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平成17年度採択課題 研究終了にあたって

「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」 研究総括  津本 忠治

 近年、脳研究は目ざましく発展し、初期の遺伝情報により形成された神経回路網が環境からの入力や脳自身の活動によって精緻化や改変を受けること及びこの活動依存的変化には学習と共通のメカニズムがあることが明らかとなりました。このような知見は、主に実験動物で得られましたが、最近、ヒト脳機能の非侵襲的計測技術の進展によって、ヒトにおいても脳機能発達や学習のメカニズムを解明する道が開けてきました。その結果、脳を育み、学習を促進するという観点から、健康で活力にあふれた脳を発達、成長させ、さらに維持するメカニズムの解明をめざす研究、及びそのような研究がもたらす成果の社会への還元が期待されるようになりました。
 本研究領域はこのような脳研究の進展状況及び社会的要請に合わせて平成15 年に設定され、3年間にわたり研究提案の公募が行われました。この公募では我が国において脳研究者が激増しているという状況を反映し、毎年多くの提案がありましたが、平成17年度は59件に達する多数の提案がありました。その中から領域アドバイザーによる書類審査、さらに長時間に及ぶ面接審査を行い、4件を厳選のうえ採択しました。採択後は、毎年の研究報告会や報告書に加えて必要に応じて研究室訪問などを行い、研究がスムースに進行するよう助言、指導を行いました。その結果、これらの研究は、期待通り、学術的に世界をリードする成果をあげ、脳科学に画期的な進歩をもたらしたのみならず、教育や育児、さらに発達障害の治療法を考えるうえで参考となる貴重な知見を得るなど一般社会にとっても極めて有意義な研究成果をあげました。これら成果の詳細は、それぞれの報告にありますので、ここではチームごとに成果の一部をごく簡単に紹介します。

 北澤茂チームは、コミュニケーションと社会性等の発達障害である自閉症の治療法として提唱された応用行動分析(ABA)の有効性を臨床心理学、精神医学、神経生理学を組み合わせた学際的研究チームにより、科学的に検証しました。また、そのABAと同じ手法をサルに適用して生理学的研究を行い、ABAによる発達促進の脳内メカニズムの解明を目指しました。その結果、自閉症児の発達に関して、ABAによる高密度治療群とコンサルテーションのみの群との間に有意差はないが、両群とも非ABA治療群よりは良いという結果が得られました。この結果はABAに基づく治療訓練を受けた親が専門家のコンサルテーションを受けながらABAを実施するという治療モデルの有効性を示唆するもので自閉症治療に対する極めて貴重な知見であると思われます。
 一方、治療効果を評価するための客観評価指標を開発するため、約80秒のビデオ画像を見る際の視線位置の変化を計測し、定型発達群と自閉症群を分離する定量指標を導くことに成功しました。また、発達促進の実験動物モデル開発研究では、ニホンザルで模倣課題を習得させることに成功し、サルの模倣獲得速度は自閉症児の初期の模倣の学習速度に比べ圧倒的に遅いことなどを明らかにしました。
 以上、本研究はこれまでなされてきた遺伝学的アプローチとは異なる新しい研究戦略に基づき学際的なチームを編成し優れた成果をあげたこと、特に、自閉症の治療法としてABA専門家によるコンサルテーションの有効性を示したことは高く評価されます。今後、ABA治療に参加した自閉症児の追跡調査を含め、本研究を継続することで自閉症の早期診断、予防、治療法の改善などに示唆を与える知見が得られるなど、さらなる発展が期待されます。

 小林和人チームは、発育期の脳ではドパミン神経系の活動が行動の学習や発達制御に重要な役割を担い、その回路異常は統合失調症や、自閉症、注意欠陥多動性障害(ADHD)などの発達障害に結びつくという仮説を研究の契機として、先端的な遺伝子改変技術を利用し、げっ歯類からサルまでを対象として、ドパミンによる行動の発達と制御の神経機構およびドパミンに依存する神経回路の形成と発達の分子機構の解明を試みました。そのため、まずドパミン神経系解析システムの開発に取り組み、標的神経細胞機能制御法および遺伝子改変モデル動物の開発に成功しました。具体的には、1)薬物誘導性の運動亢進作用における視床下核の役割、2)弁別学習における線条体黒質路・淡蒼球路の役割、3)逆転学習における線条体コリン作動性介在ニューロンの役割など、ドパミン神経系に依存する学習や経験に基づく行動の獲得、発現、制御の基盤となる神経機構について多くの新知見を得ました。
 これらの研究を通して、脳の深部に位置しそれまで研究が困難であったドパミン神経路を分子レベルで追求可能とする独創的な技術開発を行い、脳内ドパミン系の機能についての理解を大いに進展させました。これらの研究成果は、将来ドパミン神経系の異常によるとされている統合失調症、自閉症やADHDなどの病態理解につながるもので領域の戦略目標の達成に大きく貢献するものと思われます。

