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平成21年5月19日

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糖脂質「ガングリオシド」が聴覚機能に必要不可欠であることを発見

(内耳の再生医療や感音性難聴の診断・治療への貢献に向けて期待)

 JSTの目的基礎研究事業の一環として、東北薬科大学分子生体膜研究所の井ノ口 仁一教授らは、音の振動が電気信号に変換される 蝸牛(かぎゅう) 注1)の機能に、糖脂質(糖と脂質が結合した分子)であるガングリオシド注2)の存在が必要不可欠であることを突き止めました。
 蝸牛は内耳にある渦巻状の感覚器で、その発達過程・機能成熟時に蝸牛内の複合糖質注3)の糖鎖構造や発現部位の著しい変化が観察されることから、複合糖質の聴覚機能への関与が示唆されていました。しかし、聴覚機能における複合糖質の実態は不明のままでした。
 本研究グループは、ガングリオシドと総称される複合糖質ファミリーを作る最初の酵素であるSAT-I(ガングリオシドGM3合成酵素)の機能を失ったノックアウトマウスを作製して一連の解析を行いました。その結果、SAT-Iノックアウトマウスでは、内耳の平衡感覚を司る三半規管や前庭は正常であるにも関わらず、蝸牛のコルチ器注4)の選択的変性・消失による聴覚障害を示すことが分かりました。SAT-Iノックアウトマウスの病態は感音性難聴の病態の一部と類似しています。
 感音性難聴は、内耳の障害、特に音の振動を受け取るコルチ器の機能低下や、内耳以降の神経の障害が原因で生じる難聴です。同難聴は遺伝的素因、抗がん剤・抗生物質のような薬や各種疾病による神経破壊のほか、老化によりコルチ器の有毛細胞が減少した場合に発生します。しかし、現時点では根本的な治療法はありません。
 今回の成果は、ガングリオシドGM3がコルチ器の機能維持に不可欠なことを発見したものであり、内耳の再生医療や感音性難聴の診断・治療への貢献が期待されます。
 本研究成果は、福岡大学 薬学部の岩崎 克典 教授、同学部の藤原 道弘 教授との共同研究によって得られたもので、米国科学雑誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」のオンライン速報版で2009年5月18日の週(米国東部時間)に公開されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 「糖鎖の生物機能の解明と利用技術」
(研究総括:谷口 直之 大阪大学 産業科学研究所・教授/理化学研究所 基幹研究所 ケミカルバイオロジー研究領域 システム糖鎖生物学研究グループ グループデイレクター)
研究課題名 マイクロドメイン機能異常に基づく2型糖尿病の病態解明
研究代表者 井ノ口 仁一(東北薬科大学分子生体膜研究所 教授)
共同研究者 藤原 道弘(福岡大学 薬学部・臨床疾患薬理学 教授)
研究期間 平成15年10月~平成21年3月
 JSTはこの領域で、糖たんぱく質、糖脂質、プロテオグリカンといった生体分子群の有する糖鎖の新たな生物機能を解明し、その利用技術を探索するための研究に取り組んでいます。上記研究課題では、上記の分子群のうち、スフィンゴ糖脂質と疾患の関係に焦点をあて、新たな分子病態像の解明を目指しています。

<研究の背景と経緯>

 ガングリオシドは細胞膜外層に存在し、細胞の分化や増殖あるいは接着の調節・制御に関わっていることが知られています。一連のガングリオシドの生合成はSAT-I(GM3合成酵素)と呼ばれる酵素によってラクトシルセラミド(LacCer)にシアル酸が転移され、GM3と呼ばれる分子が合成されることによって開始されます(図1)。
 本研究グループは、SAT-I遺伝子のクローニング(参考文献1)に世界に先駆けて成功し、これまでガングリオシドの病態生理学的意義の解明に研究の焦点を当てて研究を推進しています。GM3は成長因子受容体やシグナル伝達分子、接着分子などのさまざまな分子と共に細胞膜上で「ラフト」注5)と呼ばれる微小領域を形成し、その機能を調節していることが分かってきています。2007年には、2型糖尿病などの生活習慣病では脂肪細胞のGM3レベルが増加するためにインスリン受容体がラフトから解離し、インスリン抵抗性が起こるという新たな発症機序を証明しました(参考文献2)。

