ポイント
- 繰り返し獲得される記憶情報が脳内の細胞に割り当てられる仕組みは知られていなかった。
- 独自の遺伝子改変マウスを活用することにより、同じ学習には脳内の同じ神経細胞の組み合わせを優先的に割り当てる仕組みが存在することを示した。
- 反復学習による記憶の強化・定着の仕組みのさらなる理解や、学習・記憶障害の改善などへの応用が期待される。
JST 戦略的創造研究推進事業において、大阪大学 大学院医学系研究科 分子行動神経科学の松尾 直毅 独立准教授(前 京都大学 白眉センター 特定准教授)は、反復学習には脳内の同じ神経細胞の組み合わせが使われる仕組みが存在することを発見しました。
最近の研究から、記憶は、学習時に働いた脳内の一部の神経細胞群の活動によって担われていることが明らかになってきました。しかし、脳内に星の数ほど存在する神経細胞のうち、どの細胞に特定の記憶情報が割り当てられるのか、その仕組みはほとんど知られていません。
松尾独立准教授は、まず、学習時に働いた神経細胞群のみを一時的に活動しないように操作可能な遺伝子改変マウスを作製しました。このマウスに学習訓練を実施し、時間を置いた後、学習時に働いた神経細胞群の活動を抑制すると、学習した記憶を思い出すことができなくなりました。さらに、同様に抑制した状態で同じ学習訓練を再び行っても記憶の強化が起こらないことが分かりました。一方、上記と異なる学習訓練を実施した場合は、記憶を獲得し、想起することができました。これらの結果は、いったん記憶情報が割り当てられた神経細胞の組み合わせが、同じ学習を行う際にも再び使われ、代替え補償が効かない仕組みが脳内に存在することを示唆するものです。
記憶の強化や定着には反復学習が有効であることが知られていますが、今回の発見は、それを担保する仕組みと考えられます。反復学習による記憶の強化の仕組みのさらなる理解や、精神・神経疾患や加齢に伴う学習と記憶の障害の原因解明に役立つことが期待されます。
本研究成果は、2015年4月16日(米国東部時間)に米国の科学誌「Cell Reports」のオンライン速報版で公開されました。
本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
戦略的創造研究推進事業 個人型研究(さきがけ)
研究領域 |
「脳神経回路の形成・動作と制御」
(研究総括:村上 富士夫 大阪大学 名誉教授) |
研究課題名 |
「個々の記憶情報をコードする神経回路の解析と制御」 |
研究者 |
松尾 直毅(大阪大学 大学院医学系研究科 分子行動神経科学 独立准教授) |
研究期間 |
平成23年10月~平成27年3月 |
<研究の背景と経緯>
私たち人間を含む動物は、経験した出来事などを記憶として蓄え、それらを必要に応じて正しく引き出すことにより、適切な判断・行動を取ることができます。しかし、この目に見えない記憶の実体は何でしょうか。松尾独立准教授らは平成19年に、世界に先駆けて、特定の記憶情報を担う神経細胞群を標識し、その活動を操作することが可能な遺伝子改変マウスの作製に成功しています。このマウスを用いた最近の研究により、記憶は、脳内に散在する一部の神経細胞群の活動として存在することが実証されつつあります。
一方で、星の数ほどもある脳内の神経細胞の中から、特定の神経細胞の組み合わせが選ばれる「記憶の割り当て」については、未解明の点が多く残されています。例えば、脳は柔軟な仕組みを持った組織で、一部の脳領域が損傷を受けると、損傷で失われた機能を別の脳領域が補償することが知られています。では、個々の記憶を担う細胞群単位でも同様に、いったん特定の記憶情報が割り当てられた細胞群の代替え補償作用が働くのでしょうか。この疑問に答える1つの方法は、最初の学習時に働いた神経細胞群が活動できないようにした状態で、再び同じ学習を行い、記憶を獲得できるかどうかを調べることです。得られる結果には、2つの可能性があります。1つ目は代わりの神経細胞群が補償的に働くことにより学習が成立する。2つ目は、最初の学習時に記憶が割り当てられた神経細胞群の代替えは効かず学習できないというものです。果たして、実際に脳内では、どちらの仕組みが働いているのかを検証しました。
<研究の内容>
まず、学習時に働いた特定の神経細胞群をテタヌス毒素注1)で標識することにより、それらの細胞群の神経伝達を選択的に遮断できる遺伝子改変マウスを作製しました。このマウスを用いて学習・記憶を評価するために、文脈依存的恐怖条件付け注2)と呼ばれる学習課題を用いました。この学習課題では、マウスを新規の箱Aに入れて数分後に、床に弱い電気刺激を与えることにより、この箱Aの環境(文脈)と電気刺激という嫌な出来事を関連づけた連合記憶注3)が形成されます。つまり、もともとは好きでも嫌いでもなかった箱Aが嫌いになります。従って、通常のマウスは、同じ箱Aに戻されると、その嫌な出来事を思い出し、身動きしない反応(すくみ)を示します。このすくみ反応を起こしている時間の割合を計測し、マウスが嫌な記憶を思い出している指標とします。
この学習課題をマウスに施し、いったん記憶させました。遺伝子改変マウスでは、この学習時に活動した神経細胞群では次第にテタヌス毒素が発現し始め、神経伝達が選択的に遮断されます。そこで、翌日に記憶想起テストを行った結果、この箱Aに対する嫌な記憶の想起が障害されることが分かりました。つまり、学習時に働いた神経細胞群の活動を遮断すると、その記憶が思い出せなくなることを示唆します。
