Professeur Guy Ourisson
Membre de l’Academie des Sciences
Centre de Neurochimie
5 rue Blaise Pascal
f-67084 Strasbourg
Ourisson@chimie.u-strassbg.fr
Tel: 33 (0)3 88 60 05 13
Fax: 33 (0)3 88 60 76 20
Strasbourg 17 March 2001

科学技術振興事業団

川崎理事長への報告書

(2001年2月20日−28日)


序文
 この報告書を始めるにあたり、今回の我々海外評価委員の訪日の準備がすべてに心が行き届き、又非常に効果的になされていた事に対する賞賛の言葉を述べさせていただきたい。提出された資料の内容は非常に豊富で、かつ明解であり、計画された研究現場訪問は、皆一様に興味深く、又代表的事例であり、週末の自由時間の会合も、有益であった。又この時間は、我々が川崎理事長以下JSTのスタッフの皆さんとの忌憚のない意見交換の機会を与えてくれ、非常に有意義であった。(今回万全の準備がなされたことから)将来同様な評価用の視察団による訪日を計画なさる際、大幅な変更を薦めることは難しいが、いくつか改善の為に気づいた事柄をご提案してもよいと思う。JST事業全体としては、非常に高い評価に値するが、まったく改善の余地が無いわけではない。

 理事長以下JSTのスタッフの方々が、我々の訪日以前から、又訪日中大変なご尽力をされた事を、良く把握しており、心の行き届いたおもてなしに費やされた時間と、ご努力に対し、非常に感謝している。同時に、理事長及びJSTのスタッフの方々は、これまでのJST業務のすばらしい成果を我々に披露できる事に喜びを感じられていると、推測するとともに、我々の手放しの賞賛に誇りを感じられて当然と思われる。

 将来の一つの参考としてご提案したいのが、この種の評価事業の際、すべての訪問が終了した時点で、海外評価委員が集まり、その場で、暫定的ではあれ、意見をまとめる時間を、半日ほど予定される事をお薦めする。又その際、JST側で視察団の中から事前に委員長を任命し、その人物が責任を持って、視察団全員の報告書が期日通り提出される様、確認を取り、又視察団の全体報告書をまとめる役を果たすことを御提案したい。理研は通常この方法を取っており、又委員長が有能な秘書を従えてくる事で、視察の間の話し合いをすべて記録する事で、より効率化が図られている。委員長の仕事及び責任はその分増えるが、それに対し適切な金銭的報酬を、提供されて良いと思う。秘書に対しても、それなりの報酬が必要となる。

 今回のメンバーはそれぞれの国に帰国し、普段の仕事に戻り、忙しい日々を送っている。従って、評価チーム全体で、まとめた評価報告ではなく、JSTに対し個別の報告書が届く事になり、当然JSTにとり、使いにくいものになるだろう。

 この報告書を作成するに当たり、他のメンバー同様、序文の第一段落で使用した一人称複数形(“we”)では無く、単数形(“I”)で私個人の意見を述べている。帰国後、報告書に関して、他のメンバーと連絡は一切取っていないが、個々のまとめ方は別として、概ねの内容に関しては、お互いに同意できるものと確信している。しかし、現状況では、“I”で書くことが要求されると考える。

 この報告書の包括性を維持し、また利用しやすくする為、国内の「基礎研究事業に関する評価の中間報告」に出きる限り添って、書く事にする。

 この報告をまとめるに当たり、訪日前、訪日中、又訪日後、日本の知人たちと、訪日中収集した情報を補う形で、様々な有益な会話をした事を一言述べておく。又、以前参加した理研の評価事業での経験が、日本の研究事情の微妙な部分を理解するのに、役立っていることも付言したい。又他のメンバーも、日本の研究政策や、日本人科学者と深い付き合いや、かかわりがあった者達ばかりである。将来この種の評価をする際、こういった日本と関係の深い人々を評価委員として任命するのは当然の前提条件であろう。
  
