太陽や月などの天体観測から始まった“時間”を正確に測定する技術の探求の結果、人類は、数千万年に1秒の誤差しか生じないセシウム原子時計を完成させました。これらは、有史以来続いてきた、天文学者や物理学者たちの“普遍な1秒”への挑戦の歴史でした。この一見日常生活と無縁なほどに高精度な時計は、今や地球規模での高速・大容量通信技術や、地球上どこにいても正確な測地ができるGPS技術への応用などグローバル化した現代社会を支える基幹技術となり、その重要性はますます高まっています。
現在、国際的に定義されている“1秒”は、電場や磁場のない自由空間に“静止している”セシウム原子の2つの状態間のエネルギー差に対応するマイクロ波の放射をもとに定義されています。セシウム原子時計ではこのマイクロ波の振動周期を測定し、“原子の1秒”を決定します。しかし、最も高精度なセシウム原子時計でも15桁目の数値が揺らぎます。この揺らぎは“約3000万年に1秒の誤差”に相当します。実際のセシウム原子は熱運動をしていて、他のセシウム原子と相互作用してしまうことが大きな原因です。
研究総括は、原子をかぎりなく“静止”させるための手法を発案しました。1つは、レーザーを用いて原子の運動エネルギーを絶対0度に近い温度まで冷却する技術「狭線幅レーザー冷却法」です。さらに、レーザー光の干渉縞によってできる“光格子”と呼ばれる微小空間に原子1個1個を閉じ込めることで原子の運動を凍結しました。これにより原子間の相互作用を排除できます。ところが、このようにレーザーなどの電磁場を使って原子を空間的に閉じ込める時、その代償として、原子のエネルギー状態が空間的に変化することが避けられません。これが起きると、原子の2状態間のエネルギー差を正確に測る原子時計には致命的です。研究総括は、特定の波長のレーザー光を使って原子を閉じ込める時、原子から放射される光の振動数は、閉じ込めによる影響を受けないことを発見し、この波長を「魔法波長」と名付けました。研究総括は、これらのアイディアをもとに、セシウム原子時計に代わる、新しい原理の原子時計「光格子時計」を発案しました。
本研究領域は、極低温原子操作、量子制御技術、最先端のレーザー制御技術の高度化を行うことで、セシウム原子時計を遙かに陵駕する精度をもつ、「光格子時計」を実現させることを目的とします。「光格子時計」は、「魔法波長」で作った光格子に束縛された100万個の極低温原子が放射する光の振動数を計測し、究極の“原子の1秒”を決定します。その理論限界では、時間を18桁の精度で読み出すことが可能になります。この精度は、実に、我々の住む宇宙の年齢(137億年)経っても誤差が1秒以下であり、まさに人類が手にする究極の「時計」と言えます。
「光格子時計」を実現するための最大の課題は観測に用いるレーザーの揺らぎです。本研究では、これを克服するために高い安定度を持つ最先端レーザーシステムの開発を行います。並行して、極低温原子操作、量子制御技術を取り入れた、新たな原子時計の実現手法を確立し、「光格子時計」の究極の精度に挑戦します。
「光格子時計」の実現は、グローバル社会を支える、高速ネットワークやGPS技術の高度化の基盤技術として貢献するばかりでなく、今まで私たちが日常的には意識することのなかった相対論的な「時空」の歪みをリアルタイムで読み出すことを可能にします。例えば、「光格子時計」の精度では、地上でわずか1cm時計を置く高さを変えるだけで、重力によって時計の進み方が変わることが観測できます。これは、アインシュタインの相対性理論に啓発されてダリが描いた「時間の固執」に登場する歪んだ時計を彷彿とさせる世界観を現実のものとします。この意味で、本研究は、従来の人類の「時空」の概念を大きく変える時間測定の基盤技術となり、これは相対論的地形学とも言うべき新たな測地計測の実現を可能にします。このほか、この光格子時計手法の表面プローブ、量子コンピューティングなどへの応用を検討すると共に、“原子の1秒は本当に普遍なのか?”という物理学の根源的な問題に挑戦し、新たな精密計測・量子計測の潮流を作ることを目指します。
本研究領域は、最先端のレーザー技術を用いた原子の量子制御技術を発展させるものであり、戦略目標「最先端レーザー等の新しい光を用いた物質材料科学、生命科学など先端科学のイノベーションへの展開」に資するものと期待されます。
1.氏名(現職) | 香取 秀俊(かとり ひでとし) (東京大学 大学院工学研究科 教授) 46歳 | ||||||||||||||||||||
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2.略歴 |
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3.研究分野 | 量子エレクトロニクス、量子計測、原子時計、極低温原子物理 | ||||||||||||||||||||
4.学会活動など | 日本物理学会会員 | ||||||||||||||||||||
5.業績など | 従来の手法を大きく凌駕する新しい原子時計である「光格子時計」の理論を創案・実証し、時間標準の分野で、新しい研究の流れを作った。 1997年に始まったERATO「五神協同励起プロジェクト」にグループリーダーとして参加。プロジェクト参加中に、光格子時計の基礎となる成果、ストロンチウム原子を従来に比べて3桁低いサブマイクロケルビン領域まで冷却することが可能な「狭線幅レーザー冷却法」(PRL,1999)、そしてレーザー光を用いて原子をトラップする際に発生する摂動を相殺する「魔法波長」(JPSJ,1999)の発見を行った。これらの成果に基づく「光格子時計」の概念を発表し(FSM.,2001)、さらにその基礎実験にも成功した(PRL,2003. Nature,2005)。 この「光格子時計」の有効性に注目した欧・米グループが、2006年に上記実験の検証実験に成功したことで、日米欧の世界三極での「光格子時計」の比較が実現した。同年に開かれた国際度量衡委員会では、この国際比較の良好な整合性から、「光格子時計」を「秒の二次表現」の1つに採択した。「秒の二次表現」は、現在の秒の定義であるセシウム原子時計に対して、今後、その性能を上回る可能性を有する原子時計の候補のリストである。このことは、光格子時計の精度向上がなされた場合、秒の再定義に光格子時計が採択される可能性を示している。 | ||||||||||||||||||||
6.受賞など |
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