<補足説明>

研究の背景


 言語は、人間に固有の高次脳機能である。人間の言語能力が、その他の心の機能と原理的に分けられるかという問題は、アメリカの言語学者のチョムスキーとスイスの発達心理学者のピアジェによる有名な論争(昭和50年)以来、認知科学における中心的な謎であった。チョムスキーは、言語獲得の生得的なメカニズムが、一般的な学習メカニズムとは全く異なるものであると主張したが、これまで実験的な検証は困難であった。こうした言語の問題は、脳科学における究極の挑戦である【参考:酒井邦嘉著『言語の脳科学』中公新書、平成14年】。言語学のパラダイムに基づく脳機能イメージングの研究により、「言語の脳科学」が科学技術の新しい分野として確立・発展すると期待されている。本研究プロジェクトでは、「教育の脳科学の一つの突破口は言語にある」というコンセプトに基づいて教育に厳密科学を持ち込むことを追究しており、教育の効果を脳機能の変化として直接的に捉えることを目指してきた。

 平成16年1月26日にプレス発表したように、我々のチームは、英語の授業で脳の「文法中枢」の機能が変わることを初めて直接的に証明した。この学習初期における脳機能の変化は、中学1年生の双生児で高い相関を示し、授業の教育効果の定着には、双生児が共有する遺伝と環境の要因が深く関与することを示唆している。このように、学校の授業における脳の発達過程を明らかにした発見は、世界で初めてであった。次に問題となるのは、中学・高校の学習を経て英語の知識が定着してくる時期に、この文法中枢がどのようにはたらくかを明らかにすることである。そのためには、脳科学の観点から言語の獲得過程をさらに研究していく必要があった。

 アメリカのハーシュら(Hirsch et al., 1997)によるfMRIの実験では、幼少のときからバイリンガルで育った群と、十歳頃から第二言語を習得した群とを比較して、後者の群でのみ、2つの言語による活動領域がブローカ野の中で分離していることを報告した(『言語の脳科学』p. 320-322)。その後、第二言語を習得した時期や習熟度が違っても、ブローカ野の活動に差が見られなかったという実験結果(Chee et al., 1999)や、習得時期が遅い方が活動が強まるという報告(Wartenburger et al., 2003)が現れて、母語と第二言語におけるブローカ野の役割は未だ明らかになっていなかった。


具体的な実験結果・考察


 今回の調査の参加者は、日本語を母語とする右利きの大学生15名(19才)であり、すべての参加者からインフォームド・コンセントを得た。また、平成16年1月26日のプレス発表で報告した中学1年生14名(調査時点で13才)のデータを比較として使用した。これらすべての参加者は、海外の滞在経験がなく、中1(12才)のときから英語を学び始めている。

 本研究では、言語課題として、動詞の原形を過去形に変える活用変化の文法判断と、動詞のマッチング課題を直接対比した。英語の動詞のマッチング課題では、動詞の現在形を文字で提示して、同じ動詞を強制2択法で選ばせる(図1A)。英語の動詞の過去形課題では、動詞の現在形を提示して、正しい過去形を強制2択法で選ばせる(図1B)。また、英語と同じ意味の日本語の動詞を用いて、同様にマッチング課題(図1C)と過去形課題(図1D)を行った。これら4つの課題を行っている際の脳活動をfMRIにより計測する。

 まず、英語の過去形課題の成績であるが、不規則動詞(例えばcatch - caught)と規則動詞(例えばtalk - talkedのようにedがつく場合)を分けて調べたところ、不規則動詞の成績において個人差がもっとも顕著に表れた。そこで、大学生(19)と中学生のグループ(13)それぞれを、不規則動詞の成績が高い群(EH, higher in English)と低い群(EL, lower in English)に分けて、英語の熟達度の1つの指標とした(図2A)。実際、中学生の成績が高い群(13EH)よりも大学生の成績が低い群の方(19EL)が熟達度が高い。なお、比較的易しい規則動詞の場合は、大学生のグループでほぼ満点に近い成績に達していることがわかる(図2B)。