<研究の内容>

 本研究グループは今回、まずSAT-Iノックアウトマウスの一連の行動薬理学的試験を行いました。その結果、平衡感覚や運動能力は正常だが音刺激による驚愕反応試験に全く無反応だったことから、聴覚機能の異常が示唆されました。これまでも、内耳の感覚器である蝸牛(図2)の発達や生後の機能的成熟時に複合糖質(糖たんぱく質、プロテオグリカン、糖脂質)の分子種特異的な発現変化が認められることから複合糖質が聴覚機能に関わっていることが示唆されていましたが、その実態は不明でした。また、哺乳動物の蝸牛ではGM3、GM1、GD1b、GT1bなどのガングリオシドが発現していますが、それらが聴覚機能にどのように関わっているかは解明されていませんでした。
 そこで、聴覚におけるガングリオシドの機能を解明するために、本研究グループは九州大学 医学部 耳鼻咽喉科学教室の小宗 静男 教授の協力を得て、SAT-Iノックアウトマウスの難聴発症機構の解析を行いました。

(1) SAT-Iノックアウトマウスの音刺激(振動)を電気信号に変換する器官であるコルチ器は一見正常に形成され、電気信号への変換に必須である蝸牛内のカリウム濃度や蝸牛内電位も正常でしたが、生後17日までに完全に聴覚機能が消失しました(図3)。その後、成長するにつれてコルチ器の選択的脱落が観察されました(図4)。
(2) マウス内耳においてはガングリオシドGM3、GM1、GD1b、GT1bが発現していましたが、SAT-Iノックアウトマウスにおいてはそれらの発現が消失し、o-seriesガングリオシドであるGM1b、GD1αが代償的に発現していました(図5)。
(3) 抗ガングリオシド抗体によるマウス蝸牛組織染色の結果、各ガングリオシドは生後間もない間は蝸牛全体に分布するが、聴覚機能獲得の期間(生後2週間)で大きく局在が変化し、それぞれ特徴的な局在を示すことが明らかになりました(図6)。
 そこで、SAT-Iノックアウトマウスで欠損した一連のガングリオシド(GM3、GM1、GD1b、GT1b)のどの分子が聴覚機能必須であるのかが問題になります。これまでに、GM3のみを発現するマウスの変異体(GM2/GD2 合成酵素とGD3 合成酵素のダブルノックアウトマウス)では音に反応することが分かっていました。従って、GM3が聴覚機能において特に重要な役割を果たしていることが分かります。今回の成果によってはじめて、糖脂質であるガングリオシドファミリーの中で特にGM3がコルチ器の機能に必須であることが明らかになりました。

<今後の展開>

 難聴は、その障害の重さから軽度・中度・重度難聴に分けられ、障害の原因から伝音性難聴・感音性難聴・混合難聴と区分されます。このうち、感音性難聴は内耳の障害、特に音の振動を受け取るコルチ器の機能低下や、内耳以降の神経の障害が原因で生じる難聴です。この原因としては、遺伝的素因、抗がん剤・抗生物質のような薬や各種疾病による神経破壊のほか、老化によりコルチ器の有毛細胞が減少した場合での発生が挙げられます。現時点では根本的治療法はありません。
 今回の成果は、ガングリオシドGM3がコルチ器の機能の維持に不可欠であることを発見したものです。蝸牛、特にコルチ器に特異的に発現し、ラフトに局在している分子群とガングリオシドの相互作用が、聴覚の発達や機能の維持に必須であることが予想されます。
 本研究グループは現在、プロテオミクスやリピドミクスを含めたガングリオシドGM3の聴覚における機能解明に挑戦しており、近い将来、内耳の再生医療や難聴の診断・治療法の開発へつなげたいと思っています(図7)。

