ポイント
- 記憶同士が関連づけられる際に、それぞれの記憶を司る記憶痕跡細胞集団が重複するが、その役割は不明だった。
- 重複した記憶痕跡細胞集団は記憶の関連づけ(連合)のみに関与し、それぞれの記憶を思い出すためには必要ではないことを明らかにした。
- 個々の記憶に影響を与えることなく、記憶の不要な結びつきのみを切り離すことも可能になり、精神疾患の新たな治療法の創出にもつながると期待される。
JST 戦略的創造研究推進事業の一環として、富山大学 大学院医学薬学研究部(医学) 生化学講座の井ノ口 馨 教授らは、マウスで、個別に形成された記憶同士が繰り返し同時に思い出されるような場合に、脳内のある特定の神経細胞集団がそれぞれの記憶同士を結びつけていることを初めて明らかにしました。
私たちは脳に蓄えられているさまざまな記憶情報を関連づけることで、知識や概念を形成していきます。それぞれの記憶は特定の神経細胞集団(記憶痕跡細胞集団)によって脳内に蓄えられており、記憶同士が関連づけられるときには、それぞれの記憶を司る細胞集団同士が重複すると報告されていますが、重複した細胞集団の役割は不明でした。
本研究グループは、マウスを用いて味覚嫌悪学習(CTA)注1)と音恐怖条件付け(AFC)注2)という2つの連合記憶を関連づける高次連合実験系を確立しました。CTAはサッカリン水溶液と塩化リチウムによる内臓倦怠感、AFCはブザー音と電気ショック(それに対するすくみ反応)がそれぞれ関連付けされる学習です。それぞれの条件刺激注3)(CTAではサッカリン水溶液、AFCではブザー音)を連続して同時に思い出させると、本来別々に得られたCTA記憶とAFC記憶が関連づけられました。すなわち、サッカリン水溶液を飲むと、ブザー音を聞いた時のようにフリージング(すくみ)反応を示すようになりました。その時、CTA記憶とAFC記憶を司る扁桃体では、各記憶に対応した記憶痕跡細胞集団の重なりが増えました。逆に、記憶を思い出した時に、重複した記憶痕跡細胞集団の活動のみを実験的に抑制すると、2つの連合記憶同士が連合する割合が低減しました。一方で、CTAおよびAFCそれぞれの記憶、すなわちオリジナルの記憶の想起は正常のままでした。これにより、重複した記憶痕跡細胞集団は記憶の連合のみに関与し、それぞれの記憶の想起には必要ではないことが明らかになりました。
記憶が関連づけられる仕組みに関する今回の研究は、知識や概念の形成といったヒトの高次脳機能の解明につながる成果です。また、関連性の弱い記憶同士の不必要な結びつきは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を始めとする精神疾患に密接に関わっていることから、今回の成果はこれらの疾患の治療法の創出につながると期待されます。
本研究は、富山大学 大学院医学薬学研究部(医学)の横瀬 淳 特命助教、東京慈恵会医科大学 痛み脳科学センターの加藤 総夫 教授らと共同で行ったものです。
本研究成果は、2017年1月27日(米国東部時間)に米国科学誌「Science」のオンライン速報版で公開されます。
本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 |
「生命動態の理解と制御のための基盤技術の創出」
(研究総括:山本 雅 沖縄科学技術大学院大学 教授) |
研究課題名 |
「細胞集団の活動動態解析と回路モデルに基づいた記憶統合プロセスの解明」 |
研究代表者 |
井ノ口 馨 富山大学 教授 |
研究期間 |
平成25年10月~平成31年3月 |
JSTはこの領域で、ゲノムやたんぱく質・脂質をはじめとする生体高分子が織り成す生命現象を無細胞系、細胞、細胞集団のレベルで観察・実験・計測し、この生命体の動的システムを時空間の視点で統合的に理解することを目指します。同時に、これらの研究を基盤として、生命現象を自在に操る技術の創出を追求します。上記研究課題では、記憶のダイナミックな側面に注目し、ニューロン集団の活動動態に焦点を当てた解析と数理モデルの構築を通して、神経回路レベルの記憶のメカニズム解明を目指します。
<研究の背景と経緯>
知識や概念の形成は、異なる経験を通して獲得した記憶を既存の記憶に付け加えていく作業であると考えられます。すなわち、脳内では個々の記憶同士が相互作用し合うことにより記憶間で新たな連合が生まれ、既存の記憶が更新されています。近年、個々の記憶は経験時に活動した特定の記憶痕跡細胞集団として脳内に蓄えられていること、また、それら記憶同士が連合する際には、それぞれの記憶に対応する記憶痕跡細胞集団の間で、重複して活動する細胞の割合が増加することが報告されています。
このように、これまで記憶同士の連合が成立する際には、個々の記憶痕跡間において重なりが増えることは知られていましたが、その重複細胞集団自体の機能的な役割はほとんど明らかにされていませんでした。
<研究の内容>
