オピニオン「所論」
産学官連携の心得~門前の小僧の経験から〜
東京大学 国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構 教授 沖 大幹

東京大学第二工学部
この春に学内で異動するまで、生産技術研究所(生研)に30年近く奉職した。生研は、第二次世界大戦中に技術者養成のために設置された第二工学部にそのルーツをたどることができる。合格者を、本人の希望に関係なく、本郷の工学部と西千葉に置かれた第二工学部に均等に振り分けたにもかかわらず、結果としては、理論的な研究で学術の世界で活躍する人物を輩出する工学部と、実社会でエンジニアとして日本の産業界をリードする人物を輩出する第二工学部という特色が歴然としていたそうだ。教授陣総体としての理念や教え方によって卒業生の資質や性向は大いに変わり得る、ということだろう。
戦争への加担を心底悔いた学術研究者は、軍事研究や政府の政策研究との関わりを断つばかりではなく、軍需産業と一体であった産業界との交流も忌避するようになった。それでも残っていた実業界と大学との緊密な関係も、大学紛争で厳しく糾弾されて勢いを失い、結果として1980年代に実社会との連携が組織的に推奨され、活発に行われていたのは東大の中では生研くらいのものであった。
工学分野における産学連携の類型
そうした生研で大学院生から助手、講師、…と研究者養成されると、自然と周囲から産学官連携を叩き込まれる。そして、周囲の先生方を長年観察していると、産学官連携にはいくつかのパターンが見いだされた。
一番分かりやすいのは装置産業型である。一社で保有してもたまにしか使わずコストが高くつくので、高額の工作機械や測定装置を大学の研究室が保有し、複数の企業が共同研究や委託研究で大学を介して実質的に共有するのである。このパターンの拡大版として、特別な機器ではなくとも、敷地や床面積を提供する、という場合もある。法人化以降、どんどん窮屈になりつつあるとはいえ、コスト削減のため厳しいリソース管理をしている企業に比べると、大学にはまだ余裕があるので、そうした形も実現可能である。
さらには、研究員型もある。これは大学教員を企業の研究員あるいは熟練した研究マネジャーとして使おうという話である。本当に必要な智慧(ちえ)と経験と指導力を備えた大学教員であれば、ヘッドハンティングして、その企業が独占的に雇用した方がメリットはあるだろうが、その教員の10年、場合によっては20年以上にもなる残りの現役期間にわたって雇用し続ける必要性が見通せない場合には、わざわざ高い給与を払って雇用するよりは大学に研究費を出して、その企業の研究に携わる研究員あるいは研究マネジャーとして大学教員に研究を進めてもらう方が企業にとってはよほど合理的である。複数の企業と大学とでその教員を共有するようなものだとも見なせるだろう。
もちろん、のれん型もある。○○大学と共同研究しています、○○先生の試験研究で効果が確かめられました、といった連携事実そのものに主な関心があり、連携の成果には追加的なメリットしか期待していない場合である。
さらには、最近ではなくなったと信じたいが、無償労働力提供型もあっただろう。すなわち、卒業論文をはじめとする学位と引き換えに試験研究や実験に学生を無償奉仕させれば、企業にとってみると非常に安価に目的が達成でき、教員も自由になる研究費が得られて双方にメリットがあったわけである。現在では多少の謝金を払うようになったとしても、高度人材を安価な労働力として使っていることに変わりはない。
産学官連携の落とし穴
装置産業型や研究員型などで注意する必要があるのは、適切な研究費を大学側が受け取っているかどうか、である。機器の減価償却を考慮せず運用の光熱費や原材料や試薬などの消耗品費用しか考えないのは論外だとしても、事務を含む支援スタッフならびに自分自身の人件費、場所代と建屋の維持管理費などを含めると実際かかっているコストはそれなりになるはずである。それらを考えずに安価に引き受けるのは資産の切り売りであり持続可能ではない。昨今の大学の困窮の大きな原因の一つはそうしたコスト意識の欠如だろう。さらに、複数の企業と連携する場合には情報管理を徹底しないと大問題に発展する恐れがあるし、逆に、大学側が出したアイデアがいつの間にか企業によってひそかに特許登録されてしまう事態もあり得る。大学の然るべき部署と密な連絡を取って慎重に契約を交わす必要がある。
また、のれん型も問題である。受け入れる教員側としては実質的に寄付のようなものであるから、一見楽であるが、企業側としては成果を期待しない分単価は安い。そして、特筆すべき成果が得られないのれん型の資金ばかりを受け入れていると、甘やかされ、競争的資金を獲得する能力が落ちてしまう。その結果、のれん型の資金しか得られない、ということになれば負のスパイラル真っ逆さまである。
一方で、日本企業も、海外の一流大学との連携では、まとまった費用をきちんと支払っている。アメリカの大学だと、どんなに小さいプロジェクトでも大学院生1人の学費と生活費と最低限の機器購入費、受け入れ教員の夏の給与や学会旅費、学術論文出版費用などで年数百万円の費用が必要であり、大学が間接経費を半分持っていくので、年間1千万円に満たない共同研究や委託研究はあり得ない。
もちろん、将来の大型連携のために当初は出血覚悟で安く引き受ける、というケースもあるかもしれないが、研究環境の維持や学生・院生、そして自分自身にしわ寄せがいかないように手当てできる額であるかどうかを、外部資金受け入れの際には入念に吟味する必要がある。
おわりに
国家財政の困窮で普段の研究費が潤沢ではなくなったばかりではなく、そもそも大学の研究者だからといって好きな研究だけをしていても、無批判に給料がもらえる時代は世界的に終焉(しゅうえん)を迎えつつある。たとえ直接社会の役に立たなくとも、支持が得られなければ支援も得られない。
純粋な基礎研究こそが尊く社会に役立つとか、実学は堕落である、という学術的偏見は根強いかもしれないが、学術的に価値のある研究と、社会が期待する研究と、研究者のやる気が上がる研究とは排反ではないだろう(図1)**1。

産学連携を含む外部資金の獲得はあくまでも手段であって目的ではない点に注意しつつ、さまざまな機会を柔軟に生かして、成し遂げたい研究を目指してはどうだろうか。
参考文献
- **1:
- 沖大幹.東大教授.新潮社,2014,206p.
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