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平成16年度採択課題の研究終了にあたって

「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」研究総括 津本 忠治

 近年の脳研究は、初期の遺伝情報により形成された神経回路網が環境からの入力や脳自身の活動によって精緻化や改変を受けること及びこの活動依存的変化には学習と共通のメカニズムがあることを明らかにしました。このような知見は従来、主に実験動物で得られてきましたが、最近、ヒト脳機能の非侵襲的計測技術の発展によって、ヒトにおいても脳機能発達や学習のメカニズムを解明する道が開けてきました。その結果、脳を育み、学習を促進するという視点から、健康で活力にあふれた脳を発達、成長させ、さらに維持するメカニズムの解明をめざす研究、及びそのような研究成果の社会への還元が期待されるようになりました。
 本研究領域はこのような脳研究の進展状況及び社会的要請に合わせて平成15年に設定され、3年間にわたり研究提案の公募が行われました。この公募では我が国において脳研究者が激増しているという状況を反映し、毎年多くの提案がありましたが、平成16年度は73件に達する多数の提案がありました。その中から領域アドバイザーによる書類審査、さらに長時間に及ぶ面接審査を行い、5件を厳選のうえ採択しました。採択後は、毎年の研究報告会や報告書に加えて必要に応じて研究室訪問などを行い、研究がスムースに進行するよう助言、指導を行いました。その結果、これらの研究は、期待通り、学術的に世界をリードする成果をあげ、脳科学に画期的な進歩をもたらしたのみならず、教育や育児、さらに障害後のリハビリテーションを考えるうえで参考となる貴重な知見を得るなど一般社会にとっても極めて有意義な研究成果をあげました。これら成果の詳細は、それぞれの報告にありますので、ここではチームごとに成果の一部をごく簡単に紹介します。

 伊佐正チームは中枢神経の損傷後に起こる機能代償メカニズムを機能と構造変化の両面から統合的に解明するため、主にヒトに近いマカクザルを用いて研究を行いました。具体的には、1)皮質脊髄路の頚髄レベルでの損傷、及び2)大脳皮質一次運動野の損傷後における精密把握運動の機能回復過程を調べました。さらに、感覚入力系の損傷モデルとして3)一次視覚野損傷後、視覚刺激が運動を起こす過程に生じる機能代償機構を眼球のサッケード運動を指標にして、電気生理学、ポジトロン断層撮影法 (PET)による脳機能イメージング、行動解析、遺伝子発現解析、免疫組織化学など多様な手法を駆使して解明を試みました。その結果、頚髄損傷後の機能回復の時間経過や代償的に活動する神経回路を同定するとともにこの機能回復に大脳皮質が関与していることを明らかにしました。さらに、この機能回復に損傷直後の訓練が重要であることも明らかにしました。これらの知見はリハビリテーションの科学的根拠を明らかにするとともにその開始時期や手法に関して貴重な示唆を与えるものと思われます。
 また、一次視覚野損傷モデルにおいて視覚的注意の制御メカニズムや視覚的意識に対応するニューロン活動を発見するとともに、機能回復のため脳が取る回復戦略を明らかにした点は、損傷後の機能回復を如何に促進するかに関して重要な示唆を与えるものです。

 大隅典子チームは、胎生後期から成熟に至る発生・発達過程や成体におけるニューロン新生及び精神疾患的症状に影響を与える遺伝的因子、環境因子を分子、細胞レベルから個体レベルまで階層的に明らかにすることを目指しました。そのため、遺伝子、分子、細胞レベルの研究に適している齧歯類をモデル動物として用いました。
 その結果、主に以下のような成果を得ました。1)転写制御因子Pax6は生後の海馬ニューロンの新生に必須である。2)Pax6の下流因子であるFabp7が胎生期神経幹細胞の増殖維持に必須である。3)Fabp7及びその産物であるFABP7が海馬ニューロン新生を制御するとともに、ヒトの遺伝学的解析は統合失調症のリスク因子である可能性を示唆する。4)Fabp7/FABP7の変異はグリア細胞の腫瘍形成に関与する可能性がある。5)神経細胞膜リン脂質から生じ得るアラキドン酸がラット海馬ニューロンの新生を促進し、精神疾患様行動異常を改善する。
 以上、大隅チームはニューロン新生において重要な働きをする因子を次々に明らかにするとともにその異常が精神疾患に関与する可能性を示しました。

