単一スピンは磁性材料の基本構成単位であり、いわば最小の磁石と考えられます。情報処理に欠かせない磁気記憶媒体などが技術の進歩に伴って縮小化していくなかで、単一スピンに注目が集まっていますが、それを精度良く検出する方法は見つかっていませんでした。ESRは化学分析手法として一般的に用いられ、ラジカル分子などの構造や電子状態の観察に用いられています。しかし、検出感度が弱くスピンを検出するには10億個以上の分子が測定試料として必要であり、単一のスピンだけを原子レベルで検出して化学分析を行うことはこれまでできませんでした。
本研究グループは、装置の改良によって測定試料と探針の間に流れるトンネル電流注3)に含まれる高周波信号注4)成分を高精度で検出できるようにした上で、原子レベルで測定された表面の特定箇所でのスピン信号を検知することに成功しました。これによって、初めて単一スピンの原子レベルでの位置決定と、そのスピンの周波数の測定を同時に行うことができ、化学環境の違いを単一スピンの周波数から分析できました。また本手法は、固体素子との相性もよいと考えることから、トンネル接合を持った固体素子に組み込まれてスピン検知の手法としても用いられる可能性があります。
本研究成果は、米国学術誌「Applied Physics Letters」に受理され、オンライン版で近日中に公開されます。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 | : | 「物質現象の解明と応用に資する新しい計測・分析基盤技術」 (研究総括:田中 通義 東北大学 名誉教授) |
研究課題名 | : | 低次元ナノマテリアルと単一分子の振動分光・ESR検出装置開発 |
研究代表者 | : | 米田 忠弘(東北大学多元物質科学研究所 教授) |
研究期間 | : | 平成16年10月~平成22年3月 |
<研究の背景と経緯>
磁石は日常的になじみの深い材料であり、また磁気ディスクなどで情報記録媒体として用いられることはよく知られています。磁石は微視的に見るとスピンと呼ばれる磁気最小単位が集合したものです。現在、磁気ディスクの集積化が非常な勢いで進行していますが、それは磁気記録中に含まれるスピンの個数が減少し、磁気材料が単一のスピンに近づいていることを示しています。
また、スピンの制御によって素子を流れる電流量を制御する研究が盛んになされ、これらの技術はスピントロニクス注5)として集積回路に取り入れられています。回路集積化によってひとつひとつの回路サイズが小さくなり、関与するスピンの数は非常に少数と予想されます。このように、スピンを検出・分析することがこれらデバイスの早期実現には欠かせないものとなっています。
さらに、注目されている量子コンピューターも、演算結果算出にスピンの向きを利用しようとしています。しかし、スピンの向きを見る手法のうち、微細加工された素子と組み合わせ可能なものは見つかっていないのが実状です。
他方、スピンは化学分析にも重要な物理量です。事実、電子スピン共鳴分光や核磁気共鳴分光(NMR)注6)は現在の化学にとって不可欠な分析手法です。なかでもESRは、ラジカル分子などの構造や電子状態の観察に用いられています。しかし、検出感度が弱くスピンを検出するには10億個以上の分子が測定試料として必要であり、単一のスピンだけを原子レベルで検出して化学分析を行うことは、これまでできませんでした。スピンは外部から与えた磁場の中に置かれた時、その磁場に比例した周波数でスリコギ運動を行いますが、それと同じ周波数を持つマイクロ波を入射すると共鳴的にそのマイクロ波が吸収されます。その共鳴周波数は精密測定が可能で、周波数を測るものさしとして使われるg値注7)は高い精度で決定できます。g値は周囲の化学環境に敏感に反応するため、化学分析に用いることができ、これが注目する原子を化学分析する際の原理となっています。しかし、比較的感度の良いESRでも10億個の分子が測定試料として必要であり、空間分解能もmm単位と比較的大きな値でしかありませんでした。この測定法では、個別のスピンを顕微鏡のように空間位置決定した後に周波数測定を行うことはできません。
