本事例は、プログラムフレームワークの上記のコンピテンシーに関連しております。
次世代リーダーは、日々様々なトレーニングを受けている。大学や研究機関が提供する科学者向けのトレーニングコースでは、科学・研究スキルの向上に重点が置かれているが、キャリアアップに必要なリーダーシップの養成問題は軽視されがちである。EMBOは科学者のキャリアアップを念頭に置いた総合的な人材育成を目指しており、子会社であるEMBOソリューションズが主軸となって多様なトレーニングコースを提供している。EMBOソリューションズが行っている取組について、トレーニング責任者であるサミュエル・クラール博士氏にお話をうかがった。
欧州分子生物学機構(The European Molecular Biology Organization: EMBO)[参考1]は、ライフサイエンス分野の研究開発を推進する専門的な非営利組織である。個人に対する助成金やフェローシッププログラムの提供、学会への財政支援等を行っている。
EMBOソリューションズ(EMBO Solutions)[参考2]は、EMBOが100%出資する非営利の子会社である。キャリアの初期から中期にある研究者を対象に、リーダーシップやコミュニケーションのためのスキルアップ等、様々なテーマのトレーニングコースを提供している。
画像提供:EMBL Photolab
サミュエル・クラール(Samuel Krahl)博士 [参考3]は、EMBOの子会社であるEMBOソリューションズのトレーニング責任者である。
英国イースト・アングリア大学でフィチン酸とその中間体を生成するイノシトールリン酸キナーゼについて研究し、分子生物学と生化学の博士号を取得した。
その後、研究に関連するキャリアを模索し、EMBOが発行する科学雑誌「EMBO Reports」のサイエンス・ソーシャル部門のアシスタントエディターとなった。
2016年に、クラール博士の業務は、雑誌編集やプロジェクト管理から科学者向けソフトスキル研修に移行した。 EMBOソリューションズに所属して約16年、今では責任者としてトレーニングチームを率いている。
EMBOは多くの加盟国から資金援助を受けており、獲得した資金をライフサイエンス分野の研究者のために活用しています。フェローシッププログラムや助成金支援、セミナーや学会に対する資金提供までその支援活動は多岐にわたっています。
これらの取組の中でも、EMBO Young Investigator Programme[参考4]は、EMBOが研究者育成を促進した好事例の一つです。本プログラムは、指導的立場としてのキャリアをスタートさせた若手研究者を対象としており、既に自分の研究室や研究グループを確立していることが応募要件に含まれます。そこでEMBOでは、研究者のネットワーク作りを支援する助成事業も行っています。クラール博士は「EMBOはライフサイエンス分野をリードするすばらしい研究を生み出すために、『人』に投資することを目的としています」と、EMBOの基本理念について語ってくれました。 EMBOソリューションズが、シニアのポスドクやグループリーダーを対象に実施しているトレーニングでも、個人に焦点を当てた支援を行っています。クラール博士とそのチーム、そして、ドイツのコンサルタント会社Leadership Sculptor社[参考5]が派遣したファシリテーター(進行役)が、リーダーシップを中心とした様々なソフトスキルに関するテーマを取り上げ、モチベーションの低い博士課程学生への対応、研究グループ内での対立への対処等、多様な課題に取り組んでいます。また、EMBOソリューションズのトレーナーやEMBO Pressの編集者は、博士課程学生や若手ポスドクを対象として、研究インテグリティや科学コミュニケーションに関するトレーニングも行っています。
クラール博士たちにとっても、EMBOとそのトレーニングコースで現役の研究者と接する中で、科学者が日々直面している課題について、生の声を聞くことができるのは大きなメリットです。これにより、EMBOソリューションズが科学者たちのニーズにしっかりと応えられているかを常に確認でき、それに合わせてトレーニングコースを開発・改良することができます。
EMBO Young Investigator Programmeの責任者であるGerlind Wallon博士は、同プログラム参加者たちのニーズに応えて、2004年5月に2004年5月にEMBO Lab Leadership Courses[参考6]を開始しました。このコースは、Leadership Sculptor社を率いるCJ Fitzsimons博士と共同で開発されました。2009年頃から、EMBOソリューションズがこれらのコース運用を担当するようになり、EMBOの補助金と関係のないコースも含め、世界中の科学者が利用できるようになっています。
EMBO ソリューションズは、もともと2009年~2016年に開催されたライフサイエンス系研究者のための欧州の年次大会「EMBO Meeting」をオーガナイズするために設立されました。EMBO Meetingが一旦中断された時に、リーダーシップや科学スキルに関するトレーニングコースの運用や実施に力を入れて、成長してきました。特に、トレーニングに特化したチームを編成したことで、より効果的なトレーニングコースを提供できるようになりました。クラール博士のチームには3名の専任トレーナーがおり、EMBO Press編集者チームやLeadership Sculptor社チームとのコラボレーションにより、トレーニングのポートフォリオに様々なスキル、視点、専門性が加わることで、相乗効果をもたらしています。
