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平成24年4月20日

科学技術振興機構(JST)
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関西医科大学
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質量分析でアセチルコリンの脳内分布の可視化に成功
—神経疾患の仕組みを解き明かす一助に—

JST 課題達成型基礎研究の一環として、関西医科大学 医学部の矢尾 育子 講師らは、質量分析イメージング注1)と呼ばれる手法を用い、代表的な神経伝達物質の1つであるアセチルコリンの脳神経での分布を世界で初めて可視化することに成功しました。

脳内にある神経細胞のシナプス間の情報は、神経伝達物質と呼ばれる小さな分子によって伝えられます。アセチルコリンもその一種で、副交感神経や運動神経に働きかけることが知られています。また、学習・記憶、睡眠などにも深くかかわっています。パーキンソン病やアルツハイマー病などにおいても、アセチルコリンの存在量が症状に大きくかかわると考えられています。

脳の活動状態を調べたり、疾患の病態メカニズムを理解するには、脳内のアセチルコリンの動態を調べる必要があります。従来、アセチルコリンの検出方法としては、アセチルコリンの受容体や分解酵素に対する抗体を用いた間接的な手法が一般的でしたが、アセチルコリンそのものを直接検出できないという問題がありました。一方、組織中の分子分布を直接調べる手法として「質量分析イメージング法」が開発されていますが、感度の問題から、これまでは組織中に豊富に含まれる脂質などに利用されており、アセチルコリンなど、ごく微量の分子の検出は難しいとされてきました。

矢尾講師らは今回、質量分析を2回以上連続して行う「多段階質量分析イメージング注2)」を応用することで、ごく微量のアセチルコリンを脳組織切片から直接検出し、組織のどの部分にアセチルコリンが分布しているかを可視化しました。

本研究成果は今後、検出感度をさらに高めたり、アセチルコリン以外の神経伝達物質などの検出に応用したりすることができると考えられ、パーキンソン病やアルツハイマー病、神経筋接合部の異常のような神経や筋肉の病気の病態解明の一助となることが期待されます。

本研究成果は、ドイツ科学誌「Analytical and Bioanalytical Chemistry」のオンライン版で近日中に公開されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。

戦略的創造研究推進事業 さきがけ(個人型研究)

研究領域 「脳情報の解読と制御」
(研究総括:川人 光男 (株)国際電気通信基礎技術研究所 脳情報通信総合研究所 所長/ATRフェロー)
研究課題名 「質量顕微鏡法による神経伝達物質のイメージング」
研究者 矢尾 育子(関西医科大学 医学部 講師)
研究期間 平成22年10月~平成26年3月

JSTはこの領域で、運動や判断を行っている際の脳内情報を解読し、外部機器や身体補助具などを制御するブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)を開発し、障害などにより制限されている人間の身体機能を回復するための従来にない革新的な要素技術の創出に貢献する研究を支援しています。

<研究の背景と経緯>

脳内にある神経細胞のシナプス間の情報は、神経伝達物質と呼ばれる小さな分子によって伝えられます。神経伝達物質としては、ドーパミン、アセチルコリンなどが代表的です。アセチルコリンは、副交感神経や運動神経に働き、血管拡張、心拍数低下、消化機能亢進、発汗などを促します。また、学習・記憶、睡眠などに深くかかわっています。パーキンソン病では脳内のドーパミンが不足して脳内の神経伝達物質のバランスが崩れ、相対的にアセチルコリンの活性が強くなって運動機能の障害が起こります。逆に、アセチルコリンの不足はアルツハイマー病に代表される認知障害などの症状を起こすことが知られています。

アセチルコリンの脳での分布を明らかにすることは、アセチルコリンによる神経伝達機構を理解し、脳の活動状態を知る上で必要です。また、病態モデルマウスの脳などでアセチルコリンの分布の異常を検出することは、上記の病気の病態解明につながります。

これまで、アセチルコリンの分布を知るためには、アセチルコリンの受容体に対する抗体や合成酵素に対する抗体を作り、これを標識した二次抗体を指標として間接的に検出する手法が一般的でした。しかし、この手法では、アセチルコリンそのものを検出することができず、検出感度や精度が抗体の品質に依存するといった問題がありました。

近年、組織構造を壊さないで、生体物質の局所分布を調べることができる方法として、2000年頃から世界でいくつかの研究室において「質量分析イメージング法」の開発が進んでいます。「質量分析イメージング法」とは、組織切片にレーザーを照射し、イオン化された物質を検出・分析することで、特定の物質が切片のどこにどれくらいあるかを可視化する手法です(図1)。「質量分析イメージング法」は当初、たんぱく質を見ることができる方法として開発され、2004年頃からは生体膜の成分である脂質のようなイオン化されやすい生体分子の局在分布を見ることができる方法として注目を集めるようになりました。しかし、これまで生体内に量の多い物質で利用例があったものの、神経伝達物質のような微量の小さい分子にはうまく適用できてきませんでした。

