[補足説明]

(研究の背景)
 動物は、外界から食物を摂取し、また、外気中の酸素を利用して食物を燃焼することにより、エネルギーを獲得し、生命を維持している。生体は、食物中の異物に対する解毒機構と酸素毒性・酸化ストレスに対する応答機構を獲得することにより、外界に適応して生存・進化してきた。最近の研究から、このような適応の障害が、がん・糖尿病などの成人病や慢性疾患の発症基盤を形成していることが示されている。
 科学技術振興事業団(理事長 沖村 憲樹)の戦略的創造研究推進事業 総括実施型研究「山本環境応答プロジェクト」(研究総括:山本雅之、筑波大学 先端学際領域研究センター教授)では、生体が環境からの異物や毒物に応答し、それらを解毒・排泄するメカニズム(生体防御)の研究に取り組んでおり、本研究グループの解析から、転写因子Nrf2が生体防御機構を担う様々な酵素や蛋白質の遺伝子発現を統一的に制御する因子であることが明らかにされてきた。 Nrf2遺伝子欠失マウスでは、アセトアミノフェン投与による急性肝障害が起こりやすく、また、ディーゼルエンジン排気ガスの曝露によるDNAの酸化障害が起こりやすい。さらに、ベンツピレンによる化学発癌も起こりやすい。これらの知見から、Nrf2により制御される遺伝子群の生体防御における重要性が理解される。
 Keap1は、Nrf2に相互作用する因子として本研究グループにより同定された新規分子である。Keap1は細胞質に局在し、アクチン細胞骨格に結合する。培養細胞を用いた実験から、Keap1はNrf2を結合して細胞質にとどめ、Nrf2が核内で転写活性化するのを抑制することが示されている。一方、親電子性物質の添加によりNrf2はKeap1から解離して核へ移動し、転写を活性化する。したがって、非刺激時にはKeap1がNrf2の機能を抑制しているが、刺激が加わるとその相互作用が減弱し、Nrf2が活性を発揮することが可能になり、標的遺伝子群の誘導的な発現が達成されるものと考えられた。すなわち、Keap1はNrf2活性化の鍵因子であることが予想された。

(具体的な実験結果・考察)
 上述の仮説を証明するために、本研究では、Keap1遺伝子欠失マウスを作製して、そのマウスにおけるNrf2の活性化を検討した。Keap1遺伝子破壊マウスでは恒常的にNrf2が活性化されており、その結果、生体防御系遺伝子の発現が亢進して、外界からのストレスに対して抵抗力の強いマウスが得られるものと期待された。
 しかし、意外なことに、Keap1欠失マウスは、出生直後は正常であるものの、次第に成長障害が明らかになり、離乳期前後で死亡した。当該マウスの食道と前胃の角化重層扁平上皮は異常に肥厚し、厳しい食物通過障害をもたらした。すなわち、異常な角化亢進によりもたらされる摂食障害が、Keap1遺伝子破壊マウスの主たる死因であるものと考えられた。一方、Keap1欠失マウス由来の線維芽細胞や出生直後の肝臓では、期待どおり、Nrf2の標的遺伝子の発現が亢進していた。また、Nrf2の核における蓄積も観察され、恒常的にNrf2が活性化されていることが示された。
 角化重層扁平上皮を構成する角化細胞特異的な遺伝子の発現プロフィールを調べたところ、一部の遺伝子はKeap1欠損マウスにおいて発現が上昇していたのに対して、減少しているものや変化が見られないものも、それぞれ認められた。このように、複雑ではあるがNrf2-Keap1制御システムが、角化細胞の増殖・分化過程やメカニカルストレスへの応答過程で重要な機能を果たしていることが、遺伝子破壊マウスの解析により、初めて明らかになった。
 Keap1欠損により、Nrf2が核内に蓄積し、また、標的遺伝子である異物代謝系酵素群や酸化ストレス応答蛋白質の発現が亢進していたことから、Keap1はNrf2の核内存在量を負に制御することにより、通常はその活性を抑制していることが明らかになった。
 興味深い点は、Keap1欠損による上述の表現形(角化細胞の異常と生体防御遺伝子群の過剰発現)が、Keap1とNrf2の遺伝子2重欠失マウスにおいては、完全に回復するという観察である。Keap1とNrf2の2重欠失マウスは、野生型マウスと同様に成長し、寿命にも差異が認められない。食道や前胃の組織学的解析によっても異常を認めることはなく、肝臓や線維芽細胞におけるNrf2標的遺伝子群の発現もすべて正常に復帰していた。すなわち、Keap1欠失によりもたらされた異常はNrf2の恒常的活性化に起因するものである。この結果は、Nrf2とその抑制性制御因子Keap1がよく対応して機能していることを、個体レベルで明確に実証している。

(今回の成果のポイント)
 本研究から、アクチン結合性制御蛋白質Keap1が、動物の環境適応・応答に関与する遺伝子群の統一的な制御因子であるNrf2の活性を、実際に生体において調節していることが実証された。Keap1とNrf2の遺伝子2重欠失マウスが、Keap1単独欠失の際に見られた角化亢進を克服し、完全に正常な表現形を示したことから、両因子が生体において真に協調して機能していることが明解に証明された。すなわち、試験管内の反応から予想された蛋白質間相互作用が、個体レベルでの遺伝学的実験において実証された。このようなアプローチは、今後の生命科学の論証戦略として非常に有用であり、今後、ポストゲノム時代の生命科学解析の一つの方向性を提示するものである。
 また、角化重層扁平上皮におけるNrf2-Keap1制御システムの機能は、今回の研究成果により初めて明らかになったものである。皮膚や食道・胃は、外界との接触が多い臓器であり、Nrf2-Keap1制御系は、化学的刺激以外の機械的刺激に対する応答機構にも関与している可能性を示す知見として注目される。

(研究成果の社会的意義)
 本研究の成果は、食餌性異物や活性酸素に対する応答機構の解明、また、これらの刺激に対するセンサー分子の同定への手がかりを与えるものと考える。環境適応・応答機構の破綻が、種々の疾病の発病と密接に関連していることが報告されつつある。本研究の発展により、これら疾病の発症メカニズムを精密に検証することが可能になるものと思われる。また、Keap1とNrf2の相互作用に対して適切な介入を行うことにより、生体防御機能を必要に応じて強化することが可能となり、ひいては成人病や慢性疾患の治療に有用な手法を提供できることも可能になるものと期待される。
 また、マウスにおいて、Nrf2やKeap1遺伝子を改変することにより、異物代謝機構・酸化ストレス応答機構の活性を様々に変化させたマウスを作製することが可能である、こうしたマウスは、医薬品や食品添加物、農薬などの安全性評価のためのモデル動物として応用できると考えられ、健康な食生活と安心して暮らせる生活環境の実現に貢献するものと期待される。


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This page updated on September 29, 2003

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