ポイント
- 反応基質や触媒を可溶化させるより、反応媒体として水を用いることで創出された“溶けない”状態により、触媒的不斉合成がきわめて円滑かつ高立体選択的に進行することを見いだした。本発見は、生体反応(酵素反応)の真の理解に通じる可能性がある。
- 従来、化学反応は、反応基質や触媒を溶解して行うのが常識とされてきた。したがって、脂溶性の反応基質を用いる場合(多くの有機反応)は、反応基質を溶かすために有機溶媒が用いられてきた。
- 本研究成果は有機溶媒を用いる既存の手法より優れた活性と選択性を実現しており、溶媒として水を積極的に活用することで有機合成を新たな次元へと発展させることが期待される。
東京大学 大学院理学系研究科の小林 修 教授らの研究グループは、触媒や原料を溶解させるよりも溶媒量の水を用いて敢えて“溶けない”状態を作り出すことにより高い触媒活性と高い選択性が得られることを見いだした。
同研究グループは、単純な銅塩から成る水に溶けないキラル銅触媒を開発し、本触媒と脂溶性注1)の基質を水中で攪拌することで高い選択性を得る触媒的不斉合成注2)を成功させた。
化学反応の原理上、反応速度は反応基質同士の衝突頻度に比例するため、有機溶媒や界面活性剤を用いて反応基質同士の混和性を高めることが反応を進行させる前提であった。しかしながら本反応では、触媒/基質を溶解させる有機溶媒中において、活性と選択性双方の著しい低下が見られた。また、溶媒を用いない条件でも反応は進行せず、水に溶けない状態が最も効果的であった。
水に溶けない性質から本触媒系は取り扱いの簡便性、耐久性に優れており、金属が漏れ出ることなく反応後の触媒のリサイクルも可能であり、環境調和型の効率的な不斉合成を実現している。有機溶媒中で報告されている既存の手法をも上回る触媒作用を実現しており、溶媒として水を積極的に活用する有機合成の展開が期待される。
本研究成果は、米国化学会誌「Journal of the American Chemical Society」のオンライン速報版で12月8日に公開される。
なお、本研究は、科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業 先導的物質変換領域(ACT-C)および日本学術振興会(JSPS) 研究研究費助成事業 特別推進研究の一環として行われた。
<研究の背景>
有機合成は、医薬品・化成品・農薬などの有機化合物(ファインケミカルズ)に求められる複雑な構造を供給する「ものづくり」に欠かせない手段である。有機合成反応においては一般に、反応基質に対して過剰の有機溶媒を使用し、反応物の可溶化を図る。反応基質を可溶化して均一な化学変換を行うことは、高い生産効率や副反応の抑制につながるからである。
一方で、水を溶媒として用いる有機合成が、有害な有機溶媒を用いない環境調和型の理想的な合成手法として、近年活発な研究開発の対象となっている。本研究グループでは以前より溶媒として水に着目し、水の中で安定的に機能するルイス酸触媒注3)を数多く見いだし、研究展開してきた。近年では水を溶媒として用いることで、有機溶媒中を上回る反応速度や有機溶媒中では得られない独特な選択性を生み出す反応系も見つかってきている。これらの反応系では、反応基質の非溶解性という課題に対し、主に界面活性剤の機能を利用し、疎水的な反応場を水中に構築して反応基質の可溶化を図ることで克服してきた。またこの手法により、精密反応制御を必要とする触媒的不斉合成も水中で行うことができるようになった。
このように、一般に有機合成においては、反応基質の可溶化は生産効率を高めるための前提であった。しかしながら、生体内で水を溶媒として化学変換を担っている酵素が対象としている反応基質は、必ずしも可溶化された状態であるとは限らない。こうした酵素の触媒作用は、反応基質の可溶化を前提とする有機合成化学者に対するアンチテーゼを提示しているともいえる。また、水に不溶な金属塩表面の剛直さやオリゴマー構造は精密な反応場制御に適していると考えられることから、不溶な金属表面上で脂溶性反応基質を反応させる研究開発に着手した。
<研究の内容>
まず有機溶媒からの再結晶法により、単純な銅塩から成る水に不溶なキラル銅触媒の調製を試み、アセチルアセトナト銅(II)塩Cu(acac)2とキラルビピリジン配位子(L1)から青紫色針状結晶を得た。次にこの針状結晶を用いて、水中でホウ素含有試薬2のケイ素—ホウ素間結合の活性化を試みたところ(図1)、カルコン1を用いた不斉ケイ素共役付加反応注4)において92%化学収率と93%の鏡像異性体過剰率注5)(93%ee)が得られた。その際に漏れ出た銅は検出限界以下であったことから、不溶性触媒表面上で反応が進行していることが確認された。
