研究領域「情動情報」の概要
近年、情報科学の進歩により電子メールなどさまざまなコミュニケーションツールが開発され、生活の利便性向上に寄与しています。その一方で、この利便性ゆえに個人間・集団間に深刻なコミュニケーション不全が起こるなど、対面会話が主たるコミュニケーション手段であった時代には見られなかった諸問題が発生しています。このことは、「怒り」「喜び」「悲しみ」「不安」といった心の状態を表す情動情報の伝達が不充分であることに起因しているものと考えられます。これまでも情動情報を伝達することの重要性は認識されており、言語情報に映像情報(テレビ会議など)を付加するといったコミュニケーションツールの開発や、絵文字などの工夫によるアプローチが行われてきましたが、これらは情動情報に関する科学的知見の上に立ったものではなく、対処療法的になされてきたものと言えます。このような問題を根本的に解決するためには、情動を科学的に分析し、その上に立脚して画期的なコミュニケーションツールを開発していくことが不可欠なのです。
本研究領域は、情動情報を言語と同様にある種の規則性(syntax=構文、文法)をもって伝達されるものであると捉え、その進化過程・発達過程の生物学的な解析を基礎として、情動情報の計算科学的な符号化モデルを構築することを目指します。
そのために、鳴き声でコミュニケーションする動物や言語を獲得する前後の乳幼児、および成人を対象とし、脳波計や脳血流を画像化する装置を用いて脳の活動の様子を計測します。これと同時に、3次元動作計測装置や眼球運動記録装置などにより非言語情報としての情動情報の現れ方を計測します。これらのデータに各種の統計的な解析を行うことで、情動に伴う生理反応と脳活動の規則性を探ります。さらに、解析結果を踏まえて計算理論的な手法を取り入れつつ、情動情報の符号化モデルを構築することを目指します。これにより、情動情報を付加できる新しいタイプのインターネットブラウザーの実現や、人の気持ちを理解し親密なコミュニケーションを行えるロボットの開発といった新たなハードウェアあるいはソフトウェアの実現に繋がっていくことが見込まれます。
本研究領域は、情動情報の生物学的基盤を解明し、符号化技術創出を試みるものであり、従来の情報処理技術に欠けていた付加情報の扱いの新たな可能性を示し、それによって情報活用の幅や深さを飛躍的に増大させることが期待されます。この研究の成果は、戦略目標「多様で大規模な情報から「知識」を生産・活用するための基盤技術の創出」に資するものと期待されます。
研究総括 岡ノ谷 一夫 氏の略歴など
1.氏名(現職) |
岡ノ谷 一夫(おかのや かずお)
(理化学研究所 脳科学総合研究センター チームリーダー)49歳 |
2.略歴 |
昭和58年 3月 | 慶應義塾大学 文学部社会心理教育学科 卒業 |
昭和58年 8月 | メリーランド大学大学院 心理学部 修士課程 入学 |
平成 元年 4月 | メリーランド大学大学院 心理学研究科 修了、Ph D. |
平成 元年 4月 | 日本学術振興会特別研究員(上智大学博士研究員) |
平成 2年10月 | 科学技術庁科学技術特別研究員(農業研究センター客員研究員) |
平成 5年10月 | 井上科学財団特別研究員(井上フェロー) 慶応義塾大学 心理学研究室 訪問研究員 |
平成 6年 3月 | 千葉大学 文学部 助教授・大学院 自然科学研究科 兼任助教授 |
この間、 |
・平成 8年10月~平成17年 3月 | 科学技術振興事業団・さきがけ21兼任 知と構成・情報と知・協調と制御各領域 |
・平成16年 4月~平成17年 3月 | 理化学研究所 脳科学総合研究センター兼任 |
・平成17年 4月 | 理化学研究所 脳科学総合研究センター 生物言語研究チームチームリーダー(現職) |
・平成17年 4月~3月 | 千葉大学自然科学研究科客員助教授 |
・平成19年 4月~現在 | 千葉大学融合科学研究科客員教授 |
・平成20年 4月~現在 | 東京大学大学院総合文化研究科客員教授 |
・平成20年 4月~現在 | 慶應義塾大学文学部客員教授 |
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3.研究分野 |
認知科学、神経行動学、行動生態学、言語起源論 |
4.学会活動など |
平成10年4月~平成14年3月 | 日本認知科学会編集委員 |
