2630
 TEL:076-434-7386, FAX:076-434-4501
 E-mail:

佐藤 雅裕 (さとう まさひろ)
 独立行政法人科学技術振興機構 戦略的創造事業本部 研究推進部 研究第一課
 〒332-0012 埼玉県川口市本町4-1-8
 TEL:048-226-5635, Fax:048-226-1164
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