このように、情報記録ビットの検出方法としてもナノテクノロジーに必要な化学分析手法としても、単一スピンの検出とそのg値測定は将来に不可欠な測定手法です。現在、電子顕微鏡や走査型プローブ顕微鏡を用いて、このような測定を目指す研究が大変盛んに行われており、後者の走査型プローブ顕微鏡を用いた手法だけでも、さまざまな手法で競争が行われています。
<研究の内容>
本研究グループは今回、STM-ESRで試料と探針の間に流れるトンネル電流量がスピンのスリコギ運動と同じ周波数で増減することに注目し、精密測定が可能な装置改良を行いました(図2)。この装置で単一スピンについて原子レベルで検出し、同時にg値を測定することでスピンを用いた化学分析を行うことに成功しました。検出したスピンはシリコンの極初期の酸化膜に存在するシリコンのダングリングボンド注8)と呼ばれる不対電子注9)に由来するものです。
初期の酸化状態では酸素原子が最表面シリコン原子と固体側の二層目との間に入って結合する場合と真空側で結合する場合があり、後者の場合にはダングリングボンドが消滅してスピンもなくなると考えられていました。今回の観察によっても、予想していたように前者ではスピン信号を検出しましたが、後者では検出されないことを確認しました。
また、前者の周辺のシリコン原子でストレスに起因すると思われる大きなg値のシフトが検出され、これによって化学環境の違いを単一スピンの周波数から分析できることが分かりました(図3)。この結果は、室温において原子分解能でスピンの位置決定と化学分析が可能であることを示した最初の例であると考えられます。
<今後の展開>
弱い外部磁場を印加する以外には特別に外場を必要としないため、STMでの用途に限らず固体素子との相性もよく、トンネル接合を持った固体素子に組み込まれてスピン検知の手法としても用いられる可能性があります。
<参考図>

図1 走査トンネル顕微鏡の模式図

図2 STM-ESRの原理図

図3 STM-ESRを用いたシリコン(111)7×7表面の極初期の酸化表面観察
<用語解説>
注1)走査トンネル顕微鏡(STM)
先端が鋭い金属の探針を導電性のある試料に近づけ、両者に数Vの電圧差を設ける場合、その間の距離が1nm(1nmは10億分の1m)以下になった時にトンネル電流が生じる(図1)。この電流は探針-試料間の距離に敏感であり、探針を走査することで原子分解能を持った顕微鏡像を得ることができる。トンネル電流は本質的に局所的で、その広がりは0.3nm程度しかない。
注2)電子スピン共鳴分光(ESR)
1つの電子は1/2スピンと呼ばれる単位のスピンを持つ。電子の準位には上向きと下向きの2つのスピン方向を持った電子が入ることができ、両方のスピンが軌道に入ったとき合計でスピンは0となる。しかし軌道に電子が1つしか入らない場合、スピン1/2を持つことになり、スピンが外部磁場に平行か反平行かでエネルギー差が生じる。このエネルギー差をゼーマンエネルギーと呼ぶ。試料にゼーマンエネルギーに等しいエネルギーを持つ光を照射すると、共鳴的に吸収される。このエネルギーを持つ光は、電子レンジに使われるマイクロ波と呼ばれる周波数領域にあり、また、ラジオに用いられる周波数であることからRF(Radio Frequency)信号とも呼ばれる。ESRは不対電子を持つ場合にのみ適用可能であるが、スピン周辺の化学状態に敏感で、近年ではたんぱく質のラベルにも頻繁に用いられる。
注3)トンネル電流
金属の塊を考えた時、自由に動き回れる自由電子がその塊を満たしており、それが電流の元になっていることはよく知られている。その電子は塊から飛び出して外に飛び出ることはない。これは真空障壁と呼ばれる高い壁が存在して、電子の持つエネルギーではその壁は越えられないからである。しかし、2つの金属が1nmまで接近すると、量子効果によってあたかも壁をすり抜けるように電子が、1つの塊から別の塊へ流れていく。この効果をトンネル効果と呼び、電子の波動性を示す量子的な現象であるとともに、江崎 玲於奈 博士らの研究(1973年にノーベル物理学賞を受賞)によって、ダイオードなど実用にも役立てられている。その現象を顕微鏡に応用したものがトンネル顕微鏡であり、非常に接近した探針が表面の凹凸を原子レベルで検知することから、原子分解能を持った数少ない顕微鏡として広く用いられている。
