特集集成と未來
大学発のインキュベーション
東京農工大学 先端産学連携研究推進センター 統括URA 中川 正樹

大学の使命は「教育」、「研究」、「社会貢献」と言われる。社会貢献は各大学の特色によって形と趣は変わり得る。農学と工学からなる本学の場合は、産学連携を大きな手段にした新技術創出と社会実装であり、一方で、「教育」と「研究」でも、学内の学生と教職員に対してだけでなく、広く社会に情報発信することを通して社会に貢献すべきと考えてきた。ただ産業も社会も、そして学生も変化する。その変化に対応して、大学の使命を問い続けることが重要だと思ってきた。
退職までに本学の産学連携センター長を2度務め、退職後も多少ミッションが追加された先端産学連携研究推進センターの長を拝命し、インキュベーション機能の強化(再強化)に努めてきた。このあたりの経緯を振り返って一文にまとめる。何らかの参考になれば幸いである。自分の経歴に絡めてお話することをご容赦いただきたい。より広く深い議論は拙著を参照されたい**1。
■初回
最初にセンター長を務めたのは45歳になった2000年からの2年間で、それまでに複数企業とオープンイノベーションを志向した大型共同研究を実施して成果を実用化したことが任命の理由だったらしい。当時、センターには助教授席一つしかなかったので、その上の教授ポストを増設し、産学連携に本腰を入れて取り組んでもらえるようにした。その頃は結構な頻度で海外出張し、その際には本学における企業との共同研究の件数と金額、特に教員一人当たりの金額が全国一位であることを強調していた。しかし、米国ではそんなことは関心を集めず、キャンパス内あるいは隣接してインキュベーション施設を設け、ベンチャーによる技術創出と雇用創出に注力していることをアピールされた。当時、米国には800以上の施設ができているとのことだった。北欧でも似たような話を聞き、パラダイムシフトを痛感した。ベンチャーは研究開発を加速し、大手企業は新技術創出をベンチャーに託し、自社のビジネス戦略に応じてベンチャーを売買するエコシスエムに衝撃を覚えた。これは経済活動の中で研究開発を加速するシステムであり、学術的なイノベーション研究とアントレプレナーシップ教育も同時に進展していた。日本との違いは歴然で、このままでは10年、20年後のわが国のプレゼンスは危ないと思った記憶は新しい。
当時、本学にもベンチャービジネスラボラトリが設置されていたが、インキュベーション機能がなく、出口を見据えてビジネスモデルや研究戦略・特許戦略を練るための初期ステージの1段目施設を文部科学省に、市場開拓や資本戦略を進めるための中期ステージの2段目施設を経済産業省・中小機構に申請し、そこには地域発のベンチャーも招いてシナジーを起こし、その後にキャンパス内あるいは近隣のビジネスパークに移行するモデルを構想した。1段目施設は2003年に実現した。しかし、2段目の誘致には自治体の財政的支援が必要だった。
■2度目
2度目は、研究担当理事がセンター長を務める制度に移行後で、副センター長への就任を依頼され、「再履修ですか」とお断りしたのだが、2005年度の1年間の約束でお引き受けし、その後2年間、センター長・評議員を務めることになった。
全国の大学で特に優れた5大学を文部科学省が支援する「スーパー産学官連携本部」に本学が選ばれることが学長・理事の期待であったので、本学の強みをアピールして6大学に増枠された中に入れたのは良かった。そして、知財戦略の強化とともにインキュベーション、特に2段目施設の実現を目指した。既存企業が「市場が小さい」などの理由で社会実装をためらうときに、教員自ら起業し社会実装できるオプションを確保するのは重要だ。そのためには、大学単独で基本知財を押さえ、ビジネスモデルを確立しながら市場開拓し、かつ、適切な資本政策を取ることが必要になる。それには2段目施設、そしてビジネスパークは不可欠であり、それは大学を土台から強化する基盤になる。それまで実績のなかった市単位の規模で小金井市が財政支援を約束してくれた結果、2段目施設は農工大・多摩小金井ベンチャーポートとして2008年に実現できた。
センター長の任務を終え、利益相反の問題がなくなり、2008年に大学発ベンチャー育成事業の支援を得て手書き文字認識のエンジンとアプリケーションを開発し、2011年12月にアイラボ株式会社(東京都小金井市)を起業した。日本語ワープロソフト「一太郎」を世に出した浮川夫妻が2009年に起こされた株式会社MetaMoJi(東京都港区)がアイラボの手書き日本語認識エンジンを自社製品に採用してくれたことが大きかった。その後は苦戦したが、近年は、タブレットで児童・生徒が問題に対して手書きした答えを認識し、即座に正誤判定する各社のシステムにアイラボの日本語、英語、数式の手書き認識エンジンが組み込まれている。漢字の筆順誤りや字形の良し悪しを指摘するツールも売れ始めた。2010年度には、10年以上前に権利化したタッチスクロールの米国特許が本学から売却され、その年度の全国大学特許収入1位になった。売却益は学生食堂の耐震改築に利用された。スーパー産学官連携本部で強化した知財スタッフが良い仕事をしてくれていた。大学のためにと思ってしたことが自分の研究室のためになり、それがまた大学のためになった。