1−JST事業の全体評価
 
A- JST事業及び日本における基礎研究
 JSTが助成している基礎研究は、日本の基礎研究事業のごく一部である。 (14%) これは至極妥当である。何故ならJSTによる厳選された研究への投資は、さほど厳しくない基準で選ばれた、より低額の助成金でを割り当てられた、多くの研究者群が裾野にあることで初めて、継続が可能になるからである。つまり、低額の助成金に支えられた研究のいくつかが一流の研究と認知され、JSTからの大きな支援の対象となるのである。これは「花を育てるための土壌を保持する」という政策と言える。
 厳しい選考基準で選別される、研究資金配分と、機械的に選別される種類の、研究資金配分との間の最適な割合には、魔法の方程式は無いと思う。現在の配分方法(50% 文部科学省、14% JST, 36% 理研等を含む他の機関)はそれなりに妥当な割合と言える。

 JSTにより資金提供されている、研究事業の質の高さに対する認識には、疑問の余地が無い。これは私が話したJSTの事業に従事していない科学者達の評価でもある。彼らは当然、JSTに支援されている科学者をうらやましく思っているが、同時に妥当な選択であると認識し、又その事業の資金が適切に活用されていると一様に評価している。そこには偏見、縁者びいき、派閥等の疑いは一切感じられない。とはいえ、対象とならなかった科学者のレベルが低いという訳でもないし、彼らがJSTの支援を受けても同様な資金の活用できない訳でも無いと思う。JST側としては、自ら選考した研究チームが、外部者からも適切な選択であると評価される様、努力する以外無いと思う。JSTの受益者は、決して「日本の最高峰」ではないが、常に「トップの中の一員」であると考えるべきだし、又私は事実そうであると信じている。厳しい選考基準で選ばれたJSTの事業が、日本の基礎研究の実体を外部に伝達する上で大きな役割を果たしたことは疑いのない事実である。

 今回日本では、数ある応募者から選別を行う上での具体的な選考手順について深く議論はしなかったが、私が集めた、JSTの事業に従事していない日本の同僚のコメントは、共通して前向きであった。複雑な選別の手続き、結果の不確実性、膨大でかつ詳細な提案書を提出しなければならない等の苦情は無かった。当然彼らが助成金の対象者として選ばれなかった事を、残念に思っているが、優秀なチームが、理に叶った選考方法で選ばれていると、一様に認めている。

 日本の評価者の一人がJSTの事業が果たして本当に「先駆者的」であり、日本における基礎研究のレベルの向上に寄与しているのか、との鋭い疑問を投げかけている。この重要な質問に対する揺るぎ無い答えは、未来のみ知るとしか言えない。私は良い答えが出るのでは、と感じている。もし厳しい選考基準で選別するJSTの事業の構想が実現されず、同額の研究資金がより安易な選考基準で、非合理的に、機械的に、あるいは論争を呼ぶような形でなされてきていれば、「先駆者」か否か、等の質問は一切なかったであろうし、もしそのような質問があったとしても、その答えは先駆者的な役割はなかったということになるだろう。
 
B−基礎研究事業の戦略的性質
 日本の同僚達が、JSTの支援する個々の事業の質を「測定」する為の最も重要な基準として、サイエンス誌あるいはネイチャー誌に掲載された論文の数にあると、強く主張されている事に、私は正直申して、少しショックを受けている。他に質を測定する上で適当な基準を見出せないという意味で、両誌での論文掲載数を準排他的な指針とすることは、あまりにも服従的であり、私の見解としては、それではあまりにも多くの主要な専門誌を、軽視し過ぎることになろうと思う。私もいくつかの論文を両誌に発表しているが、それらの論文は、必ずしも私の最高の出来のものではないし、最も斬新なものでもない。たまたま時の編集者の方針に添ったものであったと言える。もし指針としての両誌(とノーベル賞)への必要以上のこだわりが、日本の評価者のコメントに起因しているとすれば、私は非常に残念であるといいたい。基礎研究の質を図る為の信頼に足る基準が存在すれば良いが、残念ながらそのような短期的基準は無い。

 JST事業の継続及び質の向上を図るには、日本国内を含む一般社会への開示の度合いを上げる事が有効であると考える。JSTの事業と基本的な考え方の継続的な定着を確かなものにするためには、より効果的な国内及び海外に対する広報活動への投資が必要であろう。一つの有効手段として検討しても良いのではと、思われるのが、マスコミを引き寄せるような「イベント」を計画する事である。例えば、年一回、JSTの事業の支援を受けている研究者が集い、公開発表会を開催し、科学の話に特化しない講演を、一般大衆に向けて行う等である。この手の活動を通じ、各事業のチームリーダー同志の一体感を育むことになるし、又外部への宣伝にもなる。