本研究ではマウスを用いて、異なる記憶同士の連合学習系として味覚嫌悪学習(CTA)と音恐怖条件付け(AFC)を組み合わせた新たな行動実験系を確立し、それぞれの記憶が関連づけられる仕組みを調べました。
異なる2種類の記憶課題として、いずれも扁桃体を必要とする学習であるCTAとAFCを用いました。CTAは条件刺激としてサッカリン水溶液(甘い水)、無条件刺激注3)として塩化リチウム投与を用いました。塩化リチウム投与は内臓倦怠感を引き起こすため、学習後マウスは元々好物だったサッカリン水溶液を忌避するようになりました。一方でAFCは、条件刺激としてブザー音、無条件刺激として足への電気ショックを用いました。学習後、マウスはブザー音を聞くと恐怖反応であるフリージング(すくみ)反応を示すようになりました。
それぞれの記憶を個別に形成させた後、それぞれの条件刺激(サッカリン水溶液とブザー音)を連続してマウスに与えて両記憶を同時に想起させると、その後マウスはサッカリン水溶液を飲むとフリージング反応を示すようになりました(図1)。この結果は、独立に形成したCTA記憶とAFC記憶が連続した同時想起により相互作用したことを示しています。また、その際にCTA記憶とAFC記憶を司る扁桃体領域において、各記憶に応答して活動した記憶痕跡細胞集団をcatFISH法注4)により特定したところ、連続した同時想起を行った群で両記憶を担う記憶痕跡細胞集団の重複率の有意な増加が認められました(図2)。この結果は、重複した記憶痕跡細胞集団が両記憶の関連づけを担っていることを示唆しています。
CTA記憶とAFC記憶の連合が成立した結果生じるサッカリン水溶液の摂取によるフリージング反応と、それぞれの記憶に対し重複活動する記憶痕跡細胞集団との関係を明らかにするため、重複した細胞集団のみをArchT注5)で標識し、その活動を光遺伝学注6)的に操作しました。 連合記憶の想起時に光照射で重複細胞集団の活動を一過的に抑制したところ、連合の結果生じるサッカリン水溶液によるフリージング反応が低減しました(図3)。一方、重複細胞集団の活動抑制は元々のCTA記憶、AFC記憶の想起には影響を与えませんでした。
以上の結果より、CTA記憶とAFC記憶の両記憶間の高次連合は、連続した同調想起により扁桃体で生じる記憶痕跡細胞集団の重なりによって引き起こされていることが明らになりました。加えて重要な点として、記憶の連合のみに関与し、元々の記憶の想起には必要でない記憶痕跡細胞集団が存在することが明らかになりました。本研究によって、記憶同士をつなぐ特定の記憶痕跡細胞集団の存在とその機能的な役割が初めて明らかになりました。
<今後の展開>
ヒトの知識や概念の形成過程は、過去に経験した既存の記憶に対し、日々新たに経験する様々な情報(感覚・情動・記憶など)を適切に結びつけることにより体系化される高次脳機能の1つです。一方で、PTSDを始めとする精神疾患や記憶錯誤などの記憶障害においては、このような正常な関連づけが行われず、関連性の弱い記憶同士を結びつけてしまうことで事態を悪化させることがあります。このように医学的な観点からも本研究成果は新たな知見を与えてくれます。例えば、フラッシュバックのように日常の出来事の記憶とトラウマ記憶の結びつきが問題となる場合、重複した記憶痕跡細胞集団の神経活動を抑制することで、それぞれの記憶には影響を与えず両者の記憶を切り離すことも可能と思われ、将来的にはPTSD治療への適用も視野に入ってきます。
<参考図>
図1 連続した同時想起(記憶連合誘導)により生じた記憶間相互作用
- 上段:繰返しの同時想起後のCTA記憶テスト時におけるサッカリン水溶液の初回摂取後5分間のフリージング反応。
- 下段:重複した記憶痕跡細胞集団に基づいた記憶連合の仮説モデル。ベン図(円)はCTA記憶の想起時とAFC記憶想起時に活動した記憶痕跡細胞集団を示す。サッカリン水溶液の提示によりCTA記憶痕跡細胞集団が活動する。その時活動した重複記憶痕跡細胞集団を介してAFC記憶痕跡細胞集団が活動し、フリージング反応を引き起こす。
図2 CTA-AFC記憶間連合誘導後のcatFISH解析
連続した同時想起後におけるCTA、AFC記憶想起に伴い活動した扁桃体領域での記憶痕跡細胞集団。CTA記憶想起時に活動した細胞はマゼンタ、AFC記憶想起時に活動した細胞は緑で標識される。どちらの記憶の想起時にも活動した細胞(マゼンタと緑の両方で標識)を矢印で示した。記憶連合の形成により、扁桃体領域において、コントロール群に比べ各記憶に応答する神経細胞集団の重複率の有意な増加(9.1%から15.2%へ)が認められた(右側:ベン図の黄色い部分参照)。
図3 重複した記憶痕跡細胞集団の光遺伝学的な活動抑制
- 上段:本実験の結果を示した模式図。
