我々人間の脳のような高度な神経系は、単純な回路ユニットが多数集まった集積回路からできている。このような神経ネットワークを形成するには、まずユニット内を配線し各「パーツ」を作り、次にそれぞれのパーツの間を「連絡」する線を結ばなければならない。この配線は神経繊維に相当し、神経繊維は適切に配置された道しるべ分子(主にタンパク質)を認識しながら伸びる。クラゲなどの、一つのユニットからなる下等な神経回路ではこれで完成であるが、複数のユニットが並んだ集積構造を持つ神経系を作る場合には、繰り返して配置されたこの道しるべ信号が干渉しあい、ユニットの間の接続を邪魔する。
今回、研究チームは神経繊維がユニット間を渡る瞬間にROBOというタンパク質を発現し、この矛盾した信号の受容をシャットダウンする事で「集積化」を可能にしている事を発見した。神経回路のユニットをつなぐメカニズムの発見は、再生医療の夢の一つである神経回路を再生させる技術を開発するきっかけになるかもしれない。
本成果はJST戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CRESTタイプ)「生物の発生・分化・再生」研究領域(研究総括:堀田凱樹 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 理事長)の研究テーマ「細胞内パターニングによる組織構築」の研究代表者・広海健(情報・システム研究機構 国立遺伝学研究所 教授)、および平本正輝(同研究員)らによって得られたもので、2005年12月11日付(米国東部時間)の米国科学雑誌「Nature Neuroscience」オンライン版で発表される。
<研究の背景>
コンピュータに使われるLSIが回路の基本単位であるトランジスタの集合体でできているように、脳の複雑な神経回路も単純な回路ユニットの集合体でできている。コンピュータの回路は、すでにできあがったパターンを一気に焼き付ける事で作られる。一方神経では、個々の神経細胞が自ら配線作業をする必要があり、そのためには神経繊維が特定の道順に従って伸びていかなければならない。発生中の神経組織の中には、要所に配線作業の「道しるべ」となる分子が配置されている。神経細胞は神経繊維*1の先端で道しるべ分子を認識し、反発信号から離れる、あるいは誘引信号に近づく様に伸びることにより標的に到達し、配線を完了する。これまでに、ユニット内の配線に使われるさまざまな道しるべ分子やその受容体が同定されてきた。しかし、集積回路を作るためにユニット「間」を配線する際には新たな問題が発生する(図1)。ユニットの内部の道しるべに従っているだけでは、ユニット内を巡るだけで、いつまで経ってもユニットの外に出てユニット間を連絡することができないのである。 従って、神経系で集積回路を作るためには、配線作業に何らかの「切り換え」が必要であると予想される。この状況はリニアモーターカーの走行と似ている。リニアモーターカーの線路はN極とS極が交互に並んだユニット構造をしており、磁石を積んだ車体は反発および誘引によって推進力を得る。しかしこれだけではユニットを超えて進む事はできないため、極を切り換える事で進み続ける事を可能にしている。一方、神経ネットワークの形成において神経繊維がユニットを超えて伸び続けるメカニズムは不明であった。
<研究の経緯>
広海チームは、1世紀の間神経回路形成メカニズムの基本概念として受け入れられていた「化学走性仮説*2」というドグマ引用文献(1, 2)に疑問を持ち、独自の研究を進めていた引用文献(3)。「化学走性仮説」とは、神経組織内の数箇所から分泌される分子が「濃度勾配」をつくり、勾配が提供する方向性の情報により神経ネットワークの枠組みが作られるという仮説である。脊椎動物やショウジョウバエの正中線*3では、分泌性の反発分子と誘引分子が作り出されている。これらの動物の脊髄に相当する部分では縦に伸びる神経が正中線から距離を保って前後に伸びている。反発分子のセンサーはROBO*4という分子であるが、この遺伝子の変異体ではこれらの神経繊維が誤って正中線に引き寄せられたかの様な挙動を取る。この現象は正中線からの反発シグナルを受けられなかったため起こったと解釈できるため、一世紀前に提唱された「化学走性仮説」を支持する重要な証拠であると考えられていた(図2)。
もし神経繊維の誘導が誘引・反発分子に対する走化性によって行われているなら、これらの分子は正中線をピークとした濃度勾配を作っていなければならない。しかしこれまでその様な分布が観察された例はない。2000年に平本研究員らは、それまで誘引物質と考えられていたネトリンという分子が新しいメカニズムによって、濃度勾配とは全く異なるパターンに配置される事を発見した引用文献(3)。正中線からの誘引シグナルを作ると思われていた分子が全く異なる機能を果たしていた事から、今回平本研究員らは反発シグナルに関しても従来の考えが誤っていると予想した。そこで高度な神経系がユニットの集合体からなる集積構造をとっている事に注目し、新しい視点で研究を行った。その結果、反発シグナルも濃度勾配とは異なる機構で働いていることが明らかになった。