<参考図>

図1

図1 ガングリオシド(スフィンゴ糖脂質)の生合成経路

 種々のガングリオシドの生体内合成経路の概要は上記の通り。なお、図右上はガングリオシドの構成糖を示す。
  • Glc:グルコース、Gal:ガラクトース、GalNAc:N-アセチルガラクトサミン(以上、糖類の構成成分)
  • α2,3 Sia:α2,3 結合シアル酸、α2,8 Sia:α2,8結合シアル酸、α2,6 Sia: α2,6結合シアル酸(以上、シアル酸構成成分)
  • sulfate:硫黄分子

図2

図2 聴覚器官および蝸牛の構造


図3

図3 SAT-Iノックアウトマウスは生後14日で聴覚障害を呈する

 8週齢のSAT-Iノックアウトマウスの音刺激による驚愕反応試験を実施したところ、全く反応が認められず、聴覚障害が疑われた(左上図)。そこで聴力試験として広く用いられる聴性脳幹反応試験(ABR)を行ったところ、音刺激による脳波が消失していた(上右図)。聴覚が機能するようになる生後14日(P14)ですでに聴力の低下または消失が認められ、生後17日までに完全に聴覚機能が消失した(下図)。

図4

図4 SAT-Iノックアウトマウスの蝸牛の形態

 蝸牛の形態(基底回転)をヘマトキシリン・エオジン染色したところ、SAT-Iノックアウトマウスでは生後14日の段階では一見正常に形成されているが(上図)、その後数日でコルチ器の変性が見られた(上図)。さらに8週齢の段階ではコルチ器の選択的脱落が確認された(下図の矢印部分)。

図5

図5 SAT-I ノックアウトマウスの内耳のガングリオシド組成分析

 SAT-I ノックアウトマウスの脳や内耳を含む多くの臓器では、通常殆ど発現しないGM1b,GD1αが発現している。GM2/GD2 合成酵素とGM3合成酵素(SAT-I)のダブルノックアウトマウス(さらにo-seriesガングリオシドもなくしたマウス)は生後間もなく死に至ることから、生存など生命の根幹に関わる部分の基本機能はGM1b,GD1αが代償していると考えられる。一方、聴覚機能にはGM3の発現が必須であるということが分かる。

図6

図6 マウス蝸牛発達に伴うガングリオシドの組成および局在の変化

 生後から聴覚機能獲得の時期にかけて、蝸牛のガングリオシドの組成、局在が大きく変化する。蝸牛の生後発達時期の途中である生後3日(P3)ではGM3およびGT1bの抗体で蝸牛を染色すると、蝸牛全体に分布していることが分かる。音が聞こえるようになる生後14日(P14)では、両ガングリオシドの発現部位は大きく変化する。
SV (stria vascularis);血管条
SG (spiral ganglion); 螺旋神経節
OC (organ of corti);コルチ器
RM (Reisnner’s membrane);ライスネル膜

図7

図7 SAT-I ノックアウトマウスにおける聴覚機能障害の発症機序(仮説)

 蝸牛、特にコルチ器に特異的に発現し、ラフトに局在している機能分子群とガングリオシドの相互作用が、聴覚の発達や機能の維持に必須であることが予想される。現在、プロテオミクスやリピドミクスを含めたガングリオシドGM3の聴覚における機能解明に挑戦している。これらの研究成果を内耳の再生医療や難聴の診断・治療法の開発へつなげていきたい。

<用語解説>

注1)蝸牛(かぎゅう)
 内耳にある聴覚を司る感覚器官である。哺乳類では動物のカタツムリに似た巻貝状の形態をしているため、中学・高校の生物ではうずまき管と呼ばれている。蝸牛の内部は、リンパ液で満たされている。鼓膜から耳小骨を経た振動はこのリンパを介して蝸牛内部にある基底膜に伝わり、最終的に蝸牛神経を通じて中枢神経に情報を送る。蝸牛内部は渦巻く方向に沿って膜で仕切られた3つの区画、前庭階、中央階、鼓室階からなっている。このうち、前庭階と鼓室階は蝸牛管の先端にあたる頂部でつながっており、共に外リンパで満たされている。対して、中央階はイオンの能動輸送によってカリウムイオンに富んだ内リンパで満たされている。そのうえ、中央階は外リンパよりも相対的に80mVほど高い電位を保っている(参考図2)。

