52. ノーというのは難しい

 否定研究という研究があるのだそうである。この話を聞いたのは、筆者が開発、事業化にかかわった蒸着型の磁気テープの開発の初期、今から25年ほど前であった。
プロジェクト開始後1年ほどたって、電子通信学会の磁気記録研究会で蒸着テープの発表をしたが、テープとしての特性などは一切公表せず、高分子フィルムに直接磁石になる金属を蒸着して得られる磁気的な特性を発表しただけであった。磁気テープビジネスとして、オーディオテープに加えて後にビッグビジネスに成長したビデオテープが立ち上がった時期で、専門家の注目は大きかった。
IBMや、NHKなどの機関での基礎的な研究があった程度ではあるが磁気記録の理論から蒸着の手法で作る磁気テープは、磁気テープの究極に位置づけされる性能を持たせうるものとの期待があったから、テープの専門メーカでない筆者の属する会社が発表したことで大部分のテープメーカーは真空蒸着装置を発注し研究を開始した。
ある大手メーカは蒸着テープが将来実用になる可能性ありとしての研究開発と、実用にはならないとする否定研究とを一時期並行して推進したという。

否定研究は決してたやすくない。それは原理的に可能性がないということを立証できたとしても、厄介なのは実用になるかどうかの判断は科学的な判断だけでは下せないからである。科学の手法は可能な限り簡略化して仮説を立てて実験との一致、不一致を見て考えていくやり方が一般的である。
蒸着テープは金属を蒸着して得られる磁性を有する膜をつかうので、金属は原理的にさびるから製品としては否定されると結論付けられるかと言えばそう簡単ではない。磁気テープとして極端な条件にさらされた時にまったくさびないようには出来ないかもしれないが、(現に蒸着テープに対してネガティブな会社ではテープをカセットから引き出して第2京浜国道沿いにおいて雨ざらしにしておいて実用化には破れない壁があると判断したといったエピソードもあったくらいである)、ビデオテープとして使い、保管する条件の範囲内で機能上まったく問題が出ないテープ(広く普及して何億巻使われるようになっても)は、10数年後に実現したのである。

ここで紹介した否定研究の困難性は、『ノーということの難しさ』と通ずるところがある。
基礎研究から開発研究、製品設計と事業にいたるまで、どのフェーズであっても競争であるから、YESかNOかは時間軸上での判断になる。
研究者もエンジニアも『うまく行くのか、競走に勝てるのか?』と問われれば、『CAN  DO  IT』スピリットで立ち向かうのは基本であるが、いつでも突貫小僧でいられないこともあり、状況判断によってはノーという勇気もいる。

出来ないと言うことは、自らの能力や、挑戦意欲を自己否定するような気分なって、精一杯やりますといいたくなるものである。
だからといっていつもいつも機会が与えられない情勢になったときには、個人を超えた判断が求められることもある。当然上司も悩みに悩んで判断をしなければならないとしたときに、問題を隠して(解決できると判断して取り組んだとしても)いたことで大きな判断ミスが生じるようなケースもノーといえる勇気があったらということになるケースであろう。

最近ビジネスの世界で言われていることに、選択と集中はやることを決めるという考え方でなくやらないことを決めることであるという戦略論があるが、わかるような気がする。ノーと判断したなかにはやっておけばよかったのにといったこともある割合で起こるであろうが、そう考えてあれもこれもやっていくと戦力が薄まって競争力はどんどん弱まり惨敗するリスクを抱えることになる。


すべては有限の条件内での競争であるから、リーダーも実務者も知恵と覚悟がいつも問われていると思いたい。


                                    篠原 紘一(2004.6.11)

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