 日本側の評価者の一人が、日本における基礎研究の成果の応用を図るため、FDAやEPA等の、米国機関の要求に対応した、データの準備を強調している。日本が二流国家に甘んじてはならないと、彼は主張している。良い点を突いていると思うが、これはJSTがとやかくできる問題ではない。20年ほど前は、通産省(経済通産省)が主要な役割を果たしていたが、再度時代に沿った対応を同省が考えるべきではないか。私の意見ではこれはJSTの役割ではない。しかしながら、世界のほぼすべての国が、科学技術の分野のみならず、武器開発でも、映画でも音楽産業においても当面は「二流国家」に甘んじなければならない様である。いやがおうでも、唯一米国が「一流国家」を構成しているようである。

 今回の訪日で、企業と研究グループとの、緊密な物理的交流の事例をいくつか観察した。(ソニー、松下) 私個人として同様な例を幾つか知っている。しばらく前の日本の大学と企業間の言及すべき関係は、すべて博士号を取得する為、企業から派遣された修士達のみであった事に比べれば、これは歓迎すべき進歩である。

 JSTが支援している事業のチームリーダーの「国際性」に、良い印象を受けた。皆、英語が堪能であり、又、これは世界に精通している事の表れであると、理解している。また国際的観点からの研究の位置付けも、至極自然に行っている。1960年代から続いている私と日本との関わりからも、この傾向が観察されている。日本の同僚達が、この状況の変化を果たして充分把握しているかはわからない。JSTはこの国際化への変化の恩恵を被っていると同時に、国際化の傾向の強化に貢献している。我々のストラスブルグでのJRDC事業(ICORPと命名される前の国際共同研究)での経験を披露させていただくと、共同研究で生まれた協力関係は日仏チームリーダー間の友好関係にとどまらず、下で働くメンバー同志の共同出版等で現在も継続している。

 以上の事柄と、日本の評価者が論じた「宣伝」の必要性を合わせ、一つの提案をしたい。それは研究の最終段階、あるいはJST支援の事業が完了して時点で、研究者が海外で講演するか、国際会議に参加し、JSTの援助で達成した成果を、発表するための費用を予算に組み込む事である。
 
C-研究と大学との関係
 ERATOとICORPの運用に関する議論の中で起きた、一つの具体的な問題を取り上げたい。JST事業の支援を受けている研究者に対し、大学の外に研究所を借りる事を要請している事に関する問題である。今回訪日するまで、このやり方はいたって官僚的で、不当な要請であると確信していた。これでは施設が分散するし、意思疎通がうまくいかないであろうし、又学生を含む、若い科学者とのコンタクトも希薄になると思われた。

 しかし、来日後、特に京阪奈の松下研究所で達成された環境と、我々が訪問した大学の研究室(CRESTで支援された優秀な事業)を比較して、私は考えを変えた。前者の施設はすばらしく、スタッフも明らかに満足している。唯一の問題点は、事業が終了した時点での膨大な機材の扱いである。(これについては後ほど述べる。)対照的なのが日本の大学における施設で、他の大学における伝統的状況と全く同じである。安全基準は一切存在しないのか、あるいはあっても無視されている様で、廊下から事務室まで乱雑で、正しい作業慣行、(ましてや、企業では必須のGLP)の教育は不可能な状態である。一流大学であってさえも学生の国際環境への接触も必然的に限られている様に見受けられた。この様な環境と、そこで行われている研究の質とは直接関係は無いと思うが、JSTの支援及び圧力で、いかに慣れ親しんでいるとは言え、悪習慣は改善されるべきである。

 私がご提案したいのは、JSTがJST支援で研究を行う大学に対し、国際標準に添った、安全で清潔な研究施設の提供、維持を義務付ける事である。一方では京阪奈や、つくばにあるすばらしい研究施設に大学からできるだけ学生が参加するようにし、若者達を良い研究環境に置いてどのような変化があるか、観察するのも良い。

