身近にある製品の多くにソフトマター(コロイドや高分子、液晶など)が含まれています。ソフトマターの特徴の1つは、その多くが固体的性質と流体的性質の両方を兼ね合わせていることです。物質の流動挙動をコンピューターでシミュレーションする場合、これまでは計算流体力学法や分子動力学法が別々に用いられてきました。計算流体力学法では、物質の力学特性をあらかじめ関数化してシミュレーションに用います。目的物質の力学特性や流動状態があまり複雑でない場合には有効ですが、高分子溶液の力学特性は一般に複雑であり、流動状態も高速振動する平板間では複雑になります。一方、分子動力学法は物質を構成する分子の構造をモデル化するもので、物質の力学特性や流動状態が複雑であっても有効です。しかし、物質中の分子の運動を全て計算するためには膨大な計算量を要し、今回のように分子の大きさに比べてはるかに大きなスケールの変動が問題となる場合には、分子動力学法を用いることは困難でした(わずか1グラムの物質のシミュレーションに、最も楽観的な予測でも100年はかかる見込みです)。
本研究グループは今回、計算流体力学法と分子動力学法をハイブリッドすることによって、それぞれの方法が持つ欠点を解決する流動挙動のマルチスケールシミュレーション法を開発しました。そして、この方法によって、ソフトマターのうち、ハードディスクやマイクロモーターなど高速稼働部を有するナノ・マイクロ装置における液体潤滑材のような、高速振動する平板間の高分子溶液の複雑な流動挙動を解析することにも成功しました。この成果は、新しい機能性材料の開発に貢献し、物質科学のさまざまな分野に応用できるものと期待されます。
本研究成果は、2009年4月20日(英国時間)に欧州の物理学雑誌「Europhysics Letters (EPL)」のオンライン速報版で公開されます。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 | : | 「マルチスケール・マルチフィジックス現象の統合シミュレーション」 (研究総括:矢川 元基 東洋大学計算力学研究センター センター長/教授) |
研究課題名 | : | ソフトマターの多階層/相互接続シミュレーション明 |
研究代表者 | : | 山本 量一(京都大学 大学院工学研究科 教授) |
研究期間 | : | 平成18年10月~平成24年3月 |
<研究の背景と経緯>
シミュレーションとは、コンピューターの中で仮想的に行う模擬実験を意味し、古くからの実験的方法や理論的方法に並ぶ新しい第3の方法に位置づけられています。身近な例では航空機やロケットなどの機体の設計や地球温暖化などの気候変動の予測にも用いられています。
この手法は、私たちの身近にあるさまざまな物質の性質を解明する際にも極めて有効と期待されています。身近にある製品の多くは柔らかくて変形しやすい物質、つまりソフトマター(コロイドや高分子、液晶など)からできています。化粧品、日焼け止め、ヨーグルト、ゼリー、液晶テレビなどはこれらを使った代表的な製品です。また、最近のナノテクノロジーの出現によって、ソフトマターは特殊な機能を持つ新しい材料の宝庫としても注目されており、医療やエネルギー、電機、情報などさまざまな分野で今後、益々ソフトマターを利用した機能性材料が開発されることが期待されます。
ソフトマターの物性の特徴の1つは、その多くが固体的性質と流体的性質の両方を兼ね合わせていることです。固体状態ではそれを構成する原子・分子は規則的に配置されており、その流体物質は大きく変形しません。一方、流体ではそれを構成する原子・分子はランダムに動き回り、物質は自由に変形します。多くのソフトマターはこの2つの状態の中間にあり、それを構成する原子・分子は一部の規則性を残したまま、ある程度自由に動き回り、その物質の変形に対する応答も固体的な性質(弾性力注1))と流体的な性質(粘性力注2))の両方を兼ね備えます。つまり、ソフトマターでは原子・分子レベルでの構造と私たちが目にする巨視的なレベルでの変形と運動は、強い相関を持ちます。まさにこの特徴こそが先に述べた機能性材料に役立つのですが、理論的・実験的研究を難しくもしています。