 fMRI調査において、英語の動詞の過去形課題における脳活動を、英語の動詞のマッチング課題の場合と比較したところ、図3に示すように、左脳(L)のブローカ野を含む前頭前野に最も強い活動が観察された。この活動パターンは、13才における英語の不規則動詞(図3A)と規則動詞(図3B)に共通して見られ、熟達度の高い19才における英語の不規則動詞(図3C)と規則動詞(図3D)でも同様であった。なお、日本語の動詞の過去形課題における脳活動を、日本語の動詞のマッチング課題の場合と比較したところ、同様に左脳のブローカ野に最も強い活動が観察されている。ブローカ野(図3の黄色い点の領域)の活動が熟達度によってどのように変化するかを調べたところ、不規則動詞(図4A)と規則動詞(図4B)に共通して、統計的に有意な負の相関が見られた。すなわち、熟達度が高くなるほどブローカ野の活動が節約されていることがわかる。不規則動詞と規則動詞のテストでは明らかな成績の違いがあるのにもかかわらず、ブローカ野の活動が同様の変化を示したということは、この活動が英語の成績そのものではなく熟達度を反映していると結論できる。

 また、図3において白い丸で囲った左前頭前野の領域(これもブローカ野の一部だが、前述の領域とは異なる)では、13才と19才に共通して、不規則動詞に選択的な強い活性化が観察された。不規則動詞における脳活動を、規則動詞の場合と比較したところ、より大きな活動がこの左前頭前野の領域に局在した(図5)。この領域の活動と熟達度の間には、不規則動詞の場合でのみ統計的に有意な負の相関が見られたので、この領域の活動には熟達度以外の要因が考えられる。規則動詞では成績が満点に近く課題の負荷が弱いので、この領域の活動が課題の負荷を反映すると考えられる。


今回の成果のポイント


 本研究において、英語の熟達度を学習による個人の脳活動の変化として、科学的にそして視覚的に捉えることに初めて成功した。今回の成果は、熟達度の個人差を、年齢や課題の成績などの要因から明確に分離したことがポイントである。また、英語が上達すると、日本語を使うときに必要な脳の場所と同じ場所が活性化するという言語の普遍性が、前回の成果に引き続き大人でも確かめられたことになる。以上の結果は、ブローカ野が文法判断を普遍的に司っており、英語の熟達度が文法中枢の機能変化によって担われていることを直接的に示す、画期的な発見である。

 平成16年1月26日のプレス発表では、英語習得を開始したばかりの中学生が示す英語の成績の向上に比例して、ブローカ野における活動が増加することを初めて報告した。これに対して今回は、学習がかなり進んだ大学生において、熟達度が高くなるほどブローカ野の活動を必要としなくなることを明らかにした。この両方の知見を合わせて考えると、習得の初期に文法中枢の活動が高まり、中期にその活動が維持され、文法知識が定着する後期には活動を節約できるように変化することが示唆される。長期にわたる英語習得の過程が文法中枢のダイナミクスとして観察できるというこの新しい成果は、広く教育の見地からも重要なポイントである。


研究成果の社会的意義


 この研究は「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」という目標を掲げた戦略的創造研究推進事業の1つとして行われたものであり、脳の機能発達の基本的な枠組みを提案する。本成果の社会的意義を次に要約する。

1)言語の獲得機構の解明。第二言語の熟達度を脳科学の手法で初めて定量的に計測したことにより、言語獲得のメカニズムの解明がさらに進むことが期待される。英語も日本語と同じように脳を働かせて習得することが、子供に限らず大人でもわかったので、日本人が漠然と抱いている英語に対する心配やコンプレックスは無用であると言える。この知見は、語学習得に直接役立ち、効率の良い学習法に役立てることができる。

2)言語障害の機能回復への応用。言語障害の機能が回復する際に、ブローカ野の活動がどのように変化していくかをモニターすることにより、リハビリテーションに役立つ新しい知見をもたらす可能性がある。

3)語学教育の改善。「活用変化」といった複雑な文法知識をいかに効率よく身につけるかは、第二言語の教育が直面する壁の1つである。今回の研究から、従来の教育方法でも英語の熟達度が高められることがわかったが、最適な教育方法を選択するためには、学習の到達度を脳の働きとして客観的に評価することが役に立つと考えられる。このような新しいコンセプトの教育方法を提案することで、教育学などの学問分野だけでなく広く一般社会の発展に寄与する。