研究者エッセイ

放射線教育の道しるべ

長崎国際大学 薬学部 教授 高井 伸彦

写真:長崎国際大学 薬学部 教授 高井 伸彦

2022年8月15日

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道しるべ

我々の歩みは遅くとも、少しずつなら真理のかけらを探し出せるはず
どんなに小さなかけらでも、夢への道しるべになります
その小さな光が我々の闇を照らしそして目の前の長い道を照らし
やがては全宇宙の神秘を浮き彫りにするでしょう
私は思います。それだからこそ科学は美しいのだと
いつの日かその力がすべての災いを流し去ってくれるでしょう
無知も貧困も病気も戦争もそして悲しみも
真実の光を求めて、未知の小道に分け入りましょう
どれほど深く分け入ろうと、道は果てることがありません…
夢は時代と共に生まれるのです。
きのうの夢は捨て、真実のたいまつをかかげて
未来の宮殿を築き上げましょう

この言葉は、誰のものか分かるでしょうか。今も続く多くの紛争や貧困の問題を考えたとき、心にとまるものがあるかと思います。この言葉は、パリ大学初の女性教授であり、ノーベル物理学賞(1903年)、ノーベル化学賞(1911年)を受賞したポーランド出身のマリー・キュリーが、パリ大学で行われたラジウム発見25周年記念式典で話した彼女の言葉です(1943年公開映画「Madame Curie」のラストシーン)。放射能(radioactivity)という言葉が彼女から生まれ、わずか110年程度しか経っていないのが放射線分野です。

紀元前1500年ころからケシの実から作られた薬を人類が使い始め、約3,500年以上の歴史のあるわれわれの薬学の世界と比べると、本当に浅い歴史しかありません。しかし彼女が残した道しるべによって、この放射線が、今では重粒子線がん治療として発展し、最先端治療の一つとして、世界に先駆け科学技術庁の放射線医学総合研究所(放医研、現在は国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構)や、ドイツの国立重イオン研究所(GSI:Helmholtzzentrum für Schwerionenforschung GmbH)において治療が開始され、がんの克服、患者の治療後の社会復帰および生活の質(QOL:Quality of Life)の向上につながっていることは、皆さんも少しは知るところだと思います。そしてこの放射線は、これから人類が宇宙に飛び出し火星を目指すには、人類にとって大きな障壁となっていることはご存じでしょうか。

放射線・重粒子線がん治療との関わり

1994年から、臨床試験として放医研にて、重粒子線がん治療が開始され、2003年には高度先進医療として承認される最も重要な時期において、私は2001年から科学技術振興事業団(現、国立研究開発法人科学技術振興機構)の科学技術特別研究員として採用され、「宇宙放射線による脳の機能障害と早期画像診断法に関する研究」を、放医研の客員協力研究員として研究を実施することになりました。また同時に放医研とGSIとの国際共同研究にて、がん治療施設の国際比較実験に参画できたことが、現在薬学部の教員として、薬学をさらに発展させるため、放射線を正しく利用することを教える上で役立っていることがあります。

放医研では、重粒子線がん治療装置を昼間は患者の治療のために、そして夜から朝にかけて、研究者が科学のさらなる発展のため利用しており、ドイツやイタリア、アメリカ、アメリカ航空宇宙局(NASA)やGSIをはじめとする主要な研究所からも多くの研究者が訪れ、その研究のサポートも研究の一環として行ったこと、植物、微生物、生物そしてヒトと多岐にわたる研究に触れたこと、治療を受ける患者の姿、臨床試験の成果を数字として実感してきたことで、研究と実践(臨床)とのつながりの重要性に気付かせられ、研究における自分の立ち位置・取り組むべき課題を明確にすることができたのだと思います。そのおかげで、これまでに国内外において、幾つかの学会賞を受賞できたことにもつながっており、2006年にはスウェーデン王立アカデミーの賞の一つであるクラフォード賞(Crafoord prize)に該当する研究者・論文を推薦できるようになった一つのきっかけとなっています。

残念ながら放射線に関して、近年では1999年東海村JCO臨界事故、2011年福島第一原子力発電所事故の健康被害や風評被害に関わるデマなど、いまも続く負の側面もあり、薬学において放射線を正しく利用することを教える上で、解決しておかなければならないことが多くあります。それは、放射線被ばくを受けた人、放射線による医療を受ける人たちの不安を解決するためには、これまでの薬学における放射線教育では、足りないことがあることに気付かせることです。

現在の薬学における放射線教育と未来

これまでの薬学における教えるべき放射線分野の到達目標(学習目標)は、放射線発生とその測定法の原理、PET(positron emission tomography)やSPECT(Single photon emission computed tomography)などの核医学診断で利用される放射性医薬品の集積機序が主なものでした。一方、放射線の生物への影響を教える到達目標は元々少なく、2006年から始まった薬学部6年制から十数年が経ち、統合された項目もあり、さらに少なくなっている現状にあります。

ところが、放射線技師が調製した放射性医薬品の過剰投与事故をきっかけとし、2011年日本核医学会において核医学認定薬剤師制度が設立され、その「放射性医薬品取り扱いガイドライン」には、薬剤師が放射性医薬品の取り扱い、調整、品質管理を行うことを強く要望しています。また近年、治療用の放射性医薬品としてβ-線放出核種である90Yを用いた悪性リンパ腫治療薬「ゼヴァリン」、α線放出核種である223Raを用いた骨転移のある前立腺癌治療薬「ゾーフィゴ」などが次々に開発され臨床利用されているが、医薬品添付文書にも記載される放射線による副反応を理解するためには、放射線生物学の理解が最も重要となってきます。従来のγ線などの放射線治療において併用されることがある放射線増感剤など、今後、企業(産)が関わる放射線治療装置、放射性医薬品や放射線増感剤のさらなる開発が必要であり、日本の年間約100万人のがん患者全てを重粒子線で治療することは到底無理なのだから、従来の放射線治療に比べ、重粒子線治療がなぜ効くのか、どのような患者に適用すべきなのかを、重粒子線生物学という新しい学問として、道しるべとして残していかなればならないのではないでしょうか。

パリ(パンテオン)で開催されたマリー・キュリー展にて

最後に

写真は、マリー・キュリーが埋葬されるパリ5区のパンテオンで開催されたキュリー展(生誕150周年)を訪れたときのものです。パンテオンには歴史に名を残す多くの偉人とともに、巨大な地下墓廟に夫のピエール・キュリーと並ぶように祀られていました。彼女の言葉にあった、無知も貧困も病気も戦争も、科学の力でなくなっている世界は、いまだ訪れていません。アメリカの物理学者カール・セーガンは、人間を束縛する身近にある非科学的な概念の総称を「悪霊」に例え、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)で拡散されるデマも同じかもしれませんが、このような言葉を残しています。「民衆一般の知性をできるだけ実際的に啓蒙することである。教育のみが民主主義を守る。品位も謙遜(けんそん)も、共同体意識も、そこから芽生えてくるだろう。悪霊に憑(つ)かれたこの世界で、迫り来る暗闇からわれわれを守ってくれるのは、ただそれだけかも知れない」。教育によって、少なくとも無知だけは消えた世界が訪れることを期待しているところです。