2度目のセンター長になったころ、IT技術者に求められる能力が変わってきていることを認識し、科学技術振興調整費を得て、情報工学専攻の中に人間中心設計の教育・研究を目指すユビキタス&ユニバーサル情報環境専修を2005年に設置した。学生には技術者だけでなく起業家になることも目指してほしかったので、新興企業の経営者や大手企業幹部の方々に講演していただく機会を多く作った。その一期生だった佐野将史君は企業に就職後に株式会社ヤプリ(東京都港区)を共同創業し、2020年の暮れに東証マザーズへの上場を果たした。自分のこと以上にうれしく、ヤプリが社会に求められる価値を提供し続けることを期待している。
2008年には、本学は経済産業省と文部科学省が共管したアジア人財資金構想に採択された。ベトナムとタイを中心にアジアから8人の学生を修士課程に国費留学生として迎え入れ、Webコンピューティングなどの新興分野科目、重要性を増すプロジェクト管理、ビジネス日本語などの科目を新設し、課題解決形式の演習や3カ月のインターンシップなどを必修にした。これは2012年に終わったが、その後も自主財源で継続し、支援期間を博士課程まで延長し、文部科学省奨学金に代えて自前の奨励金を提供した。研究室としては今春までに40人の博士を輩出し、うち20人は留学生で、その半数の10人のベトナム人博士はこの自前アジア人財による。これも大学のためにしたことが自分の研究室に大きく貢献した。
■3度目
2020年度末に退職し、特任教授として科学研究費(科研費)による研究を継続するはずだったが、2月に学長に呼ばれて先端産学連携研究推進センター(URAC)のセンター長と副学長の任を授かった。前回の後、国際化や新任教員のテニュアトラック制度の導入などに携わり、それらは軌道に乗ったが、産学連携は他大学の後塵を拝する状況になっていて、心残りであったためにお引き受けした。特に、大学発ベンチャー創出件数は全国の国立大学でも最下位クラスに落ち込んでいた。
そのころ、幾つかの問題を自問していた。「論文、論文」と言い過ぎて、大学の基礎体力を強化する戦略を欠いていないか(海外の有力大学では教員一人当たりポスドクと博士学生合わせて2桁いるので論文を書く戦力の桁が違う)。日本も伸びてはいるが所詮は線形関数で、海外の指数関数の伸びを達成するには何が必要なのか。既存企業との共同研究は知財取得もビジネスモデルも相手頼みで、価値創出の妨げになっていないか。選択と集中の基本方針を誤って、雑草に埋もれた将来の大輪の花を摘んでいないか。長くてあと数年の自分に何ができるか…。「着眼大局、着手小局」しかあり得ない。
URACのミッションは以前より多様化しているが、政府系予算獲得、民間企業との共同研究獲得、特許取得と活用、ベンチャー創出、そして研究広報が柱である。これを5~6人の研究アドミニストレータ(URA)で分業するのは無理で、学科・専攻などの単位で担当するURAを決め、教員にワンストップ体制で支援するようにした。多くの場合、教員は基礎研究から入り、科研費で研究を深め、実用性などが見えてきたら国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)研究成果最適展開支援プログラム(A-STEP)予算などで試作・実証段階に進み、さらに企業と共同で技術開発し、企業が実用化を断念した場合などには自ら起業し、そこからまた課題を基礎研究で取り上げるスパイラルモデルをたどる。一人のURAがこのサイクルを教員と共にたどってサポートする体制とした。この体制は、教員への対応の連続性、業務引き継ぎの解消、限られたURAリソースの有効活用が目的であるが、もう一つの意図にURAのスキルアップがある。教員についたURAがこのサイクルを一緒にたどることで、全てのミッションを経験し、URAが主任や統括になったときに全部を見られるように育てたいと考えた。もちろん、ミッションによっては得意なURAが補佐するのは言うまでもない。そして特に知財業務のためには経験豊富な知財顧問2人を非常勤で雇用し、高度な内容は気軽に相談できるようにした。
2年目には早稲田大学を主管として、JST社会還元加速プログラム(SCORE)大学推進型に本学も加えていただいた。インキュベーションマネージャ(IM)になれそうな人材を採用し、その人を含めてインキュベーション支援とアントレプレナーシップ教育の研修、そして3件のGAPファンドを提供いただいた。その3件には、定期的に一流の起業アドバイザーの指導を受ける機会を設け、それにIM候補が陪席することを通してオンザジョブトレーニングを実施できた。また、大学で正式科目としてアントレプレナーシップ科目の開講につながった。さらに、リサーチパークの先駆けになりそうな施設が複数で整備されようとしている。
3年目からはセンター長・副学長の任務を終え、統括URAとして後任への移行を図っている。多少の余裕もできて、自分が代表の1件に加えて科研費4件と企業との共同研究3件により、手書き答案の自動認識・採点の研究開発を遂行している。これが最も心残りな仕事かもしれない。
最近のうれしい話題は、テニュアトラックの導入を一緒に行った蓮見惠司教授による株式会社ティムス(東京都府中市)が2022年の11月に東証グロースに上場したことであり、研究開発が一層加速することを期待している。
参考文献
- **1:
- 中川正樹:「弱みを強みに 手書きをデジタルに」,OROCO PLANNING, 2017.
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