 鍋倉淳一チームは、生後発達後期における神経回路網の精緻化プロセスと成体脳の損傷後の機能回復期における神経回路網の再編プロセスには共通のメカニズムがあるとの視点からモデル動物及び急性脳虚血障害後のヒト脳における研究を展開しました。具体的には、脳虚血障害サルを対象に脳活動とリハビリテーションによる機能回復についてポジトロン断層撮影法を用いて検討を行い、早期リハビリテーションは脳障害エリアの縮小を起こすこと、この回復には「臨界期」があることを示しました。この結果は、リハビリテーションのタイミングの重要性を示すものとして、非常に意義のある知見と思われます。また、脳虚血障害モデルマウスに脳深部の構造を詳細に可視化できる2光子レーザー走査顕微鏡システムを適用して、脳梗塞周辺部ではシナプスの再編成が亢進していること、さらにこのシナプス再編成時にミクログリアがシナプス監視機能を発揮しているという新知見を得ました。この知見は従来よくわかっていなかったミクログリアの機能回復における役割を初めて明らかにしたものとして画期的な発見と思われます。
 さらに、回路機能発達と障害後回路再編成における共通のメカニズムとして、成体において過分極作用を示すGABAが生後発達初期及び傷害後回復期には脱分極作用を示すこと、この変化は細胞内塩素イオン汲み出し分子K+-Cl- 共役担体(KCC2)の脱リン酸化による機能低下や発現消失によることを明らかにしました。このように共通メカニズムを明らかにしたことは障害後回復を促進する方策を考える上で有用な手がかりを与えたものと思われます。

 西条寿夫チームは、情動発達とその障害機構の解明を目指してヒトのみならずサル、マウスなどの実験動物を用いて遺伝子、分子、細胞、行動レベルで研究を行いました。また、情動発達とその障害を社会的認知機能の発達とその障害及び情動学習とその異常に分けて研究しました。
 前者の研究では、例えば、サルに様々な表情写真や視線方向の異なる顔写真を提示し、表情や視線方向の分析から上丘→視床枕→扁桃体の投射系には既知と未知の顔に異なる反応を示すニューロンが存在することを発見しました。つまり顔認知という社会性に重要な認知機能におけるこの投射系の役割を明らかにしました。また、ラットでは扁桃体と密接な関係を有する視床の特定の核に存在するニューロンが過去の報酬体験と将来の報酬予測を符号化していることを発見し、社会的認知機能における学習の重要性を示唆しました。さらに、ヒトにおいて社会的刺激に関する視覚情報が脳の視覚系をどのように賦活するかを、3−9ヶ月児において、近赤外分法を用いて解析しました。その結果、乳児は他者の目の領域を長く注視し、その時には前頭前野の前部領域(前頭極)を中心とした領域の活動が増大することが判明しました。一方、社会的行動が障害されている統合失調症では、前頭葉領域の体積が減少していることも発見し、社会的行動における前頭葉の重要性が再確認されました。
 情動学習とその異常の研究では、動物脳や動物脳から作成した脳切片標本を使用し、扁桃体の活動が電気ショックなどで動物に不安学習を起こすと増大することなどを見出し、情動学習における扁桃体の重要性を示しました。

 ヘンシュ貴雄チームは、主にマウスやキンカチョウなどのモデル動物を用いて、生後の「臨界期」或いは「感受性期」と呼ばれる時期に大脳皮質の神経回路が経験に応じて変化するメカニズムの解明を試みました。その結果、大脳皮質視覚野の錐体細胞のシナプス入力部である樹状突起スパインが「臨界期」にある幼若動物の片目遮蔽によって減少すること、この変化にはタンパク質分解酵素の一種である組織型プラスミノーゲンアクチベータが関与していることを発見しました。この結果は、以前にこのチームが示した「臨界期」発現におけるGABA抑制系の役割から考えて、錐体細胞の形態的可塑性は抑制機構の発達が引き金となり起こることを示唆していると思われます。また、この形態的可塑性に大脳皮質神経細胞の樹状突起に特異的に発現する膜タンパク質「テレンセファリン」の関与を調べたところテレンセファリンを欠如するマウスではスパイン形成が加速されるとともに眼優位可塑性が促進されていることを発見し、この膜タンパク質の可塑性への関与を見出しました。
 視覚野のGABAニューロンは約半数のParvalbumin (PV)陽性細胞とそれ以外の数種の細胞に分けられますが、眼優位可塑性には特にPV細胞が重要であることがこのチームによって以前に報告されていました。本研究では、さらに、PV細胞自身が入力遮断に対して錐体細胞とは大きく異なる可塑的変化を示すことを明らかにしました。一方、キンカチョウのオスは生後、親の歌を聞いて覚え、続いて歌発声を始めると自分で発声した歌と覚えた歌と摺り合わせる特定の時期があり、それぞれ感覚学習期、運動学習期といい哺乳類の「臨界期」に相当します。本研究では、この「臨界期」における学習にGABA抑制が重要であることを発見するとともにその脳内メカニズムの一端を解明しました。この結果は、異なる動物種、異なるシステム間でも普遍的な「臨界期」の形成機構が存在し、この機構にGABA抑制が重要な働きをしていることを示しています。

 平成16年度採択課題の研究終了にあたり、適切な助言をいただいた領域アドバイザーの渥美 義賢、乾 敏郎(〜平成17年3月)、岡野 栄之、川人 光男(〜平成21年3月)、小泉 英明、田中 啓治、丹治 順、塚田 稔、村上 富士夫(〜平成17年3月)、宮下 保司、山鳥 重の諸先生、また研究の遂行に助力いただいた坂巻 泰尚技術参事、霜野 壽弘事務参事(〜平成21年3月)、丸山 和彦事務参事(平成21年4月〜)をはじめ「脳学習」事務所の皆様に厚くお礼を申し上げます。