研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
脳膜神経相関の分子機構
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者  裏出 良博  大阪バイオサイエンス研究所 部長
主たる研究参加者  江口 直美  大阪バイオサイエンス研究所 副部長
 山嶋 哲盛  金沢大学医学部 助教授(〜平成11年3月)
 石川 功一  群馬大学生体調節研究所 助教授(〜平成13年9月)
3.研究内容及び成果

 脳膜(くも膜)は脳や脊髄などの中枢神経系を取り囲む薄い膜状の組織であり、従来は、脳を物理的に保護し中枢神経系と末梢組織を隔てる単なる支持被膜であるとされていた。しかし、我々は、内因性睡眠物質であるプロスタグランジン(PG)D2の生合成を司るリポカリン型PGD合成酵素(L-PGDS)が、脳膜において活発に産生され、ヒト脳脊髄液の主要蛋白質として1960年に発見されて以来その機能や構造および産生場所が不明であった謎の蛋白質βトレースとして脳脊髄液に分泌されることを発見した。この研究結果は「脳膜と中枢神経系は脳脊髄液を介して密接な情報交換を行い、相互の機能維持に積極的に関わる」ことを示している。そこで、我々は脳膜による中枢神経系の恒常性の維持機構を分子レベルで明らかにすることを目的として本研究を行った。

 我々は、脳膜神経相関の鍵を握る分子として睡眠物質としてのPGD2とその生合成系と情報伝達系に着目して研究を開始した。PGD合成酵素には、進化的起源の異なるリポカリン型と造血器型の2種類の酵素が存在する。これらの2種類の酵素について、遺伝子組換え蛋白質を用いた結晶化に成功し、それぞれ2.1Å分解能と1.2Å分解能のX線結晶構造を決定した。その結果、両酵素の全体構造は全く異なるが活性中心の構造は極めて類似していることが判明した。この結果は、両酵素が異なった起源から同じ触媒機能を獲得した「機能的相似」の一例であることを構造学的に証明している。これらの結晶座標は、両酵素の選択的阻害剤の分子設計の鋳型として極めて有効であり、我々は既にそれぞれの酵素に特異的な阻害剤リード化合物を見出し、一部の化合物については、ヒト型酵素トランスジェニック(TG)マウスを用いて、経口投与での有効性を確認した。さらに、両酵素遺伝子について、遺伝子ノックアウト(KO)マウスとヒト型酵素を大量発現するTGマウスを作製して、これらの遺伝子操作マウスの機能解析を行った。

 分子進化の解析結果によりL-PGDSは脂溶性物質の輸送蛋白質リポカリンから進化した唯一の酵素蛋白質であると考えられる。また、本酵素は反応産物であるPGD2やレチノイド、甲状腺ホルモン等の脂溶性生理活性物質、あるいは、ビリルビンやビリベルジン等の組織障害性疎水性低分子物質を高親和性に結合する。従って、本酵素は内因性睡眠物質であるPGD2の合成酵素として機能すると同時に、PGD2やレチノイド等の輸送蛋白質、あるいは、組織障害性の脂溶性物質の捕捉蛋白質としての機能を併せ持つ多機能蛋白質であると考えられる。

 L-PGDSは、脳脊髄を囲むくも膜とミエリンの生成と維持に関与するオリゴデンドログリアにおいて活発に合成された後、脳脊髄液に分泌される。そして、遺伝性脱髄疾患クラベ病のモデル動物であるTwitcherマウスや、多発性硬化症やアルツハイマー病を含む多くの神経変性疾患の患者の脳内において本酵素の発現が昂進していることが明らかになった。各種の脳疾患患者の脳脊髄液L-PGDS濃度を測定した結果、くも膜下出血患者では、発症2-3日後その濃度が2倍以上に上昇し、その時点の脳脊髄液より精製した本酵素にヘムの分解産物であるビリベルジンが結合していることを見出した。これらの結果は、脳内出血に伴い脳内で産生するヘム分解物の排泄蛋白質として本酵素が機能する可能性を示している。以上の仮説に基づき、脳内出血を伴う疾患の予後改善やヘム分解物の過剰蓄積が原因である新生児黄疸の症状改善を目標とした本酵素蛋白質の補充療法についての検討を進めている。さらに、正常圧水頭症患者の脳脊髄液L-PGDS濃度が、正常群や痴呆性疾患群の50〜70%に低下することを見出した。正常圧水頭症はシャント手術により痴呆から回復するので脳脊髄液の循環障害による疾患と考えられているが、現在でも有効な術前診断法が無い。従って、脳脊髄液βトレース濃度は、正常圧水頭症の術前診断法として、初めての実用的マーカーである。