次に、上記の実験と同じマウスに対して、同じ箱Aで2回目の学習訓練を行ったところ(図1-箱A)、通常のマウスでは記憶が強まりましたが、遺伝子改変マウスでは記憶の強化は認められませんでした(図2)。この結果は、1回目の学習時に記憶情報が割り当てられた神経細胞群の働きが阻害されていると、再び同じ学習ができないことを示唆します。言い換えると、同じ学習には同じ神経細胞の組み合わせが担う頑固な仕組みが存在して、別の組み合わせが代わりに働く補償作用は作動しないと考えられます。
さらに、この遺伝子改変マウスを用いて、1回目とは異なる環境の箱Bで2回目の学習訓練を行いました(図1-箱B)。その結果、マウスはこの新しい箱Bに対する嫌な記憶を獲得して、それを想起できました。つまり、箱Aに対する嫌な記憶を担う神経細胞の組み合わせと、箱Bに対する嫌な記憶を担う組み合わせは脳内で別々に存在していることを示唆します。
これら一連の結果から、1)特定の記憶情報を表現するために、それぞれ異なる神経細胞の組み合わせが使われていること、2)特定の記憶を思い出すためには、その学習時に働いた特定の神経細胞群の活動が必要であること、3)同じ学習には同じ神経細胞の組み合わせが再利用され、いったん割り当てられてしまうと代替えが効かない仕組みが脳内には存在していることが明らかになりました(図3)。
<今後の展開>
脳は柔軟な仕組みを持った組織です。例えば、一部の脳領域が損傷を受けると、損傷で失われた機能を別の脳領域が肩代わりする補償作用が知られています。しかし今回の結果は、神経細胞群のレベルでは機能的補償が生じないことを示唆する驚くべきものでした。一見、不都合なように思えますが、脳にとって、どのような意味があるのでしょうか。
学習により得られた記憶を強固にして保持するためには、反復学習が有効であることは以前からよく知られています。反復学習によって繰り返し同じ神経細胞群が活性化されれば、これらの細胞間の情報伝達が強化され、その記憶が強まると考えられます。今回発見した現象は、この仕組みを担保しているのかもしれません。
今回の発見は、反復学習により記憶が強化される現象に脳神経科学的な基盤を与えると同時に、記憶を担う神経細胞の組み合わせが一体どのようにして決定されるのかという謎の解明に新たな道筋を投じるものです。これらの謎の理解がさらに進めば、将来的に精神・神経疾患や加齢に伴う学習と記憶の障害の原因解明などへの応用にも役立つことが期待されます。
<付記>
本研究は、スクリプス研究所のマーク・メイフォード 教授と旧大阪バイオサイエンス研究所の中西 重忠 研究所長の協力を得て行いました。
<参考図>
図1 実験スケジュールの概略
今回の研究で用いた遺伝子改変マウスでは、ドキシサイクリン(Dox)という薬剤を投与していない時期に働いた神経細胞群でテタヌス毒素の発現が誘導される。そこで、Doxを投与していない時期に箱Aで恐怖条件付け学習訓練を行い(1回目の学習訓練)、翌日にDoxを投与した状態で2回目の学習訓練を箱Aもしくは箱Bで行った。その数時間後に、それぞれの箱で記憶想起テストを行った。
図2 再学習訓練による記憶の強化の検証
通常のマウス(赤線)は、再学習訓練によってすくみ反応を起こした時間の割合が増加した(記憶が強化された)が、遺伝子改変マウス(青線)ではほとんど増加しなかった。
図3 研究結果の概要図
学習により脳内の一部の神経細胞群に記憶情報が割り当てられる。遺伝子改変マウスでは、それらの細胞にテタヌス毒素が発現し、神経活動が遮断される(紫色の細胞)。再学習訓練を行っても、遺伝子改変マウスはその記憶を獲得して思い出すことができなかったことから、再学習の際にも同じ神経細胞群が使われる仕組みが存在すると考えられる。一方で、異なる学習訓練Bにより、遺伝子改変マウスは記憶を獲得して想起することができたことから、学習訓練Aとは異なる細胞群が使われたと考えられる。
<用語解説>
- 注1) テタヌス毒素
- 破傷風菌により産生されるたんぱく質。神経細胞間の信号伝達を阻害する働きを持つ。
- 注2) 文脈依存的恐怖条件付け
- 人間を含む動物は、それ自身は中立的な刺激(条件刺激)と、電気ショックなどの恐怖反応を誘導する刺激(非条件刺激)を同時に提示されることにより関連付け学習が成立すると、条件刺激だけでも恐怖反応を示すようになる。これを恐怖条件付けと呼ぶが、特に、さまざまな感覚情報を含む場所などの環境(文脈)が条件刺激となる場合を文脈依存的恐怖条件付けと呼ぶ。海馬と扁桃体が必要であることが知られている。
- 注3) 連合記憶
- 恐怖条件付けのように、複数の異なる刺激を関連づけることにより得られた記憶。
<論文タイトル>
“Irreplaceability of Neuronal Ensembles after Memory Allocation”
(記憶の割り当て後の神経アンサンブルの代替え不可性)
doi: 10.1016/j.celrep.2015.03.042
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