巻頭言
助成財団の連携を-藩校サミットに思う-
公益財団法人本田財団 理事長 石田 寛人

昨年9月末、金沢で開かれた第15回藩校サミットの世話役をさせていただいた。藩校サミットとは、会津の日新館、水戸の弘道館、福岡の修猷館、熊本の時習館など、多くの藩が設けていた藩校の精神を今に生かすために開かれる徳川将軍家と諸大名家の後裔(こうえい)の方々や関係者の集まりである。東京の湯島聖堂でスタートして、東日本大震災のあった2011年を除き毎年1回開かれている。
江戸時代、各藩は藩士や一般人の教育のために、学問の奨励に力を尽くした。藩校では儒学を学ぶことが中心だったが、医学、算学、天文暦学などの自然科学系統の学問や武道兵学も行われた。ただ、多くの藩校は、諸藩の財政が逼迫(ひっぱく)していく中、その運営には厳しいものがあったと思われるが、知を求める活動は活発だった。
科学技術に関しては、例えば肥前の多久邑にあった東原庠舎(とうげんしょうしゃ)の気風を受け継いだ志田林三郎は、工部省工学寮に学び、初の工学博士となって、わが国の電気通信技術をけん引し、大いなる先見性を発揮して今日の情報化時代を予言している。
私の故郷石川県小松市は、今は株式会社コマツ(旧小松製作所)が大きな存在であるが、かつては繊維産業の盛んな町で、藩校ではないものの集義堂という学校がつくられ、藩の支援と町衆と学者の力で運営された。産学官連携の萌芽(ほうが)とも思えるが、当時の状況からしてその影響の広がりには限りがあった。
しかし、各地の先人たちが、それぞれ苦心しながら学問を奨励し、また、勉学に励んだことが明治の近代化を支える礎(いしずえ)になったと思われる。鹿児島の旧制第七高等学校は藩校造士館の名前を校名に刻んでいた。継承のされ方に濃淡はあるが、幕府の昌平坂学問所は東京大学の源流の一つとなり、加賀藩の明倫堂は金沢大学につながり、今も各地の高校が藩校の名前を冠している。
このような先人の努力の跡をたどるとき、今を生きるわれわれが、現在のわが国科学技術の置かれた状況を直視し、思い切った振興策を講ずべきことを痛感させられる。現在、科学技術イノベーションを振興するため、官民挙げて努力が続けられている。しかし、今の時代、成否が不透明でリスクの高いプロジェクトなどには取り組みにくくなっている現実があり、そういう状況が、世界におけるわが国科学技術活動の相対的低下をもたらしていることも否定しがたい。ここは、わが本田財団を含めて研究助成を目的とする公益法人が、産学官連携の要の役割を積極的に果たしていくべきではないだろうか。わが国の研究助成財団は、米国の財団に比較して規模は小さいけれども、しっかり横に連携して、リスクが高くとも将来の可能性が大きい研究開発に挑む若い研究者を支援する仕組みをつくりあげたい。そのために私どもは、今、懸命に具体化の道を探っている。