 先にも述べたが、契約期間後の大型(時としてユニークな)機器、機材の行方に関し懸念を持っている。 JRDC(ICORP)の契約に、明確で、非常に不条理な規則が含まれていた。我々の場合、JSTの寛大な配慮で、その不条理な規則の適応は免れた。契約で提供された予算で、我々は大型の機器を購入した。(NMR分光光度計、回折計等) 

 これは資産として記録され、契約終了後、日本に返還される事になっていた。幸運なことに、これらの機器は我々の手元に残り、我々の資金で改良し、使用する事ができた。もしこれらの機器が長い船旅の末、日本に返還されていたら、日本の研究所に取り、招かざるお荷物になっていただろう。原則はJSTの支援を受けた研究施設は、契約を全うした時点で、機材を返還すると言う事であると推測する。しかし、この管理上必要と思われる条項は、寛大な配慮を持って実行される事を望みたい。

 この度の訪問でも、日本の評価者の報告でも、触れられていなかった点が一つある。それは使用済みの、いわゆるローテク、もしくはミディアムテク機材の扱いである。それらの多くは、いたって頑丈にできており、発展途上国の大学や、研究施設で歓迎されるのではと思われる。不用になったガラス機器や、単純な測定器及びヒーターなど、日本の大学(特にJSTが支援する研究グループ)ではあまり喜ばれないだろうが、ベトナム、ラオス、あるいはアフリカの大学では重宝するのではないだろうか。あまり経費をかけず (梱包費と輸送費) 発展途上国支援への、日本の役割を向上させる方法と思われる。ハイテク機器は、すでに述べた理由から、その方法には適さない。

 最後に、日本の評価者の一人が、今回我々の訪問では感じ取れなかった、問題点を一つ挙げている。それはCREST、あるいはICORPにより、大学教育の場から、教育者としての人材が喪失する点である。私の個人的見解では、長期間にわたる研究では、その中心的研究者を教育の場から遠ざけるべきでない。今回我々に対しプレゼンテーションをしてくれた、リーダー諸君は、ほぼ全員(あるいは全員)良き教育者の資質があると感じられたし、彼らの優れた研究の熱意を、若者達に伝えることができると思われた。目指す所は、大学はJSTで選ばれた研究者を学生から隔離するのではなく、大いに教育の場で活用する事にある。

 最悪のシナリオは、優れた研究者で、又教育者であるX教授が、JSTの支援を受けた結果、教育の場から完全に退かざるを得なくなる事である。教育者不足が放置されれば、その負担がJSTの恩恵を受けていない教授陣に行き、JST事業に対する敵意の発生に繋がる。長期に渡ってその状況が続けば、JST事業の存続に係わる問題に発展しかねない。
  
D-他の資金提供機関との調整と役割分担
 私が記憶する限り、この問題はほとんど取り上げられなかった。日本の評価報告には含まれているし、JSTから多少の説明があった。関係機関の間で定期会議が行われ、それぞれの事業の比較をし、調和が図れれていると理解しており、その方針に全面的に賛成する。
  
2−個別事業
  
A‐ERATO
 最大の問題は(日本の評価者により充分議論され分析されたキャンパス内・キャンパス外の問題以外では)5年間の研究期限である。

 日本の評価者同様、私も厳しく期限を設けることが必要であると信じる。充分な資金援助のもと、5年で成果の出せない研究は、打ち切られるべきである。しかし、我々が集団として議論し、又JSTでも認識されている、大きな現実問題がある。それは5年の期間が、開始時のずれにより、実質3年半ぐらいの研究期間になってしまう例が珍しくない事である。(施設の準備、機材の購入、研究員の選別)
我々は(この場合、明らかに“I”ではなく、“we”!)JSTがこの問題に対し、より柔軟に取り組み、確実に5年間研究時間を費やせる様、対応し、「一部のプロジェクトに関しては中間結果の評価によっては将来、延長をも検討する」、と言う明確な意思表示を歓迎する。