 又、ラットやマウスと異なり、ヒトのL-PGDSは、心臓や冠動脈の動脈硬化巣で活発に生産され、血液中に分泌される。そして、腎疾患患者の尿中には高濃度の本酵素が検出される。そこで、血中および尿中の本酵素濃度と動脈硬化および腎疾患との相関を調べた。その結果、安定狭心症患者において冠動脈の硬化巣の体積と末梢血の本酵素濃度が相関することを見出した。さらに、2型糖尿病患者では、尿中アルブミンの排泄量が正常値を示す患者群においても、腎機能の低下に伴い尿中の本酵素濃度が上昇することを見出した。従って、血中および尿中の本酵素濃度の測定は、動脈硬化および腎疾患の新たな診断法として期待される。

 一方の造血器型PGD合成酵素(H-PGDS)は、肥満細胞やTh2リンパ球、および、神経系の発達の初期にくも膜から脳実質へ移行するミクログリアに存在し、免疫反応やアレルギー性炎症反応に関与すると考えられる。本酵素は、酵素反応に還元型グルタチオンを絶対的に要求し、アミノ酸配列の比較から脊椎動物では最初に同定されたシグマ型のグルタチオン転移酵素である。本酵素もリポカリン型酵素と同様に、遺伝性や自己免疫疾患モデルの脱髄マウス、および、各種の神経変性疾患の患者の脳内において発現が昂進していることが明らかになった。さらに、外傷性の脳損傷モデル実験において、傷害局所に集積するマクロファージや周辺のミクログリアで本酵素の誘導が起こり、さらにその周辺の活性化されたアストログリアにDP受容体(PGD2受容体の一種)の誘導が起きる事を発見した。そして、H-PGDS KOマウスを用いて脳損傷モデル実験を行なうと、脳損傷の拡大が軽度であり回復が早い。又、H-PGDS阻害剤やDP受容体アンタゴニストの投与は、野生型マウスの外傷性脳損傷の拡大を抑制し回復を促進した。従って、これらの薬剤は、各種の中枢神経疾患の治療薬としての開発が期待される。我々の作製したヒト型の本酵素の結晶構造とヒト造血器型PGD合成酵素を大量発現するTGマウスは、医薬品リード化合物としての阻害剤開発に極めて有効である。

 L-PGDS のKOマウスは、痛覚反応の異常(接触性アロディニアの消失)などの様々な中枢性の機能異常を示すことが明らかになり、本酵素により生成されてDP受容体により感知されるPGD2が、脳膜神経相関の介在物質として機能することが実証された。たとえば、L-PGDS KOマウスとDP受容体KOマウスは、共に、断眠による睡眠不足を補うために断眠解除後に起きる過剰なノンレム睡眠(熟睡時の睡眠)を示さない。従って、PGD2は睡眠不足を補ってその恒常性を維持するための睡眠物質として機能すると考えられる。さらに、ヒトのL-PGDSを大量発現するTGマウスが、尾先端の切断の痛覚刺激により、一過性(約6時間)のノンレム睡眠の増加を示し、その睡眠発作は脳内PGD2の上昇を伴うことを発見した。これは世界で初めて作製されたノンレム睡眠の異常マウスであり、異常な眠気を抑制する薬剤としてのL-PGDS阻害剤のスクリーニングに有効な動物モデルである。

 睡眠物質としてのPGD2の情報伝達系に関する研究を進め、以下のような睡眠覚醒調節系の概略を明らかにすることができた。くも膜やオリゴデンドログリアに局在するL-PGDSにより生産されたPGD2は、本酵素に結合した状態で、睡眠ホルモンとして脳脊髄液を循環する。その後、前脳基底部のくも膜に局在するDP受容体を刺激し、その局所の細胞外アデノシン濃度を上昇させる。アデノシンは前脳基底部のドーパミン神経系に分布するアデノシンA2A受容体を刺激する。この受容体はカフェインによる不眠の標的分子と考えられる。そして、その刺激は前部視床下部に存在する睡眠中枢(腹側外側視索前野:VLPO)の神経を活性化し、GABAあるいはガラニン性の抑制性神経投射を介して、後部視床下部に存在するヒスタミン性覚醒中枢(結節乳頭核:TMN)の活動を抑制して、脳全体をノンレム睡眠状態に導く。この情報伝達系には、アデノシン以外にも、従来より睡眠覚醒調節に関係が深いと考えられて来た様々な物質が含まれる。ベンゾジアゼピン系睡眠剤の標的分子と考えられるGABA受容体や風邪薬や抗アレルギー薬(ヒスタミンH1ブロッカー)の服用による眠気と関係するヒスタミンH1受容体などである。現在、我々は、これらの受容体遺伝子KOマウスの睡眠覚醒調節の異常について、統一的な解析を進めている。その研究成果は、現在も未解決の睡眠覚醒の調節系の全容を解明し、我々が持つ内因性の調節系を利用した自然な睡眠をもたらす睡眠薬や居眠り防止薬の開発に繋がる。