注4)高周波信号
電磁波のうちラジオ・テレビや携帯電話などで用いられる周波数帯域。
注5)スピントロニクス
現在、情報処理に用いられるエレクトロニクスは電荷のある・なしを情報の「0/1」に置き換えて処理していたが、スピンエレクトロニクスはその処理に電子の持つスピン情報を積極的に取り込んでいこうとするものである。スピンは電子の内部自由度であり、地球と太陽に例えるならばプラスに帯電した原子核(太陽)の周辺をマイナスの電荷を持つ電子(地球)が回転している原子模型において、地球に自転があるように電子もスピンという自転運動をしていると考えられている。スピンの集合体は磁性材料であり、それがハードディスクなどで記憶材料として用いられることはよく知られているが、近年の磁気素子の縮小化はその読み書きに電流をも用いており、スピンとエレクトロニクスの融合はその発展から開始された。同時に、エレクトロニクスもさらなる微細化、省電力化、さらには量子コンピューターなどの新しい計算スキームの確立にスピンを用いることが必要となってきたという背景がある。従来、どちらかというと異分野であった磁性記録とエレクトロニクスが両者の微細化の結果、融合に向かったという流れである。スピンエレクトロニクスの具体的な動作には、従来の代表的な電子素子のトランジスタがゲートの電圧で、電流のON/OFFを制御していたように磁界の制御で電流量が制御できる効果などが研究されている。
注6)核磁気共鳴分光(NMR)
ESRが電子のスピンを用いるのに対して核のスピンに対して共鳴吸収分光を行うもの。ESRが不対電子の存在が必要なのに比較して、NMRでは閉核の場合でも測定が可能であり、応用範囲が広い。ただし、感度の点ではESRのほうが優れている場合が多い。
注7)g値
ラーマー周波数は磁場に比例してで表される。ここでμBはボーア磁子とよばれる電子の磁気モーメントの定数、Bは外部磁場の強度、
はプランク定数を2πで割ったものである。gはランデのg因子と呼ばれるもので、1/2スピンを持つ電子スピンの場合おおよそ2であるが、スピン周辺の環境によって微妙に変化する。そのg値の変化によってスピン周辺の化学状態の分析を行う手法が化学分析の1つの手段としてある。
注8)ダングリングボンド
シリコンは4本の結合手を持っており、周辺の4つのシリコン原子と結合する。しかし表面の場合は真空側に結合できる原子が存在しないので、電子が1つだけ入った原子軌道をとり、これをダングリングボンドと呼ぶ。ダングリングボンドはスピンの起源となるが、シリコン(111)7×7表面では金属的な性質から、ESRでの実験では弱い信号としてしか出てこない。酸素と相互作用して、金属性が弱められたとき、ESR信号として出現することが知られている。
注9)不対電子
パウリの排他律によって、1つの電子準位にはスピンの2つの自由度を反映した2つの電子しか入れない。互いにスピンの向きが異なる2つの電子が入った時に安定化するが、何かの理由で1つしか電子が入っていない場合に、この1つだけの電子を不対電子と呼ぶ。
<論文名>
“Atomically Resolved Larmor Frequency Detection on Si(111)-7x7 Oxide Surface”
(シリコン酸化膜上において原子分解能で捉えたラーマー周波数)
<お問い合わせ先>
<研究に関すること>
米田 忠弘(コメダ タダヒロ)
東北大学多元物質科学研究所 教授
〒980-8577 仙台市青葉区片平2-1-1
Tel:022-217-5404 Fax:022-217-5371
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