EMBOは、様々なコースや取組を通じて、科学者が優秀なリーダーになれるよう支援することを目的としている。画像提供:Shutterstock
EMBO Lab Leadership Coursesは約16名の少人数制で、交流が盛んに行われるよう、ファシリテーターと参加者の比率が調整されています。全員、参加意欲が高く、豊富なアクティビティを通じて、ファシリテーターと参加者が有意義な会話を交わしながら、コースは進んでいきます。
毎年、EMBOソリューションズは、ポスドクやグループリーダーを対象とした24種類のコースを開催しています。公開コースは、該当するキャリアステージにいるすべての科学者の利用が可能で、ドイツのハイデルベルク近郊のホテルで3、4日間行われます。これとは別に20~30程度の非公開コースもあり、世界各地の研究機関で各チームの要望に応じて開催されています。非公開コースは、ドイツ、イタリア、スペイン、フランス等のEU諸国をはじめ、イギリス、アメリカ、インド、そして日本等のアジア諸国から参加者を募り、グローバルな視点で運営されています。EMBOソリューションズでは、毎年約900~1,000名の参加者を受け入れています。
コースの大半は対面で行われますが、COVID-19をきっかけに、EMBOソリューションズ、Leadership Sculptor社、EMBO Press編集部がオンラインコースを開発し、EMBOトレーニングのポートフォリオの一部として継続的に運用しています。出張や外出が難しい人でも受講できるため、とても重要な役割を担っています。オンラインコースの開発には約半年を要しました。物理的な場所ではなく、デジタルな環境でライブ形式で行われるにもかかわらず、オリジナル版と同じスタイル、長さ、形式のコースを提供しているのが特徴です。
クラール博士は「オンラインとオフライン、両方のコースの本質は、人々が学び、共有し、仲間としてお互いにつながり合える空間に集まることにあります」と話します。オンラインコースでは、ソーシャルな側面でいくつかの制限がありますが、教材やコンテンツの有効性は変わりません。
EMBOは、ライフサイエンス分野の卓越した研究開発を促進し、支援するという長期的なミッションに向かって活動しています。「EMBOは、研究者が優れた研究を生み出せるようなポジションに就けるよう支援したいという願いをこめて、これらのコースを運営しています」とクラール博士は話します。
近年、優れたリーダーシップを発揮する研究者が優れた研究や価値のある結果をもたらすということが世界の常識になってきました。「リーダーシップとは、実は非常に難しいもので、周囲から孤立し、孤独になることもあります。そのような困難な面を乗り越えることは大変です」とクラール博士は言います。そこで、博士のチームは、指導する立場にある科学者を支援して、優れた研究を行うためのツールやスキルを提供すると同時に、部下や自身のケアにも取り組んでいます。EMBOソリューションズチームは、「すばらしいリーダーは、人間としてもすばらしい人々から生まれる」という意識を持って働いています。人々の役に立ちたい、科学研究の経験をより良いものにしたい、そんな想いがチームの原動力になっています。
心の知能指数(EQ)をテーマにグループワークを行うクラール博士。フリップチャートを使用することで、参加者自身の持つ経験や見識を、議論や戦略の構築に活かすことができる。画像提供:EMBL Photolab
科学研究におけるキャリア開発には、情報収集力や知識を共有するスキル、判断力、運や忍耐力等のあらゆる能力が必要となります。どのような分野でも成功が約束された道はなく、科学研究も例外ではありません。アカデミアでキャリアを積む人もいれば、研究関連の職業で別の実績を積む人、アカデミアを離れて他の分野で科学的な視点を生かして活躍する人もいます。異なるキャリアを歩んだとしても、全てのキャリアに共通するのは、思慮深く合理的な視点、物事やその仕組みについて知りたいという知的好奇心、そして、目の前の仕事を追求する勤勉さとひたむきに打ち込む姿勢です。
EMBO Lab Leadership Coursesでは、学術的なチームでもそうではなくても、あらゆるチームで主要メンバーとして働くために有用なスキルを身につけることができます。特に、円滑なコミュニケーション力は、どのような役割においても成功するために不可欠です。アカデミアにおいても、一人で研究を行うわけではありません。研究室には複数の研究者がいるものですし、さらに国内だけでなく、世界各地に共同研究者がいます。そのため、科学分野でのキャリア形成には、チームビルディングやチームワークの適性を養うことも必要です。キャリアアップに伴い、様々な業界でリーダーとしての役割を担うことになりますが、チームを深く理解し、うまくリードする能力が最も重要です。