<研究の内容>

微量で比較的分子量が小さい物質を測るためには、いくつかの技術的な課題を克服することが必要です。今回観測したアセチルコリンは、もともと使用したイオン化を補助する化学物質(マトリクスと呼ばれます)との相性が良いという利点はありましたが、生体試料のサンプリングの迅速化、レーザー強度など装置の測定条件の最適化によって、信号雑音比(S/N比)向上を行いました。また、測定に際しては、質量分析イメージングで通常利用される、一段階の質量分析測定(MS測定)ではなく、多段階質量分析、すなわちMS/MS測定を行いました。MS測定では、一度だけレーザーを照射してそこでイオン化された物質の情報を検出しますが、MS/MS測定では、MS測定でイオン化された物質から特定の質量のイオンだけを選び、そこにもう一度レーザーを照射し、その物質が断片化したものを検出します。断片化したものから、どのような結合をしているイオンなのかも予測できます。こうして得られたMSの情報とMS/MSの情報から、もとの物質が何であるかを同定することができます。MS/MS測定をイメージングに応用するには特定のイオンだけをあらかじめ選び出さなければならないという難点がありましたが、予備検討を行い、アセチルコリンが組織標本上で断片化したときのパターンを予測し特定の情報を取り出すといった対策を行いました(図2)。

こうした工夫を重ねた結果、今回、マウス脊髄および脳の多段階質量分析イメージングにより、実際にアセチルコリンの生体内分布を観測することができました。マウス脊髄では、脊髄前角(図3・白い矢頭)にアセチルコリンが多く観測されました。実際、脊髄前角にはアセチルコリン作動性の運動ニューロンが存在することが知られています。また、マウスの脳においてはアセチルコリンがアセチルコリン作動性神経細胞の終末に多く存在することが分かりました(図4)。

<今後の展開>

今回、アセチルコリンの分布を、脳組織から抽出することなしに直接可視化することに、世界で初めて成功しました。

今回の手法を応用することで、今後、神経再生時あるいは脳内環境の変化が起こった際のアセチルコリンの動態を空間的情報を保ったまま追跡できると考えられます。

また、今回の測定は100μmおきにレーザーを照射してシグナルを得ています。細胞1個の大きさはおおよそ10~20μmですので、検出できた分布の広さは、神経核(神経細胞の集団)の平均的な大きさに相当します。レーザーを密に照射すれば、さらに高い空間分解能での観察も可能です。

本手法の検出条件を物質に合わせて最適化することにより、この方法を他の神経伝達物質にも応用できると考えられます。いくつかの神経伝達物質が組織構造の中で、どのように分布しているかが直接に測定できれば、パーキンソン病や認知障害などの病気の仕組みを解き明かすのに大いに役に立つ夢の技術の1つとなると期待されます。

<付記>

本手法の開発にあたり、JST「炎症の慢性化機構の解明と制御」研究領域の杉浦 悠毅さきがけ専任研究者と協働しました。

<参考図>

図1

図1 質量顕微鏡法の手順とイメージ

組織切片を作製し(①)、走査しながら組織表面にレーザーを照射し(②)、イオン化される物質を検出する(③)。照射前にマトリクスと呼ばれる化学物質をコーティングすることで、レーザー照射時に物質を壊さずにイオン化させることができる(④)。得られた各点のスペクトルから画像を再構成する(⑤)と、どの質量のものがどこに局在しているかが一目瞭然で分かる。

図2

図2 アセチルコリン (C16NO = 146)

アセチルコリンの構造。矢印はMS/MS測定で断片化される箇所を示す。

図3

図3 質量分析イメージングで検出されたマウス脊髄のアセチルコリンの分布

(左)MS/MS測定で得られたアセチルコリンの像。存在量に合わせて赤から青にかけて色分けした。

(右)形態の比較のために生態に多く含まれる脂質の像を重ね合わせた。脊髄前角(白い矢頭)の運動ニューロンにアセチルコリンが多く含まれていることが分かる。 

図4

図4 質量分析イメージングで検出されたマウス脳のアセチルコリンの分布

(上)脳に豊富に含まれる脂質の像を比較のために示した。脂質が多く含まれる部分が白く浮かび上がっている。

(左下)MS/MS測定で得られたアセチルコリンの像。

(右下)脂質の像を重ね合わせた。アセチルコリン作動性神経細胞の終末に多く存在することが分かる。

<用語解説>

注1) 質量分析(mass spectrometry(MS)測定)、質量分析イメージング

質量分析は、物質にレーザーを照射してイオン化し、分離・検出する分析方法。検出された情報からイオンの質量が分かる。どの質量のイオンがどれだけ検出されるかにより、物質の組成を知ることができる。

質量分析イメージングは、質量分析測定を画像化に応用した技術。組織切片上の物質に対して質量分析を行いながら、位置情報も記録することにより、組織切片上にある生体分子や代謝物の局在を可視化する。診断に重要な情報を提供する技術として注目されている。

注2) 多段階質量分析イメージング
質量分析測定を2回以上連続して行うことで、物質の組成を高精度に検出する手法を、「多段階質量分析測定」と呼ぶ。この手法をイメージングに応用した技術。1回目のレーザー照射によってイオン化された物質から、特定の質量のイオンだけを選んでもう一度レーザーを照射し、その物質が断片化したものを検出・測定する。得られたMSの情報とMS/MSの情報から、もとの物質の組成、存在量を高精度に同定することができる。

<論文名>

“ Article title: Visualization of acetylcholine distribution in central nervous system tissue sections by tandem imaging mass spectrometry ”
(多段階質量分析イメージングによる脳神経組織切片中のアセチルコリン局在の可視)

<お問い合わせ先>

<研究に関すること>

矢尾 育子(ヤオ イクコ)
関西医科大学 医学部 医化学講座
〒570-8506 大阪府守口市文園町10番15号
Tel:06-6993-9426 Fax:06-6992-1781
E-mail:

<JSTの事業に関すること>

原口 亮治(ハラグチ リョウジ)、木村 文治(キムラ フミハル)、稲田 栄顕(イナダ ヒデアキ)
科学技術振興機構 戦略研究推進部
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