 総括責任者に与えられた裁量の自由に満足を表明すると同時に、わが国の管理者が同様に、先見の明を持つ事を期待するばかりである。
 
B−ICORP
 ストラスブルグでの体験から、いかに順調で、寛大にこの事業が運用されている事を良く理解している。資源の面からも、緊密な協力の面から見ても、又計画期間の幅を超えて持続する交流等を取っても、全ての参加グループにとって有効に働いている事を体験している。

 ERATOとCRESTをその後に続くICORPとリンクさせるとの、「評価の中間報告」でのJSTの提案は非常に良いと思う。ただ一つ問題点として考えられるのが、この種の国際協力の場合、同等の資金力を持つ研究機関同志の方が、問題が少ないと言う事である。海外のグループに比べ、CRESTで支援されているグループの資金が相手と比較してあまり豊富であることが多いことを考えると、問題に発展する可能性がある。

 私としても、できれば再度この事業に参加したいと思うが、JSTが、より広い範囲で、世界に貢献して行くと言う方針には賛成であり、又太平洋地域に力を入れることにも、大賛成である。

 日本の評価者の一人が指摘している知的財産権の管理の問題は、非常に難しい問題である。これには国際的な関係者の、米国に対する圧力が必要とされる。
  
C−CREST
 CREST事業は、日本の大学内に主要なセンター・オブ・エクセレンスが発展するうえで、不可欠なものとなっている。すでに述べたが、受益者と非受益者間の一見しての不平等にもかかわらず、日本の同僚は一様に高く評価している。

 選考の際、海外からの審査官を参加させることにより、海外での注目度も高くなると思われるし、日本でよりスムースに受け入れられるかも知れない。又ある日本の評価者が指摘した様に、又海外にある多くの事例が示すように、研究グループがCRESTの対象になった事で、そのグループが所属する大学に、予期せぬ経費が掛からぬ様、注意しなければならない。これは事業そのものと助成を受けるグループのピア・グループに与えるイメージの悪化に繋がるし、CRESTの存続を脅かすような批判に発展しかねない。
   
D−PRESTO
 我々は(ここでも“we”を使わせて頂く)今回紹介されたPRESTOの受益者の、人間的資質と、彼らが紹介してくれた研究内容の面白さに、深く感銘を受けた。

この事業は若い研究者に、効率良くキャリアの出発点を提供するだけでなく、多くの日本の友人(一部恩恵を受けているものも含めて)が批判している、大学の縦社会にある講座制度の打破に貢献するものであると私は考える。当然、それなりの危険も伴う。日本の評価者の一人が指摘した様に、「時として、研究者と上司の間に確執が生まれ、研究者の所属母体の組織との関係が損なわれる」。この事はJSTの説明にも反映されている。その様な問題で、JSTの事業の存立が脅かされてはならない。とはいえ、私もそれに対する適切な、助言は無い。上司に対し部下を支援する事は彼らの評価や名声に繋がると、説得するのはなかなか難しい。優れた研究者を教育し育成した事に対し、何らかの感謝と認知(多少の金銭的認知でも良いと思う)をする方法もある。あるいはそれほどお金をかけなくとも、年に一度、PRESTOの研究者と、彼らの上司を招いて、研究成果の発表会を行うと同時に、上司にPRESTOの育ての親と言う「称号」を授与する等、いかがだろうか。又ある評価者が指摘している様に、多くの場合、あるいはほとんどの場合、儀礼的慣習として、教授の名前を論文に載せていることも注目すべきである。これは海外でも行われているが、時には気まずい対立に発展するとして、批判の対象になっているケースが多い。
 JSTは倫理委員会なるものを設置してその様な問題の扱いに対処しているのであろうか。
 しかし、日本側の評価者が「全体としてこの問題への取り組みに満足している」と記述しているので安心している。
 ピア・レビューに関する日本の評価者の見解に同意する。この場合もやはり海外からの意見も取り入れたほうが、より効果的であると思われるし、eメール等を活用すれば経費も最小限に押さえられる。

履歴書

ガイ・ウリソン

1926年、フランスのブローニュ=ビヤンクールに生まれる
フランス国民

職場住所: 神経化学センター、67084ストラスブール(フランス)、ブレーズ・パスカル街5番地。
電話:(+33)8860.05.13 FAX:(+33)8860.76.20
自宅住所: 67000ストラスブール(フランス)、ジェイレ街10番地
現在の地位: ルイ・パストゥール大学化学部名誉教授
科学アカデミー前会長
科学アカデミー国立アルフレッド・カストレール財団会長
   