リーダーは、研究グループのメンバーをまとめるだけでなく、適切な権限を与える、サポートする、指導する等の臨機応変な対応が必要となります。EMBO Lab Leadership Coursesでは、これらのバランスを取る方法について指導し、キャリア開発を成功へと導きます。
クラール博士は、「リーダーシップ能力を左右する要因は非常に多く、リーダーによって重要な資質が異なります」と言います。コースの参加者に共通する特徴として、高い共感力と感情的な知性、記憶力、傾聴力、直感力や洞察力、目の前のテーマに対する集中力等が挙げられます。EMBO Lab Leadership Coursesでは、これらのスキルを磨き、リーダーとしての適性を形成する場を提供しています。
EMBO ソリューションズチームは、若手研究者向けのリーダーシップコースの設計と普及に取り組んでいる。画像提供:Andreas Henn
EMBOソリューションズは小規模なチームですが、研究者としての経歴を持つ多様な人材が在籍しています。メンバーの多様な文化的、経験的な視点を組み合わせ、コースの開発と運用が行われています。さらに、Leadership Sculptor社のトレーナーチームには、ビジネスコミュニケーション、コーチング、組織改革、心理学、交渉術等の多様な分野の専門知識を持つファシリテーターが参加しています。クラール博士は「トレーニングやその開発の背景にある専門知識を融合することは、様々な分野の視点を研究に取り入れる上で重要です」と話します 。
研究のバックグラウンドを持たないファシリテーターが特に苦労したのは、科学者として研究室で働くとはどういうことか、コンピュータを用いたコーディングとはどういう作業なのか等、研究の現場について具体的なイメージを持つことでした。クラール博士は、長年、科学者と共に働いた経験があり、かつ、チームはドイツのハイデルベルク研究所を訪れ、多くのことを学んでいます。そうした経験から、チームはライフサイエンス研究者が直面する特定の課題に対する認識と理解を深め、ライフサイエンス研究でその専門性を発揮できるようになりました。
コース自体も、ファシリテーターだけでなく、参加者の様々な専門知識や経験を活かせるように設計されています。クラール博士は、「コース内容や知見の約半分は、ファシリテーターが提供していますが、残りの半分は、研究者自身がお互いの課題を解決するために協力し、経験やアドバイスを共有することで得られています。ファシリテーターも参加者と同じように学び、コース内容は毎回異なります」と言います。こうした取組を促進するために、画一的なケーススタディやパワーポイントは避け、参加者が実際に直面している課題とフリップチャートを使っています。そして、可能な限り有意義で、価値のある仕事につながるように工夫しています。
EMBO ソリューションズでは、negoservices社[参考7]のMelissa Davies氏とStéphanie Ruder Schoof氏が開発・運用しているセルフリーダーシップコースも提供しています。これらのコースのうちの半分はすべての研究者が利用可能ですが、残りの半分は女性のためのコースです。これらのコースは、EMBOコミュニティの女性研究者からの要望で、EMBOソリューションズが提供するコースのラインナップに加えられました。女性専用コースでは、研究において女性が一般的に直面する課題や、一般的な課題でありながら、女性にとっては男性とは少し違った形で立ち現れる課題について話し合うことができ、現在でも継続して開催されています。「どちらのコースも内容やアプローチは同じですので、平等で機会均等が実現した理想的な世界では、女性のためのコースは必要ないかもしれません。しかしながら、多くの平等が実現しつつある現在でも、EMBOソリューションズが女性のためのコースを中止する可能性は低いでしょう」とクラール博士は話します。
バーチャルな世界での交流の増加に伴い、コミュニケーション環境が急激に変化しており、あらゆる業界の人々はコラボレーションやネットワーキングを通じて、キャリアアップするための新たな方法を模索しています。コミュニケーション、共感、問題解決能力等のソフトスキルは、科学的能力や研究適性と同じくらい重要です。EMBOソリューションズは、これらのスキル向上への取組を支援しています。
EMBOは、EMBOソリューションズを通じて、研究者に優れたリーダーシップや、研究の統括、コミュニケーション能力、プロジェクトのマネジメント能力を提供することを目的としています。これらの能力は自分自身のキャリアにプラスに働くだけでなく、共に働く同僚にも良い影響を与えます。健康で充実したスキルを持った人材が、研究や社会に貢献することは明らかです。そのため、個人の総合的な成長はより良い研究の実現だけでなく、アカデミア、産業界、またはそれ以外の様々なキャリアパスにおける成功につながります。
取組名 | コンピテンシー |
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EMBO Young Investigator Programme |
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EMBO Lab Leadership Courses |
取材日:2023年1月
取材協力:カクタス・コミュニケーションズ株式会社