計算機シミュレーションは、ソフトマター研究における重要なアプローチの1つです。ソフトマターのシミュレーション研究の難しい点も、先に述べた原子・分子レベルでの構造と巨視的なレベルでの運動との強い相関にあります。例えば、実験で使う試験管(数センチ程度)に入ったコロイド溶液の流れをシミュレーションしようとすると、試験管よりはるかに小さなコロイド粒子(数マイクロ程度)の配置や運動を考慮しなくてはいけません。電荷を持ったコロイドを考える場合には、さらに小さなイオン(数ナノ程度)まで考慮する必要が生じます。このような物質に対して分子動力学法を用いるためには、途方もない計算時間が必要となります。試験管の中の流れを計算することさえ、現在の世界最速の計算機をもってしても私たちが生きている間には終わりません。コンピューターの性能向上がこの先も全く鈍ることなく継続するという最も楽観的なシナリオによっても、計算が完了するのはこれから100年以上も先のことになります。
<研究の内容>
京都大学 大学院工学研究科の山本 量一 教授と安田 修悟 特定助教らの研究グループは今回、ソフトマターのシミュレーションが抱える難題をマルチスケールモデリングによって解決しました。
図1にシミュレーションを行った系の略図を示します。平板間の距離は高分子を構成する1つの原子のサイズの数千倍程度もあります。高分子溶液の巨視的な流れは、連続体モデルの運動量保存式によって計算されます。ここで、各計算点での流速はその点での局所的な応力注3)によって変化します。
通常の粘性流体(ニュートン流体注4))の場合、応力と流速の空間勾配の間に比例関係があるので、その比例定数、すなわち粘性係数さえあらかじめ決めておけば、各点で求めた流速から各点での応力を求め、その瞬間の流速変化を計算することができます。
ところが、本研究で扱う高分子溶液にはそのような単純な比例関係は存在しません。各計算点での応力はその点での巨視的な流速や変位だけでは表すことができず、原子・分子レベルでの高分子の配置、形状に依存します。そこで私たちのマルチスケールモデリングでは、各計算点での分子レベルでの高分子の運動を計算するための小さなセルを各計算点に貼り付けておき、そこで局所的な流速と分子レベルでの情報に基づく応力を求めます。この方法を用いることで、高分子溶液に特徴な粘弾性注5)や履歴効果注6)を正確にシミュレーションすることができるようになりました。
今回の研究では、特に重要な2つの結果が得られました。図2に、振動平板上での高分子溶液の速度分布とナビエ・ストークス方程式注7)よって計算されたニュートン流体の比較を載せました。両者を比較すると、振動板からの位置(Y軸方向の距離)による流速(X軸方向の流速)に明らかな違いが分かります。すなわち、通常の粘性流体溶液と異なり高分子溶液では振動板から遠ざかるに従い、流速が急激に減少することが判明しました。これは高分子溶液では局所的な力学特性が局所的な流速場によって大きく変わるためです。高分子溶液の粘性は、速度勾配が大きくなると小さくなります(これはシアシニングと呼ばれています)。このため、平板近傍の激しく動いていている速度勾配の大きな領域では粘性が小さくなり、平板の運動は流体内部へ浸透しにくく、スリップしているような状況になります。
図3には、高分子溶液の局所的な力学特性の空間変化を示しています。高分子溶液には固体的な応力応答を表す弾性力と、流体的な応力応答を表す粘性力が共存します。「弾性力」の強さは応力応答のうち「変形の大きさ」、「粘性力」の強さはその「変形の早さ」に寄与する部分をそれぞれ測ることにより求められます。図3では弾性をG1、粘性をG2としています。またγ0は局所的な変形の大きさ(ひずみ)を表します。平板近傍(y=0付近)で粘性G2が小さくなっているのが分かります。これがシアシニングと呼ばれる現象です。平板から離れるとひずみγ0は小さくなり、だいたい2%以下の値になると、対応するG1、G2ともに一定の値になります。図3の右端にある矢印は2種類のデボラ数注8)とよばれる無次元数の値が1になる場所を示しています。1つは、高分子の鎖の形状の緩和時間(ラウズ時間と呼ばれる)と振動平板の角振動数注9)の積で定義されるデボラ数DeR。もう1つは、高分子を構成する原子が構造を緩和する時間(α緩和時間と呼ばれる)と角振動数の積で定義されるデボラ数Deα。図3は、DeRが1より小さい領域では、粘性G2は弾性G1に比べてずっと大きく、このためこの領域では高分子液体は粘性流体の挙動を示すことが分かります。DeRが1より大きくなると弾性G1も顕著になってきます。またDeαが1の場所では粘性G2と弾性G1の値がクロスオーバーします。すなわち、高分子溶液はDeαが1より小さいところでは粘弾性液体、Deαが1より大きいところでは粘弾性固体と、その力学特性を変えていることが分かります。つまり結局、高速振動する平板上での高分子溶液の流れにおいては、粘性流体、粘弾性液体、粘弾性固体の3つの異なる力学特性を持つ領域が現れることが、マルチスケールシミュレーションによって初めて明らかになりました。