- 下段:重複細胞集団のみをArchTで標識した。連合記憶想起時に光照射で重複細胞集団の活動を抑制したところ、連合の結果生じるサッカリン水溶液によるフリージング反応が一過的に低減した(中央図)。一方で、元々のCTA記憶、AFC記憶の想起に対しては、重複細胞集団の活動抑制による変化は認められなかった(左側図および右側図)。
- 左側図:CTA記憶想起時の学習評価(嫌悪指数:マウスがどれだけサッカリン水溶液を忌避しているかを示す指標。数値が破線より上部においてCTA記憶が保存されていることを示す)
- 右側図:AFC記憶想起時の学習評価(AFC記憶が保存されていることを示している)
上記グラフ上の黄色い四角は重複細胞集団特異的に光遺伝学的な活動抑制を行った時点を示す(NS:有意差無し)。
<用語解説>
- 注1) 味覚嫌悪学習(Conditioned Taste Aversion task;CTA)
-
給水制限したマウスに対して、サッカリン水溶液(甘い水)を摂取させた後、内臓倦怠感を引き起こす塩化リチウム溶液を腹腔内に投与することで、学習後において本来嗜好性のあるサッカリン水溶液に対して忌避反応(摂取の低下、拒否)を示すようになる。味覚情報を利用した記憶学習課題のひとつ。本研究では、総摂取量に対する蒸留水の摂取量の割合から嫌悪指標を求め、味覚嫌悪記憶を評価している。
- 注2) 音恐怖条件付け(Auditory Fear Conditioning;AFC)
- マウスを足元に電線が敷かれた小箱(チャンバー)に入れ、ブザー音を鳴らしブザー音終了間際の数秒間電気ショックを与える条件付けを行う。その後、条件付けされたマウスを電気ショックを与えたチャンバーとは異なるチャンバーに入れ、電気ショックを与えた時と同じブザー音を鳴らす。その際に、マウスが示すフリージング反応の時間を計測することで学習を評価する。動物が危険を予測する際にとる聴覚情報を利用した一種の防御反応。
- 注3) 条件刺激、無条件刺激
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- 条件刺激:動物に対してそれ自体では恐怖反応などを誘導しない音、光、場所(文脈)などの刺激。
- 無条件刺激:電気ショックなどのように恐怖反応を引き起こす刺激。
これらを対提示することにより両者の関連性を学習し、条件刺激のみで恐怖反応を示すようになる。本研究のCTAにおいては、条件刺激としてサッカリン水溶液、無条件刺激として塩化リチウムの腹腔内投与、一方AFCでは、条件刺激としてブザー音、無条件刺激として足への電気ショックを行った。
- 注4) catFISH法(cell compartment analysis of temporal activity using fluorescence in situ hybridization法の略)
- 蛍光を利用しmRNAの局在を調べるFISH法を利用して、神経細胞が活動したタイミングを同定する技術。Arc mRNAは神経活動5分後に、Homer1a mRNAは神経活動30分後に核内に発現が確認される。この時間差を利用し、30分間隔で2回のイベントを行った直後の脳サンプルを解析することで、神経細胞がいつ活動したのかを調べることができる。
- 注5) ArchT(アーチティー:Archaerhodopsin-T)
- プロトンポンプから成る光感受性膜タンパク質の一種。神経細胞にArchTを発現させた場合、黄緑色光に応じてプロトンポンプが作動し、水素イオンを細胞外にくみ出す。これにより、細胞膜電位は過分極を示すので黄緑色光照射依存的にArchTを発現した標的細胞特異的に神経活動を抑制することができる。
- 注6) 光遺伝学(オプトジェネティクス)
- 特定の波長の光を当てると活動する分子を遺伝子導入することで、狙った細胞の活動性や機能を光で制御する方法。光照射によって人為的に標的細胞の神経活動を誘導、抑制できる。
<論文情報>
タイトル |
“Overlapping memory trace indispensable for linking, but not recalling, individual memories”
(重複活動する記憶痕跡細胞集団は記憶連合には必要不可欠であるが、個々の記憶想起には不必要である) |
doi |
10.1126/science.aal2690 |
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富山大学 大学院医学薬学研究部(医学) 教授
〒930-0194 富山県富山市杉谷2630
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E-mail:
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科学技術振興機構 戦略研究推進部 ライフイノベーショングループ
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