注2)ガングリオシド
 シアル酸を含有するスフィンゴ糖脂質をガングリオシドファミリーと呼ぶ。ガングリオシドはその中性糖鎖部分の構造によって、ガングリオ系、ラクト系、ネオラクト系、およびグロボ系に分けられる。中枢神経系にはガングリオ系ガングリオシドが多く含まれており、ガングリオシドGM3はその生合成経路で最初に作られる物質である。ガングリオ系ガングリオシドは、糖鎖部分に含まれているシアル酸の数によりGM(1つ)、GD(2つ)、GT(3つ)およびGQ(4つ)と命名されている。ガングリオシドの代表的な機能としては、神経細胞の突起進展促進効果やシナプス機能維持などの神経機能活性化作用がある。生合成経路は図1を参照。

注3)複合糖質
 糖質を構成する糖鎖は、ガラクトースやマンノース、アミノ糖などの単糖が鎖のようにつながったもので、たんぱく質や脂質と結合した複合糖質となって、人体を構成する細胞の表面にたくさん飛び出ている。糖鎖は「細胞の顔」とも言われ、細胞間のコミュニケーションをとるためのアンテナの役割をしていると考えられている。たとえば、私たちが人の顔をみて相手が誰かを見分けるように、体の中の細胞同士は表面の糖鎖によって認識し合い、そして糖鎖を介して必要な情報をやり取りする。
さまざまな複合糖質の種類:
   ◇糖鎖+たんぱく質=糖たんぱく
   ◇糖鎖+脂質=糖脂質
   ◇非常に長い糖鎖(グリコサミノグリカン)+たんぱく質=プロテオグリカン

注4)コルチ器
 音の振動を電気信号に変換する器官。蝸牛の基底膜(注1および図2)の振動はその上にあるコルチ器へと伝わり、蓋膜との間の相対的なずれによって、外有毛細胞の不動毛の束をごくわずかに曲げることになる。これによって不動毛の細胞膜にある特殊なチャネルが開閉し、内リンパからカリウムイオンが流入する。これは内有毛細胞の膜電位の数 mV ほどの変動を起こす。さらに、この変動は電位依存性のカルシウムチャネルから流入したカルシウムイオンを通じてシナプス小胞からの伝達物質の放出を引き起こし、聴神経へと情報を伝達している。

注5)ラフト(rafts)
 細胞膜には、ラフト(筏=いかだ)と呼ばれるシグナル伝達の中継を担っている微小領域(マイクロドメイン)があり、コレステロールやガングリオシドが多く含まれている。ラフトは、いくつかの性質の異なるマイクロドメインから構成されている。

<論文名>

“Mice lacking ganglioside GM3 synthase exhibit complete hearing loss due to selective degeneration of the organ of Corti”
(ガングリオシドGM3合成酵素欠損マウスはコルチ器の選択的変性による完全な聴覚障害を示す)
doi: 10.1073/pnas.0903279106

<参考文献>

参考文献1:
Ishii A, et al. (1998) Expression cloning and functional characterization of human cDNA for ganglioside GM3 synthase. J BiolChem 273(48):31652-31655.

参考文献2:
Kabayama K, et al. (2007) Dissociation of the insulin receptor and caveolin-1 complex by ganglioside GM3 in the state of insulin resistance. Proc NatlAcadSci U S A 104(34):13678-13683.

<お問い合わせ先>

井ノ口 仁一(イノクチ ジンイチ)
東北薬科大学 分子生体膜研究所 機能病態分子学教室 教授
Tel:022-727-0117 Fax:022-727-0076
E-mail:

廣田 勝己(ヒロタ カツミ)
科学技術振興機構 イノベーション推進本部 研究領域総合運営部
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