科学技術振興機構報 第19号
平成15年12月24日
埼玉県川口市本町4-1-8
独立行政法人 科学技術振興機構
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「脳で女性・男性ホルモンが合成されることを発見」

"記憶学習の活性化や脳での内分泌かく乱と関連の可能性"

 独立行政法人科学技術振興機構(理事長:沖村憲樹)の戦略的創造研究推進事業の研究テーマ「脳ニューロステロイド作用を撹乱する環境ホルモン」(研究代表者:川戸佳 東京大学大学院総合文化研究科 教授)の研究過程において、大人の哺乳類の脳海馬で女性・男性ホルモンが合成されることを、ラットを用いて明らかにした。従来、これらの性ホルモンを含むステロイドホルモンは、脳内では合成されず、精巣・卵巣・副腎皮質で合成されたものが血流に乗って脳に到達・作用し、性行動やストレス応答を制御すると考えられてきた。本成果は、この神経内分泌学のセントラルドグマを変更するという意味で大きな発見である。本成果は、米国科学アカデミー紀要PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America)オンライン版で2003年12月22日週に公開及び2004年1月20日発行の本誌に掲載される予定である。
<研究概要>
I.女性・男性ホルモンは脳では合成されないのか?
 大脳の海馬は、記憶学習を司る中心的な器官と考えられている。そして、海馬での神経伝達効率の制御、神経細胞の保護、記憶学習能の活性化などに、女性ホルモンが重要な役割を果たしていることが知られている。女性の更年期の閉経により女性ホルモンの血中濃度が顕著に低下するのに伴って、アルツハイマー型の痴呆が多発する、女性ホルモン補充療法によってこの痴呆が改善する、という臨床報告がなされたため、脳での女性ホルモンの作用に大きな関心が集まってきている。
 神経内分泌学のセントラルドグマでは、「多くの情報伝達物質のうち、女性ホルモン・男性ホルモンを含むステロイドホルモン1)だけは、脳内では合成されず、脳の視床下部からの信号を受けて精巣・卵巣・副腎皮質で合成されたものが血流に乗って脳に到達・作用し、性行動やストレス応答を制御する。」と説明されている。この説は、動物の精巣や卵巣の摘出を行うと性行動が変化するが、血中に性ホルモンを補充すると性行動が元に戻ることや、副腎皮質を切除すると海馬の神経細胞が死滅するが、コルチコステロンというステロイドホルモンを補充すると神経細胞死が救われることなどから、多くの研究者に支持されてきた。
 しかしながら、プレグネノロンやデヒドロエピアンドロステロン(DHEA)などのステロイドホルモンが、血中濃度より脳内に高く存在するという報告から、グリア細胞や神経細胞でもステロイドホルモンが合成されているのではないか、という説も提唱されている。さらに近年、これらのステロイドホルモン(ニューロステロイド2))が、培養したグリア細胞などで合成されるという報告も増えている。しかし、これらの合成酵素の遺伝子・蛋白質の存在量や合成活性は、性器官などよりもずっと低く、またいずれも新生児の脳での測定結果であった。従って、ニューロステロイドは新生児期に脳内で合成され、新生児の脳神経系の発達や脳の性分化に多少寄与するものの、大人の哺乳類の脳ではニューロステロイドの合成は行われていないという考えが大勢を占めている。
II.雄の海馬における女性ホルモンの合成(雌での男性ホルモンの合成)の発見
 川戸チームでは、大人の哺乳類の脳でもステロイドホルモンが合成されているのではないかという挑戦的な研究を進めてきた。そして今回、大人の雄ラット海馬の神経細胞を用い、チトクロムP450酵素3)を介してコレステロールから男性・女性ホルモンまでが合成されていることを、以下のとおり、蛋白質・遺伝子・合成活性のレベルで実証した。
(i) ステロイドホルモン合成酵素であるチトクロムP45017α、P450arom が海馬の神経細胞のみに発現している。
(ii) これらのP450は神経細胞のシナプス(記憶貯蔵庫)にも局在している。
(iii) P450蛋白質の分子量や遺伝子による検証では、海馬では卵巣・精巣の1/500くらいの量が発現している。