平成14年4月~平成16年3月 | 日本動物行動学会編集委員・運営委員 |
平成14年4月~平成16年3月 | 日本動物心理学会幹事・理事 |
平成14年4月~現在 | 日本認知神経科学学会理事 |
平成18年4月~現在 | 日本鳥学会(英文誌編集委員) |
平成18年4月~現在 | 日本学術会議連携会委員 |
平成16年度 | Evolutionary Emergence of Linguistic Communication, Program Committee |
平成19年度 | Evolution of Language, Program Committee |
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5.業績 |
岡ノ谷氏は、研究の初期には、鳥類のさえずり(歌)の文法構造を解明したことで知られている。1980年代には主に鳥類の聴覚機能を、1990年代には鳥類の聴覚と発声の関連についての研究を進めてきた。これらの研究の過程で、鳥類の周波数分解能を測定し、基本的には人間と同じパターンを持つことを明らかにした(J. Comp. Psychol, 1987)。また、鳥類は人間と同様に発声時に聴覚フィードバックを必要とすることを指摘した論文を発表し(J. Neurobiology, 1997)、鳥類の歌制御システムが、人間の言語獲得過程を研究する上での重要なモデルになることを認識させるのに貢献した。これらの研究を通して、ジュウシマツの歌に複雑な構造があることを解析し(Zoological Science 1999)、その祖先種との比較研究から、鳥類の歌の生成文法の発見に至った(Advances in the Study of Behaviour, 2004)。
2000年代に入ってからの研究は、小鳥の歌から言語の起源へとシフトして行った。鳥類の歌の生成文法を手がかりに、単語と文法が独立に進化したこと、文法が性的なディスプレイとして進化したことを独自な仮説として盛り込んだ言語進化論を発表(In: The Transition to Language, Oxford University Press, 2002)し、生物学・心理学の領域を超えて、言語学からの注目を浴びるようになった。この研究は日本語による一般向けの本としても紹介され(岩波書店2003、「小鳥の歌からヒトの言葉へ」)、言語進化についての興味を喚起した。さらに、岡ノ谷氏はこれらの考えを言語起源の前適応説および相互分節化仮説としてまとめ(Current Opinion in Neurobiology, 2007および講談社2007「脳研究の最前線(上巻)」第4章)、国内外の言語起源論研究に大きな影響を与えた。
言語を可能にする前適応のひとつに「分節化」がある。これは、連続した刺激を分割し、階層性を作るための第一歩となる能力である。岡ノ谷氏は近年この分節化に注目し、モデル動物を対象とした研究のみならず人間の脳機能を直接扱う研究を展開している。脳波計を用いた研究から、連続音声を統計的な遷移規則を手がかりに分節化する際、大脳の前帯状皮質という部分から分節の最初の音への応答が記録されること、この電位は分節化学習の進展に応じて弱くなってゆくことを発見した(J. Cognitive Neuroscience, 2008)。さらに分節化学習が進んでくると大脳の言語野の活動が促進されることを発見し(Neuropsychologia, 2008)、連続音声から単語が切り取られていくメカニズムの一部を解明した。これらの研究は、言語の起源を生物学的に解明するための実証的な研究として注目されている。
こうした研究の流れの中から、岡ノ谷氏は、コミュニケーションにはテキストとして表される言語情報のみならず言語外の情報としての情動情報も普遍的に大切な要素であることに気づき、情動情報を分節化して表現することの重要性に気がついた。これが今回の研究計画の基盤となっている。 |
6.受賞など |
平成13年12月 | アメリカ心理学会比較心理学2000年度最優秀論文賞(日本人初) |
平成16年12月 | 小鳥の歌の生成文法とその脳内メカニズムの発見(Advances in the study of Behavior 誌に日本人として初掲載) |
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