科学の学位: 物理学アグレジェ(教授資格者)(パリ、1950年)、
哲学博士(ハーバード、1952年)、
科学博士(パリ、1954年)
   
職歴:
1955年: ストラスブール大学助教授
1958〜1995年: ストラスブール大学教授、後に名誉教授
1959年: 合衆国アーバナのイリノイ大学客員教授
1968年: イギリス、ケンブリッジ大学のリーヴァーヒューム特別会員
1971〜1976年: ストラスブールのルイ・パストゥール大学創立者、学長
1981〜1982年: 教育省の高等教育及び研究局長
1985〜1989年: ジフ=シュール=イヴェットにある自然物質化学研究所(国立科学研究センター)所長
1991年11月: イェーテボリ(スウェーデン)の王立芸術科学協会客員教授
1997年7〜8月: 東京近郊和光市にある理研の名誉科学者
   
科学的業績: 生物学と地質学の境界線にある有機化学を研究。
約400点の科学出版物を書評、25点の論評記事、20点の評論を発表。
100人以上の指導教官を務める(教え子には後のノーベル賞受賞者、ジャン=マリー・レンもいた)かつての同僚はおよそ40カ国180人に及ぶ。
   
研究分野:
有機化学: 組織の解明、反作用の仕組み、天産物の合成。
生化学: 植物におけるステロールの生合成、植物の組織培養の利用、バクテリアのリピド。
生物物理学: 細胞膜の構造、特にバクテリアの細胞膜の構造。
有機地球化学: 沈降作用による有機物の構造と熟成、生物以前の合成と細胞膜の生化学的進化。
   
科学賞: フランス
国立科学研究センターより銅メダル 1954年
ル・ベル賞(フランス化学学会)
レイモン・ベール賞(フランス化学学会)
1958年
シュヴルール・メダル(国立自然史博物館) 1967年
ジェカー賞、ベルトロ・メダル(科学アカデミー) 1971年
金めっき(ヴェルメイユ)メダル(研究発明の奨励に対して) 1973年
ルーセル賞 1986年
フランス=ドイツ協会賞(元老院) 1990年
アルザス財団名誉賞 1992年

海外
スタース・メダル(ベルギー化学学会) 1962年
シモンザン賞(王立化学協会) 1964年
パシフィックコースト・レクチャラー(カナダと合衆国) 1969年
オットー・ヴァラッハ賞(ドイツ化学学会) 1970年
エルンスト・ギュンター賞(アメリカ化学学会) 1971年
有機地球化学最優秀出版賞(アメリカ有機化学学会) 1974年
ドルトン・レクチャー(マンチェスター大学) 1975年
コンフェランシエ・ゴードリー(モントリオール大学) 1977年
メルヴィン・カルヴィン・レクチャラー(カリフォルニア大学) 1984年
ハインリッヒ・ヴィーラント賞(ドイツ) 1985年
A.フォン・フンボルト研究賞(ドイツ) 1988年
クロード・バーナード・レクチャラー(王立協会) 1988年
ルネ・デカルト・レクチャラー(オランダ王立協会) 1997年
リケン名誉科学者賞(リケン、日本) 1997年
化学会館国際財団賞 2000年
   
科学協会名誉会員:
アカデミー: 科学アカデミー(フランス)、アカデミア・レオポルディナ、アガデミア・ユーロパエア、ヨーロッパ芸術・科学・人文科学アカデミーの会員。
スウェーデン、デンマーク、インド、ルクセンブルク、セルビア、ラインラント=ヴェストファーレンの科学アカデミー及びアメリカ芸術科学アカデミーの、海外会員または、通信会員。
中国科学アカデミーの上海有機化学研究所名誉教授。チューリッヒ工業大学連盟名誉博士。
化学学会: ベルギー、スイス、イギリスの化学学会名誉会員。
ブルガリア科学研究者連合名誉会員。
   