反発分子を認識できないROBOの変異体で神経が誤って正中線に投射するのは、「正中線から離れる」という情報が解釈できなかったためではなく、神経繊維がユニットの境界に到達したときに、配線のモードを切り換えることが出来ずにいつまでもユニット内を配線しようとし、ユニットから出られなくなってしまうためである事が分かった(図2)。
正常型では、ROBOという分子は神経繊維がユニットから出て連絡を開始する瞬間に出現し、ユニット内の配線信号を無効化して配線のモードを切り換える役割を果たしていた。従ってこの発見には定説を覆したという意義もある。
<今後の展開>
我々人類が持つ高度な神経系も下等な神経系も回路の基本ユニットは単純であり、その違いを作り出しているのは主に集積度の違いである。平本研究員らによる発見は、回路ユニットを連絡し集積回路を作る時に隣り合うユニット間の神経繊維誘導信号が干渉する事、その問題をROBOという分子が解決している事を明らかにしたことにより、神経回路の高度化のメカニズムに新しい局面を開いたと言える。神経回路を再生させる技術は再生医療の夢の一つであるが、神経回路形成機構の基礎研究が十分進んでいないため実現していない。ユニット間には神経繊維の誘導を誤らせる信号が発生する事と、その解決方法を発見した事は、この医療をステップアップさせるきっかけになると考えられる。
<引用文献>
(1) | Ramon y Cajal, S.: Histologie du Systeme Nerveux de l'Homme et des Vertebres 1, 657-664(1901). |
(2) | Tessier-Lavigne, M., Placzek, M., Lumsden, A. G., Dodd, J., Jessell, T. M.: Chemotropic guidance of developing axons in the mammalian central nervous system. Nature 336, 775-778 (1988). |
(3) | Hiramoto, M., Hiromi, Y., Giniger, E. and Hotta, Y.: The Drosophila Netrin receptor Frazzled guides axons by controlling Netrin distribution. Nature 406, 886-889 (2000). |
【論文名】
“ROBO directs axon crossing of segmental boundaries by suppressing responsiveness to relocalized Netrin”
doi :10.1038/nn1612
【著者名】平本正輝、広海健
この研究テーマを実施した研究領域、研究期間は以下のとおりである。
JST戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CRESTタイプ)
研究領域:生物の発生・分化・再生(研究総括:堀田凱樹)
研究テーマ:細胞内パターニングによる組織構築
研究期間:平成14年度~平成19年度
なお、本研究は、JST戦略的創造研究推進事業個人型研究(さきがけ)「認識と形成」(研究総括:江口吾郎)」における研究テーマ「形態形成時の受容体による位置情報の提示機構」(研究者・平本正輝、平成12年度~平成15年度)で開始され、CREST事業に引き継がれて完成したものである。
****************************************【本件問い合わせ先】
広海 健(ひろみ やすし)
大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構
国立遺伝学研究所・発生遺伝研究部門
総合研究大学院大学 (SOKENDAI)・遺伝学専攻
〒411-8540 静岡県三島市谷田1111
TEL: 055-981-6767, FAX: 055-981-6868
E-mail:
佐藤 雅裕(さとう まさひろ)
独立行政法人科学技術振興機構 戦略的創造事業本部 研究推進部 研究第一課
〒332-0012 埼玉県川口市本町4-1-8
TEL:048-226-5635, FAX:048-226-1164
E-mail:
****************************************