溶媒として水ではなく有機溶媒を用いると反応は全く進行せず、アルコール中では反応が若干進行したものの立体選択性は発現しなかった。また溶媒を用いない条件でも反応の進行は見られなかった。続いて、水-テトラヒドロフラン混合溶媒系を用いて水の量がどのように反応に影響するかを調べたところ(図2)、溶けている反応では立体選択性がほとんど発現していないのに対し、触媒や基質の不溶性が高まるにつれて鏡像異性体過剰率の増加傾向が確認された。すなわち、有機溶媒を一切用いない金属漏出なしの反応条件で最も高い鏡像異性体過剰率が得られることがわかった。可溶化した銅錯体と固体状態での触媒幾何構造のわずかな違いに加え、触媒が多核錯体注6)で機能している可能性も実験的に示唆されている。また、本反応において水が必須である理由として、剛直な遷移状態の形成を促すことに加え、プロトン化注7)段階の反応加速を担っていることが考えられる。
この触媒系はすでに報告されている触媒と比べて基質の適用範囲が広く、これまで報告例のなかったニトロスチレンへの基質適用は有用な合成中間体合成法として特筆すべきである。また本反応はグラムスケールでも問題なく進行することから、反応のスケールアップも可能である。さらに、反応後は遠心分離操作のみで生成物の単離と触媒の回収を達成することができ(図3)、触媒の再使用も可能であることが確認された。すなわち、本反応および触媒系の開発により、ファインケミカルズ製造に新しい方法論が提供されたといえる。新方法論は、水を溶媒として用いるため、有機溶媒の使用は最小限にとどめることができる。持続可能な社会に向けた、環境負荷を可能な限り抑制する有機合成の取り組みでもある。
<今後の展開>
今回は、「溶けないもの同士が効率的に反応する」という、これまでの溶液反応の基礎において常識を塗り替える発見をしたが、なぜそのような現象が起こるかについては不明であり、今後、詳細な反応機構の解明が必要である。生体内にも同じく水を溶媒とする脂溶性基質の物質変換を担う代謝機構は存在しているが、分子レベルでの解明は達成されていないものも多い。本発見の根底は、酵素反応にも通じると考えられる。そのような意味では、フラスコの中で行う有機合成が生体内の酵素反応に一歩近づいたともいえる。
また、近年水中で展開されてきた有機化学に新たな領域を切り拓くと同時に、不溶性触媒と溶媒としての水を活用することで、均一系触媒や有機溶媒中では達成できない精密な触媒的不斉合成発展が期待される。
<参考図>
図1 水に溶けないキラル銅触媒を用いる水中での不斉ケイ素共役付加反応
図2 水—有機溶媒(テトラヒドロフラン)混合溶媒中での反応における水の量の増加効果
水を1当量添加したテトラヒドロフラン中での反応から水とテトラヒドロフランを1:1で混和させた反応までは均一相中で反応が進行している。さらに水の量を増やすと鏡像異性体過剰率の上昇が観察され、完全に溶けていない(有機溶媒を使わない)状態での反応で最も高い値が得られた。
図3 反応後の遠心分離操作後
遠心分離操作により水、生成物、触媒に分離できる。触媒は再使用できる。
<用語解説>
- 注1) 脂溶性
- 水との親和性が低い性質。
- 注2) 触媒的不斉合成
- わずかな不斉源を用いて理論的に無限の鏡像異性体を合成する手法。野依良治らが2001年にノーベル化学賞を受賞している。鏡像異性体とは、鏡に映した像が元の像と重なり合わない関係(右手と左手の関係)にある分子構造を持つ分子のこと。不斉とは、その性質。
- 注3) ルイス酸触媒
- 反応分子構造中の酸素や窒素などの原子から電子を受け取ることにより触媒作用を示す触媒。
- 注4) 共役付加反応
- カルボニル基に隣接する二重結合への付加反応で、重要な有機反応の1つ。ケイ素の不斉共役付加反応は、有機化合物中にケイ素を導入する手法の1つである。生成物である有機ケイ素化合物は、対応する炭素化合物と比べて剛直性や脂溶性の上昇、極性や体内動態の変化が期待されることから、光応答・電子輸送などの機能性材料や医薬品として注目を浴びている化合物群である。
- 注5) 鏡像異性体過剰率
- キラルな化合物の光学純度を定量的に示す指標。
- 注6) 多核錯体
- 中心金属が複数個の錯体。
- 注7) プロトン化
- 最も基礎的な化学反応の1つで、プロトンを付加する素反応過程。
<論文情報>
タイトル |
“An Insoluble Copper(II) Acetylacetonate–Chiral Bipyridine Complex that Catalyzes Asymmetric Silyl Conjugate Addition in Water” |
著者 |
Taku Kitanosono, Lei Zhu, Chang Liu, Pengyu Xu and Shū Kobayashi |
掲載誌 |
Journal of the American Chemical Society (オンライン版:12月8日(米国東部時間)) |
doi |
10.1021/jacs.5b11418 |
<お問い合わせ先>
<研究に関すること>
東京大学 大学院理学系研究科 化学専攻
教授 小林 修 (コバヤシ シュウ)
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