<今後の展開>
今回開発した計算流体力学法と分子動力学法のハイブリッドによるマルチスケールシミュレーション法は、高速振動する平板間の高分子液体において、目に見える巨視的な流動と原子・分子レベルの微視的な配置や形状とのカップリングが興味深い現象を引き起こすことを明らかにしました。この成果は新しい機能性材料の開発につながると期待されます。また、今回のマルチスケールシミュレーション法は、流体中で高速稼働するナノ・マイクロ装置の解析にも応用することができます。このような装置が動作する状況は、分子動力学シミュレーションで解析するには大きすぎ、逆に計算流体力学法によるシミュレーションや実験的な手法で解析するには小さすぎるという問題があります。今回の方法は、例えばハードディスクのヘッドやマイクロモーターなど、人間のスケールに比べて非常に小さいが、分子の大きさに比べればずっと大きい可動部を持つ装置の制御や解析のシミュレーションなどへの応用が見込まれます。
シミュレーション科学の発展は、日米両国が熾烈な競争を繰り広げているコンピューターの技術革新に大きく支えられています。日本は約10年ごとに莫大な費用を投じて世界最速のスーパーコンピューター(スパコン)を建設してきました。1993年の数値風洞(東京)、2002年の地球シミュレーター(横浜)に続き、2012年の完成を目指して次世代スパコン(総費用1200億円で神戸市に建設予定)の設計もすでに始まっています。しかし、このように巨費を投じたコンピューターも、その性能をフルに引き出すことができるソフトウエアがなければ無用の長物にすぎません。次世代スパコンは、これまでにない膨大な数の中央演算装置(CPU)で構成される可能性が極めて高く、その性能を引き出すためには特別の工夫が必要になると予測されています。
マルチスケールシミュレーション法は、通常の分子動力学法とは異なり、次世代スパコンのように膨大なCPUを持つコンピューターとの相性が極めて高いというユニークな特徴も持っています。これは、計算負荷の最も高い分子動力学法による計算部分が各計算点で独立であるため、計算の並列実行が容易であることに起因しています。この方法を次世代スパコンで用いることにより、分子数が100億個にも達する世界最大規模の分子動力学シミュレーションを実現することができると考えています。これまで有効なシミュレーションを行うことが難しかった、大規模な流動・変形現象を伴う機能性材料の製造プロセスのまるごと解析といった、理論や実験では全く歯が立たない未開拓の問題へのアプローチが可能となります。
<参考図>

図1 問題の概略図

図2 振動平板上での流速分布

図3 高分子溶液の局所力学特性の変化
<用語解説>
注1)弾性力
固体の変形の大きさに比例する力。
注2)粘性力
流体の変形の速さに比例する力。
注3)応力
物体内部に考えた任意の単位面積を通し、その両側の物体部分が互いに相手に及ぼす力をその面に関する応力と称します。今回、高分子溶液においてX軸方向に平行な面を想定した際には、Y軸方向に沿って剪断応力が層状に分布すると考えられます。
注4)ニュートン流体
応力と変形速度の間に単純な比例関係がある流体。
注5)粘弾性
高分子溶液などが粘性力と弾性力の両方を有すること。
注6)履歴効果
過去に経験した運動の履歴によって応力と変形の関係が変わること。
注7)ナビエ・ストークス方程式
ニュートン流体(注4参照)の運動を表現する方程式。
注8)デボラ数
流体を構成する分子の構造が緩和する時間と流れの代表的な時間の比によって定義される無次元数。
注9)角振動数
振動板の振動数に2πを乗じた数。
<論文名>
“Rheological properties of polymer melt between rapidly oscillating plate : an application of multiscale modeling”
(高速振動平板間における高分子液体のレオロジー特性:マルチスケールモデリングの応用)
Shugo Yasuda and Ryoichi Yamamoto (安田 修悟、山本 量一)
<お問い合わせ先>
山本 量一(ヤマモト リョウイチ)
京都大学 大学院工学研究科 化学工学専攻
〒615-8510 京都市西京区京都大学桂
Tel:075-383-2661 Fax:075-383-2651
E-mail:
金子 博之(カネコ ヒロユキ)
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