 さらに、我々の研究により、PGD合成酵素以外にも、様々な酵素蛋白質(シクロオキシゲナーゼ・ホスホリパーゼCβ4・アデノシンデアミナーゼ)や受容体(DP受容体)が脳膜に局在することや、くも膜培養細胞が、様々な神経栄養因子を分泌することが明らかになった。      
 従って、脳膜と中枢神経系は、脳脊髄液を介して密接な情報交換を行ない、相互の機能維持に積極的に関与していると予想される。本研究により同定された脳膜由来の神経調節因子・分化促進因子・神経死誘導因子とそれらの受容体の作用機構を分子レベルで解明することにより、それらの機能不全による疾患に対する新たな予防法や治療法の開発が期待される。

4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況

 内因性睡眠物質であるプロスタグランジン(PG)D2の合成酵素(PGDS)が脳膜で産生されて脳脊髄液に高濃度に存在する発見から、PGDSの結晶化とX線解析、トランスジェニックマウスと遺伝子ノックアウトマウスの作製、睡眠物質としてのPGD2情報伝達系の解明、PGDSの神経疾患における役割など、優れた成果を順調に出している。

 研究計画は順調に満足できる発展をしている。思い掛けない発展もあった。リポカリン型PGDS(L-PGDS)と、造血器型PGDS(H-PGDS)の神経疾患との関連は、予期されなかった成果であり、臨床的に重要であると思われる。他に発展途上の成果も多い。

 論文、口頭発表共に非常におおい。特に国内外の招待口演が多いのが目立つ。特許の出願が国内6件、海外3件であり際立って多い。本研究は創薬(痛み、睡眠調節など)に結びつく可能性があり、特許出願の多いことは喜ばしい。実用化されることを期待する。

 多数の有能な研究者が参加して多彩な成果をあげた。研究体制としては、大阪バイオサイエンス・グループが主であって、他のグループの貢献は少ない。設備費はH9〜10年度に集中しており、その後は人件費と消耗品費が大部分であり、妥当な使い方と判断される。人件費が比較的多く使われているのは研究活性を反映しているとも見られる。

4−2.成果の戦略目標・科学技術への貢献

 L-PGDSとH-PGDSの結晶X線解析は創薬研究にインパクトがある。PGD2が脳膜の受容体を介して余波睡眠を誘発すると言う結果は予想外で強いインパクトを与える。痛みとの関連も注目される発見である。脳脊髄液のL- PGDSは臨床診断のマーカーとなる可能性が高い。正常圧水頭症の診断に役立つことは評価できる。
 PGDSの生化学分子生物学は国内外でも最先端を行く研究である。L-PGDSは神経保護的に働く可能性が示唆されたことは重要である。PGD2合成酵素の立体構造の決定は見事である。またKOマウスを使った睡眠解析もすぐれている。この研究グループのPGD2研究は世界的に高い水準にある。

 PGD2とL-PGDSは睡眠、痛み、神経疾患との関連において創薬に結びつく可能性が高い。水頭症や神経変性疾患との関連が確立すれば重要度が高いと考えられる。今までの脳研究の常識を破る新しいタイプの研究として重要である。

 PGD2の内因性睡眠物質のメカニズムが明らかになってきた。またL-PGDSと神経疾患との関連が発見された。創薬は困難な課題であるが、これらの成果のさらなる発展として創薬に結びつくことが期待される。焦点は絞りきれてないが、多くの興味深い現象が発見されているので決定的な研究に向けた進展が期待される。

4−3.その他の特記事項
 本研究は、L-PGDS、H-PGDSの結晶構造の解析、PGD2の内因性睡眠物質としてのメカニズムの研究、などの計画が予定通り順調に進行したプロジェクトと、PGD2と痛みの関連の発見やL- PGDSやH-PGDSの神経疾患との関連などの予想外の発見があった。いずれも重要で興味深い発見であるが、さらに今後発展して創薬に結びつくことが期待される。今後、PGD2とオレキシン、ヒスタミン、GABAなどの他の神経伝達物質との相関が重要な発展をする課題となることが期待される。発展途上の成果がいくつもあり、大きい成果がさらに期待される。
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