補足説明


〈研究の背景〉

 記憶・学習・情動などの高次機能を営む脳がどのようにして出来上がるかは、人類にとっての根元的な問いであるばかりでなく、精神疾患の発症機序を解明する上でも重要である。脳の中には1000億個のニューロン(神経細胞)と、その10倍の数のグリア細胞(神経膠細胞)が存在し、精密なネットワークを形成する。このためには、脳の細胞の元になる細胞(神経幹細胞)が多数分裂して数を増やし、ニューロンやグリアの細胞に変化する(分化する)ことが必要である(この過程を「神経新生」と呼ぶ)。ニューロンは軸索という長い細胞突起を伸ばして互いにつながり、神経回路を作り上げる。グリアの細胞のある種のもの(オリゴデンドロサイト)は、軸索の周りを取り巻いて絶縁ケーブルの役割をする髄鞘(ミエリン鞘)を形成し、ニューロンの電気的なシグナルが素早く伝わるように働く。別の種類のグリアの細胞(アストロサイト)は、脳の血管からの栄養をニューロンに与える働きをする。このような脳形成の素過程それぞれに、多数の遺伝子が関わる(参考:大隅典子訳『心を生みだす遺伝子』岩波書店、平成17年)。

 我々の研究室はこれまで、脳形成の"親分"因子と称されるPax6(パックス・シックス)の機能についての解析を行ってきた。Pax6は脳形成のごく初期から働き、成体脳においても学習・記憶を営む海馬や、情動の中枢である扁桃体などで機能している。脳形成の初期の機能としては、神経幹細胞の増殖と分化の制御、脳の領域化(例えば、前脳と中脳を区画化したり、終脳において将来の大脳皮質と大脳基底核を分けたりすること)、脳の領域化に基づくニューロンの移動や神経回路形成などが挙げられる。

 Pax6は、細胞の核の中で働き、他の遺伝子の転写(ゲノムDNAからRNAが合成されること)を制御する転写制御因子というタンパク質をコードしている。上記のように脳形成におけるPax6の機能は多岐に渡るため、転写因子Pax6を"親分"とし、その号令のもとに実行部隊として働く"子分"たちは多数存在すると考えられる。しかしながら、このようなPax6の"子分"として働く標的遺伝子はあまり知られていなかった。

〈具体的な実験結果・考察〉

 今回、我々は多数の遺伝子を網羅的に解析することのできる最新のマイクロアレイ技術を駆使することにより、まずPax6の下流遺伝子群("子分"たち)の候補をスクリーニングすることにした。ラット胎仔で神経新生は胎齢12日頃から爆発的に増加する。この時期の正常な脳形成を示す野生型ラット胎仔、およびPax6の機能が失われたPax6変異ラット胎仔の脳原基からmRNAを抽出し、約9000遺伝子が搭載されたDNAチップを用いて、Pax6変異ラットの胎仔脳でのmRNA存在量が低下している遺伝子を明らかにし(図1)、約20遺伝子程度の候補を絞り込んだ。定量的な解析により、発生初期の脳で著しく存在量が低下していることが確かめられたFabp7という遺伝子(図2)に着目し、さらに以下の解析を行った。

 Fabp7が本当にPax6の命令のもとに働いているかどうか調べる目的で、いくつかの発生段階の野生型およびPax6変異ラット胎仔脳原基において、発生途中の野生型ラットと、Pax6の機能が失われたPax6変異ラットの胎仔脳で、Pax6およびFabp7のmRNAの局在を比較検討した。その結果、野生型胎仔脳原基においてPax6およびFabp7のmRNAの局在は極めて一致しており、さらに上記マイクロアレイおよび定量解析の結果を裏付けるように、Pax6の機能が失われたPax6変異ラットの胎仔脳ではFabp7のmRNAはほぼ消失していた(図3)。したがって、転写調節因子Pax6がFabp7遺伝子のスイッチを制御している、すなわち、Fabp7はPax6の"子分"(下流分子)であることが確かめられた。