国家勲章: フランス
功労勲章 1982年
教育功労勲章 1981年
レジオンドヌール勲章 1998年

海外
日本 瑞宝章(金と銀) 1993年
   
奉職: フランス国内
国立科学研究センター、国立衛生医学研究所(医学研究)、研究省、文部省等の多くの委員会で委員または委員長を歴任。
ストラスブール大学病院理事会理事 1993年
科学委員会「フェット・ド・ラ・シアンス」委員長 1998年
科学文化博物館委員会委員長 2000年
国立自然史博物館の修繕専門委員会委員長 2000年

国際機関
イタリアの科学政策に関する経済協会開発機構(OECD)審査官 1969〜1970年
研究開発のためのヨーロッパ委員会委員(CCE) 1973〜1976年
ヨーロッパ科学財団最高執行委員会委員 1977〜1983年
NATO研究奨学金委員会委員(1978〜1980年)、後に委員長 1980〜1983年
KFAユーリヒ化学研究所の科学委員会委員 1979〜1981年
有機化学部会委員、次いで委員長、国際純正応用化学連合(IUPAC)の出版委員会委員長 1961〜1975年
IUPAC書記長 1975〜1984年
スウェーデンの科学政策に関するOECD審査官 1986年
ナイロビ(ケニア)にある国際昆虫生理生態センター(ICIPE)理事会理事 1986〜1989年
バウアー科学賞(フランクリン研究所)のための科学者委員会委員 1991〜1994年
立体化学に関するヨーロピアン・シンポジウム議長(スイスのビュルゲンストック) 1992年
天産物の化学に関する第18回IUPAC国際シンポジウム議長 1992年
ヨーロピアン・フォーラム「科学と安全」議長 1992年
ヨーロッパの科学に対するコーバー賞の選定委員会委員 1995〜1999年
リケン諮問委員会委員 2000年
日本科学技術評議会の科学検討委員会委員 2001年
技術革新のためのカナダ財団エケミニング・パネル議長 2001年

編集者としての仕事
「テトラヘドロン」(1967〜1977年)及び「テトラヘドロン・レターズ」の地域編集主任 1967年〜
「ジャーナル・オブ・ケミカル・リサーチ」編集部創設メンバー 1977〜1983年
「ケミストリー・アンド・バイオロジー」編集部創設メンバー 1994年
「ザ・ケミカル・インテリジェンシー・アンド・テクネ」編集部創設メンバー
「ラ・ルシェルシュ(研究)」「キュラン・アブストラクツ・オブ・ケミストリー・アンド・インデックス・ケミクス」「ケミカル・インテリジェンシー」「サイエンス・スペクトラ」「ケミストリー・アンド・バイオロジー」「バイオロジカル・ケミストリー(ホッピー・セイラー)」「ルビュ・ド・ランスティテュ・フランセ・デュ・ペトロル(フランス石油研究所機関誌」の各誌の諮問委員会委員。
「フィトケミストリー(植物化学)」「バイオケミカル・システマティックス」(生化学的分類学)」「ニュージャーナル・オブ・ケミストリー」編集部前部員。
1993年
国立文学センターの科学書選定委員会委員長 1988〜1990年
フランス化学学会出版委員会委員長 1992〜1996年

専門会議への参加
1960年〜 有機化学研究グループ(GECO)継続中
1965年〜 ビュルヘンストック・ヨーロッパ会議(部分的に責任者として参加。継続中)
1996年〜 サイエンティア・ユーロパエア(40歳以上、汎ヨーロピアンの、エリート物理学者、化学者、生物学者)これまで5回開催。

産業コンサルタント業務
科学顧問として
N.V.オルガノン(オランダ) 1955〜1964年
ユジーヌ=クーンマン 1960〜1969年
ルール=ベルトラン 1963〜1982年
ホフマン=ラ=ロシュ(スイス) 1964〜1990年
エルフ 1969〜1983年
メレル、後のメレル=ドゥ、現在のシンテラボ 1970〜1996年
トランスジェーヌ 1981〜1991年
フランス石油研究所 1976〜1998年
ローヌ=プーランク 1976〜1993年
ローヌ=プーランク法人科学委員会委員長 1988〜1992年
フランス水道会社 1993年〜
ヴィヴァンディ(水道会社)科学審議会議長 1994〜1999年
ヴィヴァンディ社長の科学アドバイザー 2000年


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