123. 3階建蒸着機(1)

 およそ30年前、茅ヶ崎のアパートを借りて自転車で大手真空機器メーカの工場に通った。先発は筆者一人、途中から後輩も加わって二人で、メーカの技術陣、製造の人達とまさに一体となって巨大な蒸着機と向き合った。この種の機械装置は開発用としては通常は投資されることはほとんどない。なぜなら、一言で言えばスケールアップに伴うリスクが大きすぎるからである。基礎研究の支援をしながら、研究設備の導入で時折筆者自身の経験と比較しながら思いを新たにすることがある。それらを順次紹介していきたい。

 無謀な挑戦(?)

 蒸着タイプの磁気テープ(MEテープ)の開発は1975年にスタートした。オーディオテープも、ビデオテープも磁性粉を樹脂に分散させてフィルム基板に塗布するやり方で製造されていた時代である。金属薄膜の磁性体を用いれば、記録密度を著しく高められることが磁気記録の研究から期待値としてはあったが、湿式めっき法、スパッタリング法、真空蒸着法で作成されたテープといっても、長さは10センチメートル足らずで、実験報告はほとんどない時代のスタートであった。しかし磁性体の蒸着技術はなくても、フィルムの金属化技術はフィルムコンデンサや金糸、銀糸など装飾分野で実用化されて身近に存在していた。実際に、MEテープの開発プロジェクトはコンデンサの開発用として投資された電子ビーム蒸着機(この装置を関係者はM-0と呼んだ)を改造しながら進めていった。

プロジェクトチームが5名でスタートして3ヶ月後に、松下幸之助創業者がMEテープに強い興味を抱いて開発現場に立ち寄ったことをきっかけにプロジェクトは異常な(といわざるを得ない)までの展開を見せた。M-0はフィルムの幅が15cm,電子ビーム蒸発源は270度偏向の水冷銅ハース型の実験規模のものであった。幸之助の現場訪問の3ヵ月後には大型実験機(これをM-1と呼んだ)の導入の話が持ち上がった。M-1蒸着機の構想設計は筆者が任された。設計といえば研究開発の要素は最小限となるように、過去の技術蓄積が生かせる対象に対して行うのが通例である。M-1はその意味では設計の枠から大幅に外れた代物であった。フィルムに高融点金属を高速で蒸着することができるかどうかも実験確認例は皆無であったし、大量蒸発させるには水冷銅ハースでは熱ロスが大きく耐火物容器の使用が可能かどうかもわかっていなかった。仕様が提示できる状況ではないことから、仕様は幅を持たせてこんなものが作りたいといったイメージの提示に近いことになってしまった。日本とドイツの2つの会社と話し合いを持った。磁気テープを作るということは隠して、特殊なフィルムコンデンサを作るということで蒸着金属はアルミニュームとニッケルを蒸着できる500幅の機械装置を要望した。

 ドイツの会社は、仕様の必要性が理解できない(たとえば特殊なコンデンサだといってもコストから言って蒸着時の真空度も過剰スペックだとの主張を譲らなかった)ことから、見積もりまで進まなかった(しかし、後にも何回かコンタクトをとってわかったのは、重要な業界ニーズになると判断した場合は同じ設計で2台を製作し、一台は契約先に販売し、もう一台は実験改良して業界に改善提案したり、新たにユーザー開拓するといったやり方をとってきたようなのである。筆者らの仕様があいまいで何をターゲットにしているかが不透明であったことから、消極的であったが、後に新しい磁気テープの生産技術であることがわかった途端にM-1の要素を取り入れた小型実験機をMEテープ向けの標準実験機として積極的に販売し実績を残した)。

 一方日本の代表的真空機器メーカと話が順調に進んだかといえばそうは行かなかった。結局覚書を結んでしか進まないこう着状態に陥った。M-0とM-1の間のギャップが大きすぎたからである。以前にも書いたが、始めて試みることについては、可能な限り真空槽の中で起こっている現象を人間の目で観察できるように作ってもらった。形は何とかできるであろう。それが果たしてまともに機能するかはまったく見通しのないまま、社内の決裁を取ることになった。M-0はコンデンサー開発用であった。それを内部は原型をとどめないくらい改造に改造を重ねて、磁気テープを真空蒸着によって300メートル作れるようになっていた。それでもM-1は異次元の世界に思えた。M-0の最終決裁者であった当時の技術担当副社長は、素直な感想(?)を決裁書に書き込んで印鑑を押された。

「あまりにも不確定要素が多く、おそらく失敗に終わるであろう。」といったコメントが正式文書に残っているのを見たのは最初で最後であった。

 決裁書に印鑑をいただくまでに「要素をベルジャー型の小型実験機でもっと詰めてから考えたらどうか?」「君は(筆者の上司に対して)いくつも開発を成功させてきた。なのになぜ失敗するとわかっていることに突っ込んでいくのかわからない。開発者にしてみれば、後ろから切られるよりは、眉間に傷を負うほうがいいのかもな。たとえそれが致命傷になっても・・・」とのやり取りにも驚かされた。

 要素還元主義が科学技術の進歩の中心にあったのは事実である。しかし、何が起こるかわからないような世界に首を突っ込んでみて、すべての要素がクリアにならなくてもシステムとして(というかトータルとして)うまくいくかもしれないことに挑戦することも誰かがトライするべきであろう。

 融合を叫ばれるナノテクノロジーなどはこういった試みがある割合であってしかるべきと思うが、今の競争的資金のあり方では難しそうだといった感じがしている。


                              篠原 紘一(2007.5.11)

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