 Fabp7タンパク質に対する特異抗体を用いて野生型胎仔脳原基を調べると、Fabp7タンパク質は脳原基の中で未分化な神経幹細胞に特異的に局在し、分化したニューロンでは局在が認められなかった(図4)。この結果から、Pax6の下流因子であるFabp7は神経新生の過程において、未分化な神経幹細胞の増殖もしくは分化に関わることが予測された。

 そこで、脳の初期発生におけるFabp7の機能を知るために、mRNAからのタンパク翻訳を特異的に阻止するRNA干渉法を用いて、試験管内で培養したラット胎仔脳のFabp7の機能を阻害した。その結果、未分化な神経幹細胞の増殖が著しく低下し、未成熟なニューロンが多数産生された(図5)。したがって、Pax6の下流因子であるFabp7は神経新生の過程において、未分化な神経幹細胞の増殖に必須であることが示された。

〈本研究成果のポイント〉

 本研究において、マイクロアレイ法を用いて、脳形成の"親分"因子として知られるPax6の"子分"としてFabp7を明らかにした。この成果により、他の"子分"たちを効率よく網羅的に明らかにするストラテジーを確立できた。我々は現在このようなマイクロアレイ法を駆使して、さらに他の"子分"因子を探求しつつある。これによって、Pax6"親分"を中心とする遺伝的プログラムの大要を明らかにすることが可能になると考えられる。
 Fabp7は別名、脳型脂肪酸結合タンパク(B-FABP/BLBP)と呼ばれ、これまで、DHA(ドコサヘキサエン酸)などの不飽和脂肪酸に結合することや、未分化な神経幹細胞に局在することは分かっていたが、その機能は不明であった。本研究により、Fabp7が神経幹細胞を維持するのに重要であることが示唆されたことは画期的な成果である。
 脂肪酸の細胞内輸送に関わるFabp7が神経幹細胞の維持に必須であるという事実は、さらに、栄養学的見地から興味深い発見であるといえる。DHAやEPA(エイコサペンタエン酸)などの不飽和脂肪酸は必須脂肪酸とも言われ、体内で合成されないので食物として摂取しなければならない。不飽和脂肪酸は子供の脳の発達に重要であることが知られているが、本研究成果は、このような栄養行動学的知見に対し、分子・細胞レベルでの根拠を与えるものとして位置付けられる。すなわち、不飽和脂肪酸の摂取が神経幹細胞の増殖・維持に関わり、それによって脳機能を営むのに必要なニューロンの産生数が制御されると考えられる。
 本研究と並行して行った研究において、生後でも神経新生が生じる海馬の神経幹細胞の維持にPax6が深く関わることを最近我々は報告した(Maekawa et al., Genes Cells, 2005)。生後脳海馬における神経新生においても、Pax6がFabp7を制御しているかどうか、今後さらに追求したい。

〈研究成果の社会的意義〉

 本研究は戦略的創造研究推進事業(CRESTタイプ)の「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」研究領域における研究課題の1つとして行われたものであり、とくに脳の発生発達の遺伝的プログラムと環境因子を明らかにすることを目指している。ともすると、脳の発生発達に関わる遺伝子を明らかにするということは、「遺伝子決定論」的な見方をされることが多い。しかしながら、本研究成果により、脂肪酸の細胞内輸送に関わるFabp7が遺伝学的にPax6の制御を受けていることを明らかにしたことは、神経新生という脳の発生発達の素過程において、遺伝的プログラムと栄養という環境因子が相互作用をしている可能性を強く示すものである。すなわち、今回の研究は、「生まれか育ちか」(Nature or Nurture)ではなく、「生まれと育ち」(Nature and Nurture)の両方がともに協調的に働くことが、健やかな脳の発生発達に重要であるという理解に資するといえる。