122. 破壊と創造(1)

 この言葉は最近の「イノベーション」競争社会で頻繁に目にする。さまざまな文脈で語られるこの言葉は経済学者のシュンペーターが「新結合」とともに、経済発展に不可欠なイノベ−ションの重要性を語る仮説であった。2000年6月に松下電器の分社であったAVC社社長から本体の社長に就任した中村さん(中村邦夫松下電器会長)は破壊と創造によって短期に赤字を解消し、6年間で見事なV字回復を実現し新松下が目指すワールドエクセレンスのイメージを創りあげ、昨年6月に大坪現社長に経営を引き継いだ。経営書のネタとしては格好の材料になる実績であろう。最近でもダイヤモンド社からフランシス・マキナニー著の「松下ウエイ」が世界に先駆けて日本で発売された。筆者もわずかな時間であるが中村さんの横顔を垣間見る機会があった(そこで学んだことは、一度コラム94.言語明瞭意味不明2006.3.17で紹介した)。いくつかのエピソードから改革のベースとなった経営哲学のヒントがつかめるかもしれないと考えたので今でも鮮烈な印象を受けたとの思いを持つエピソードを思いつくままに紹介したい。 (ただ、ほとんどのエピソードは、本社の社長に就任する前の分社であるAVC社社長時代のことであるが、貫かれている哲学は見えてくるものと期待している)。

@      記録メデイア事業部で

デジタルビデオカメラ用の蒸着磁気テープ(DVテープ)の事業が寡占事業として立ち上がったことが幸いして収益は極めて短期間で黒字になった。事業に勢いが増していった良い時期に記録メデイア事業部長が岡山県津山市にある工場に当時の中村AVC社社長を招待した。研究所から引き継いだDVテープが話題の中心ということで、筆者も同席し応接室で中村さんの隣に座って事業部長の説明を聞き、いくつかやりとりが行われた。トップの現場訪問は、激励を受けてしゃんしゃんというのが普通良くあるパターンであるがそうではなかった。DVテープでまだ数年から10年は稼げるという段階であったから「篠原君これからはデイスクやで」との中村社長の言葉に居合わせた人たちは(特に事業部の幹部たちは)どう対応したものか、あきらかに困った様子であった。筆者は小人数ではあったが、真空蒸着法で光デイスクを製造することで実用化技術になっているスピンコート法を凌駕する記録密度で、なおかつ超高速での記録を可能にするライトワンス(一回しか記録できないところにさまざまな記録メデイアが提案される中で魅かれる存在意義を感じていた)光デイスクの探索研究開発を進めていたことと、できればハードデイスク(磁気記録)もテープの後にやれないかと悩んでいたこともあって、その場では「そうですね」とだけお答えしたのであるが、先を見ていることと任せるところは任せる経営の哲学の実践の一例といえるエピソードとして印象に残っていることである。

A      CD-Rの説明時

 真空蒸着で試作したCD−Rの紹介をするために一時間のアポを取った。開発の主担当者に説明資料を作ってもらってからA3,5枚以内で簡潔に説明し理解を深めてもらおうという狙いで訴えたいことを絞った。冒頭「性能が良くなるほど安いデイスクがこのプロジェクトのコンセプトです」という筆者の顔を見て、中村さんは何も言わずただニヤッとしただけであった。
まず市販の機械で記録した情報の再生を短時間デモしたあと、説明に入ろうとしたら、「そのまま再生しておいてくれ」といわれた。技術屋の説明を聞き、質疑をしながらも、時折視線を再生画面に送っていた。おそらく試作のレベルを見ようとされていたのだと推察する(会社であっても、いいところだけを取り出して(使って)デモすることは珍しくなく、時が経過して、あの話はどうなったのかといった事例も少なくない)。中村さんは技術屋の仕事に大きな期待を持って経営した経営者であろう。
それが感じられたのはプレゼンに対してのコメントは一切なしであったが、アメリカ松下のトップであったときにCD-Rが市場でどう評価されていたかの事実だけの話をされ(当時でもアメリカの病院ではレントゲン写真の保存に急拡大しているといったことなど)た。重要な判断はまず現場でしなさいといった経営スタイルだったのだろう。

B      研究所か、開発センターか

研究所に限らず、組織の名前は大きく分けて、「名は体を表わす」と「関係者以外にはわからない」ものとになっている。筆者は組織図の中に点線でつながった組織に所属したり、名前から別のことを世間が想像するであろうといった名前(ハードデイスク開発センターをHD開発センターとしたのは、筆者の勤務した会社のイメージから世間がHDをハイビジョンと思うであろうということだったらしい)を頂戴したり奇妙な体験をしている。中村さんはAVC社の将来に危機感を感じ、技術陣に持てる力を最大限に発揮してほしいということで事業部門に属していた研究所の名前を開発センターに変えたのである。技術陣に市場に近いところで活躍してほしいというメッセージであっても、特に若い技術陣からはブーイングもなかったわけではない。
開発センターになって意識がすぐ変わったわけでもないが開発センター(というか技術陣に)に何を期待しているかが最大のインパクトを持って伝わったのは「生涯収支」と「技術の引き出し」の考え方であったろうと思う。つくばに来て、基礎研究の支援をする立場になってこの夏で6年が経過する。夢中になって現場で開発に取り組んできた時期を過ぎてマネージメントの立場になってから「生涯収支」と「技術のひきだし」について大事だと思ってきたこともあって、強く共感を覚えた。

この二つの考えは、研究開発に対してきわめて普遍的に通用する考え方だと今も思っている。

基礎研究においても然りであり、そのあたりについては別の機会に少し詳しく述べたいと思う。


                              篠原 紘一(2007.4.27)

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