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研究終了にあたって

研究総括 山本喜久

 量子情報処理は、物理学と情報科学の境界領域に位置する学際的研究分野である。量子情報処理に使われるスピンキュービットの原理の発見に対して、ZeemanとLorentzにノーベル物理学賞が与えられたのは1902年のことである。より直接的には、1945年に発見された核磁気共鳴(Nuclear Magnetic Resonance)、1960年に発明されたレーザー、1970年以降に本格化したレーザー分光と量子光学という4代に渡るノーベル物理学賞の対象領域の流れの先に“来るべきもの”として物理学者の関心と期待を集めてきた。情報科学と物理学の接点が見出されたのは、19世紀末にJ.C.Maxwellが有名なマクスウェルの悪魔を誕生させた時に始まる。それから100年、Gabor、Shannon、Turing、von Neumann等の先駆的な研究を経て、遂にDavid Deutschの量子コンピューター(1985)、Charles Bennettの量子暗号(1984)の発明へいたった。こうして、量子情報は基礎科学の1テーマから将来技術としての地位を確立した。それからの25年間の理論と実験における発展は目覚ましく、因数分解アルゴリズムの発見、エンタングルメント物理の解明、量子誤り訂正コードと誤り耐性量子コンピューターの発見、一方向量子コンピューターの提案、量子鍵配送の絶対安全性の証明、超伝導キュービット、イオンキュービット、原子キュービット、半導体スピンキュービット、分子キュービット、光子キュービットなどに関する実験技術の進展、と枚挙に暇がない。
 にもかかわらず、理論的なコンセプトと実験技術の間には大きなギャップがあり、この研究分野を単なる基礎研究としてではなく、実用技術として発展させるための最大のブレ−クスルー(NMRの発見やレーザーの発明に匹敵する)は未だになされておらず、今後出てくるものと期待される。そういう夜明け前の研究分野で自身が研究できること、学生を育てることが出来ることは研究者、教育者として最も幸せなことであると思われる。どこを掘れば金脈に当たるか全く分からないという現状と量子技術というこの息の長い研究分野で次世代を担う若手研究者を様々な研究分野で育てておきたいという背景から、幅広い分野から世界と勝負できる研究チームを採択するという方針で研究提案を公募した。領域全体としては、平成15,16,17年に合計12件を採択したが、平成17年に採択された研究チームは、5年に亘り研究を精力的に展開し、以下に記す通り、めざましい成果を達成した。

1.通信波長帯量子もつれ光子とその応用システム
 井上恭(大阪大学)を研究代表者とする本研究テーマは、代表者の着想である差動位相シフト量子鍵配送(DPS-QKD)方式を、200kmの光ファイバーシステムで実現し、それまでの伝送距離、鍵生成速度を大幅に記録更新して大きなインパクトを与えた。他にも、シリコン導波路や光ファイバーによる量子もつれ光子対の発生など新しい部品技術を開発し、この分野の裾野を広げることに多大の貢献をした。
 研究計画の目標はほぼ達成しており、代表的な論文(2007年Nature Photonics)が既に100回以上引用されているなど、世界へ大きなインパクトを与えた。研究代表者は、プロジェクトのスタート時にNTT研究所から大阪大学へ異動し、ゼロから研究室を立ち上げるというハンデを背負っての5年であったが、新しいアイデアを次々に考案し、チームとして十分な成果を上げたことを評価したい。今後、この技術が実用技術として社会の中に入っていく為に、社会的ニーズとの整合など努力を続けて頂きたい。それと同時に、量子暗号のサイエンスとしての面白さ、を広く社会に宣伝、広報していくことも大切なことと考えられる。