 藤田一郎チームは、多くのタイプの学習は大脳皮質神経回路の正常な発達と働きに依存すると想定されているにもかかわらず、その発達に関する研究の多くはマウスやラット等のげっ歯類で行われ、サルのような非ヒト霊長類における知見は非常に乏しいという状況を打破するために、サルの大脳皮質視覚野とその関連領域神経回路の発達に焦点を当てました。具体的には、この領域の神経細胞の生理学的性質(視覚反応性と細胞膜の電気生理学的性質)と形態、局所神経回路、機能構築、およびこれらの生後発達過程の解明を目指しました。
 その結果、1)大脳皮質視覚経路を構成するいくつかの領野は、特有の視覚反応特性と入出力を持ち、これらの領野は細胞レベルさらには樹状突起スパインレベルにおいて異なっていることを発見しました。また、2)その違いは出生時にある程度存在するもののその後の領野特異的な発達過程を経て、領野特異性が強調された成体型形質を獲得することを明らかにしました。
 以上、本研究の成果は、これまでよくわかっていなかったサル大脳皮質の視覚経路にある一次から高次に至る領野の機能構築とその発達メカニズム解明の突破口となるもので、神経科学の進展に大きく貢献したと思われます。また、ヒトに近いサルの知見を得たことによってヒト大脳皮質の発達メカニズムの解明にも貴重な示唆を与えたと思われます。

 和田圭司チームは、これまで母体環境が胎児や乳児の脳発達に及ぼす影響などに関する脳科学的データがほとんどなかった現状を打破するため、母体由来の生理活性物質が胎児・乳児脳に作用しその健やかな発達に寄与することを動物やヒトにおいて実証し、母子間に存在する物質的コミュニケーションの実体解明を試みました。
 その結果、グレリン、脳由来神経栄養因子が母子間生理活性物質として作用していることを見出し、また、牛乳由来の新規物質が発達期マウスに経口投与すると抗不安様作用を示すことを発見、さらにその作用機序の一端を解明しました。これらの研究成果は大変興味深く、ヒトへの応用につながることが期待されます。一方、高脂肪食摂取で飼育した雌マウスの産仔は、海馬に酸化脂質の顕著な蓄積が認められ様々な脳機能変化が観察されること、また授乳中の雌マウスを70%のカロリー制限で飼育した場合、産仔は幼若期から成体期にかけて不安様行動が増加することも明らかにしました。これらの知見は、母体の食習慣が子どもの脳発達に及ぼす影響を分子レベルで初めて明らかにしたもので大変社会的意義のある成果だと思われます。
 以上、母子間バイオコミュニケーションという新しい概念に基づき未開拓の研究分野を立ち上げ、研究計画に沿って研究手法を確立し母子間生理活性物質を数種類同定したこと、さらに母体の食習慣が子どもの脳発達に様々な影響を与えることを分子レベルで初めて示唆した成果は脳科学のみならず社会的にも重要で高く評価できます。今後、この研究がさらに発展し、長い経験に基づいて行われてきた「胎教」や「子育て」に科学的示唆を与えることが期待されます。

 平成17年度採択課題の研究終了にあたり、適切な助言をいただいた領域アドバイザーの渥美義賢、乾敏郎(〜平成17 年3月)、岡野栄之、川人光男(〜平成21 年3月)、小泉英明、田中啓治、丹治順、塚田稔、村上富士夫(〜平成17 年3月)、宮下保司、山鳥重の諸先生、また研究の遂行に助力いただいた坂巻泰尚技術参事、霜野壽弘事務参事(〜平成21 年3月)、丸山和彦事務参事(平成21 年4月〜)をはじめ「脳学習」事務所の皆様に厚くお礼を申し上げます。