(iv) コレステロール→プレグネノロン→DHEA→男性ホルモン→女性ホルモンの順序で合成されている。
(v) 雄では、女性ホルモン濃度は血中より脳の方が6倍多く、女性ホルモンは神経が活動する時にのみ合成される。
 以上の結果から、生殖とは関係なく海馬で作用する女性ホルモンは、雄雌に関わらず神経細胞の活動時に合成されることが見出された。そして、この合成は神経活動依存的で記憶学習すればするほど合成が進むこと、この過程において他にも多くのステロイドホルモン(DHEAや男性ホルモンなど)が合成されることが分かった。
 今後は、海馬内で合成された女性ホルモンが、神経シナプス伝達4)シナプス可塑性5)に対し、いかに効果を発揮するかの分子的な仕組みを解明することが重要な課題である。これまで、女性ホルモンが海馬の神経活動に大きな効果を持つにも関わらず、その受容体が検出できないということが研究者の間での大きな課題であった。この点についても川戸チームでは、海馬の神経シナプスに女性ホルモン受容体が存在し、女性ホルモン神経伝達効率を上昇させることを発見しつつある。
III.本研究成果の社会的意義とは
 ホルモン補充療法が、更年期女性に多く発生するアルツハイマー型痴呆を改善する治療効果を示すことが臨床的に分かっているが、本研究結果によってこの分子機構を説明できる可能性がある。すなわち、老化によって海馬での女性ホルモン合成が減少し、神経機能が低下するのに対し、経口投与された女性ホルモンがこれを補うことで記憶学習能を改善するということである。老化脳における記憶学習能の改善に係る研究の進展は、近年多くの先進国において重大な社会問題となっている国民の高齢化に対して寄与する可能性が大きい。
 一方、そもそも本研究は、「内分泌かく乱物質は脳の記憶学習をかく乱するのか否か」という課題に解答を与えるべく、進めてきた研究の成果である。海馬神経細胞の情報伝達は女性ホルモンによって大きな制御を受けることから、女性ホルモン類似の内分泌かく乱物質は、神経伝達をかく乱して記憶学習に大きなかく乱を与えるものと考えられる。本研究の結果から、女性ホルモンは脳においては雌のみに関係する問題ではなく、雄雌双方の記憶学習能力をかく乱する可能性があると言えよう。
<図>
神経シナプスでのニューロステロイドの合成図
<用語解説>
1) ステロイドホルモン:精巣・卵巣・副腎皮質においてコレステロールから合成されるホルモンの総称。
2) ニューロステロイド:上記のステロイド合成器官とは独立に脳で合成されるステロイド。
3) チトクロムP450酵素:CO還元状態で450nmに光吸収を持つ酸素添加酵素の総称であり、主要なステロイドホルモン合成酵素である。
4) 神経シナプス伝達:神経細胞の間での信号伝達が行われる突起部分がシナプスであり、前の神経と後の神経の接合点で10~20nmの隙間があり、神経伝達物質によって信号が伝えられる。
5) シナプス可塑性:シナプスでの信号伝達の効率は固定されたものではなく、神経の興奮性に合わせて変化することから記憶・学習の根本にあたるものと考えられている。
<発表論文題名>
"Adult male rat hippocampus synthesizes estradiol from pregnenolone by cytochromes P45017α and P450 aromatase localized in neurons"
「大人の雄ラット海馬で、神経に局在するチトクロムP45017αとP450aromが、プレグネノロンからエストラジオールを合成する」
doi :10.1073/pnas.2630225100
<本件問い合わせ先>
川戸 佳(かわと すぐる)
東京大学大学院 総合文化研究科 広域科学専攻
〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1
TEL:03-5454-6517
森本 茂雄(もりもと しげお)
独立行政法人 科学技術振興機構
戦略的創造事業本部 研究推進部 研究第一課
〒332-0012 埼玉県川口市本町 4-1-8
TEL:048-226-5635
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