2.極低温原子を用いる量子計測法の開拓
 香取秀俊(東京大学)を研究代表者とする本テーマは、代表者の発明であるマジック波長を用いた光格子時計技術を確立した。Sr,Yb光格子時計を実現し、光ファイバーを用いた周波数リンクも成功させた。特に、10分の積分時間で1.7×10-17の周波数安定度を実現したことは極めて重要な成果と考えられる。
 時間標準という基礎科学の分野でも産業技術の分野でも主要な技術で世界をリードしている。特に今後目標としている10-18の精度を持つ光時計が実現されれば、時計の概念は一変され測地学への応用、GPSの高精度化など社会へ大きなインパクトを持つものと予想される。
 代表者の創出したアイデアが具体的な成果として実現され、世界で20以上の研究グループがこの技術に取り組んでいる中で、常にトップを走り続けている点で、本CREST領域の中でも突出して優れた成果と考えられる。
 当初は、光格子時計とシュタルク原子チップの2つを研究の柱に据えていたが、途中から光格子時計の研究に的を絞ったが、結果的には良い判断であった。 研究代表者には、更に大きなスケールで野心的な研究を発展させることが期待されている。今後は香取ERATOプロジェクトの中で、一回り大きな研究指導者としてこれまで以上に腕をふるって頂きたい。

3.分子スピン量子コンピュータ
 北川勝浩(大阪大学)を研究代表者とする本テーマにおいては、原子核スピン量子計算、電子スピン量子計算では、初期化、多ビット化などに関して、当初目標が必ずしも達成されていないが、これは挑戦的な基礎研究テーマにはよくあることである。当初目標に代わる成果として、高速の核スピン偏極、高利得の核スピン増幅、3重らせん構造による(ABC)n型電子スピン量子ビットを可能とする希釈結晶の作成、電子スピンのC-NOTゲート、などで十分な成果が得られている。途中から参加した超伝導量子ビットグループは、進行波系での双極子誘導反射、電磁誘導透過、Mollowトリプレットなど量子光学の基礎実験に成功すると共に、99.4%のゲートフィデリティーと20μsecのT2時間という素晴らしい成果を得た。
 本チームの研究成果は、量子情報処理分野のみならず、磁気共鳴、化学合成、量子化学計算、量子光学など、一般の科学分野で幅広く使われる可能性があり、この点でもインパクトがあったと考えられる。特に、分子スピンの人工的制御技術は、今後、化学界を中心に研究が活発化することが予想される。本チームの研究成果は、そうした将来の研究方向に指針を与えるベースとして重要な意味を持っている。
 3重らせん構造による(ABC)n型電子スピン結晶を用いた多ビット化、ラムダ型3単位原子と共振器による光子量子ビットと物質量子ビットのスワッピングの2つは将来の量子情報処理技術の突破口となりうる着想である。引き継がれた最先端プロジェクトにおいて、これらのアイデアが更に発展して、大きなブレークスルーにつながることを期待したい。

4.量子多体協力現象の解明と制御
 宮下精二(東京大学)を研究代表者とする本チームは、量子統計力学理論のエキスパートが量子情報処理という工学的応用分野の基礎を支える理論の構築に取り組んだ最初のチームであった。原理的、概念的に新しい研究が進んだことは、多数の論文発表が裏付けている。特に、量子シミュレーション(スピンクロスオーバーなど)、量子アニーリングの研究で興味深い成果が得られた。
 このチームは、領域の若手研究者の育成に大きく貢献している。優秀な若手研究者が育っていることは、本プロジェクト成果の重要な部分として評価すべきものである。また、チームリーダーは、国際ワークショップを組織運営し、国内外の研究者間の交流を図ると共に、研究成果の外部発信に努めた。今後は、この領域の専門家の枠を超えたより広範囲の分野への情報発信(アウトリーチ活動)を行っていくことを期待する。
 量子統計力学のトップ研究者が、量子情報処理技術を研究開発している実験家集団からなる本領域に参加したことは極めて有意義であった。将来の研究方向をリードする新たなスキームや理論が提示され、領域全体が刺激を受けた。今後の量子シミュレーションの研究の発展が楽しみである。