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平成21年5月15日

科学技術振興機構(JST)
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三菱化学生命科学研究所
Tel:042-724-6248(広報室)

記憶を正確に保存する神経細胞の仕組みを解明

(記憶の正確さに関わる精神疾患の治療やリハビリテーション効率の改善に期待)

 JST目的基礎研究事業の一環として、三菱化学生命科学研究所の井ノ口 馨グループリーダーらは、ラットを使った研究で、記憶関連たんぱく質が神経細胞のスイッチ素子へ正しく配達されるメカニズムを突き止め、記憶が正確に安定して保存される仕組みを発見しました。
 神経細胞にはシナプス注1)と呼ばれる神経回路のスイッチ素子が1細胞当たり数万個あり、他の神経細胞と情報のやり取りをしています。一つひとつの神経細胞は多くの記憶に関わっていますが、記憶ごとに異なるシナプスを使い分けることで、個々の記憶を混同せずに正確に保存していると考えられています。長期間保存される記憶では、その記憶に対応する特定のシナプスに細胞体から記憶関連たんぱく質が配達されることでそのシナプスの働きの変化が持続し、記憶が正しく長期間保存されると考えられます。ところが、1細胞あたり数万個存在するシナプスのうち、どのような仕組みで特定のシナプスのみに記憶関連たんぱく質を配達し、働かせているのかは分かっていませんでした。これを説明するためにシナプスタグ仮説(図1)が提唱されていますが、タグの実体が不明のうえ、本当にそういう仕組みがあるのか実証されていませんでした。
 本研究グループは、Vesl-1Sという記憶関連たんぱく質注2)緑色蛍光たんぱく質(GFP)注3)を融合させることで、神経細胞内における記憶関連たんぱく質の局在を可視化しました(図2)。この分子の挙動を解析した結果、記憶関連たんぱく質は細胞内全てに配達された後、その時に使用されていたシナプスだけに取り込まれることが明らかになり、仮説が正しいことが実証されました。さらに、シナプスタグの実体は、シナプス後部のスパイン注4)の入り口にあるゲートの開閉であることを発見しました(図2)。
 この成果により、心的外傷後ストレス障害(PTSD)治療法の開発に大きく前進するとともに、連合記憶注5)に問題がある精神疾患の治療法の開発、脳卒中などの後のリハビリテーション効率の改善、脳型記憶素子の開発など多くの応用研究が発展するものと期待されます。
 本研究成果は、2009年5月15日(米国東部時間)発行の米国科学雑誌「Science」に掲載されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 「精神・神経疾患の分子病態理解に基づく診断・治療へ向けた新技術の創出」
(研究総括:樋口 輝彦 国立精神・神経センター 総長)
研究課題名 恐怖記憶制御の分子機構の理解に基づいたPTSDの根本的予防法・治療法の創出
研究代表者 井ノ口 馨(三菱化学生命科学研究所 グループリーダー)
研究期間 平成19年10月~平成25年3月
 JSTはこの領域で、少子化・高齢化・ストレス社会を迎えた日本において社会的要請の強い認知・情動などをはじめとする高次脳機能の障害による精神・神経疾患に対して、脳科学の基礎的な知見を活用し予防・診断・治療法などにおける新技術の創出を目指すものです。上記研究課題では、動物モデルを用いて恐怖記憶の制御の分子機構を明らかにし、その知見から得られる動物モデル・トラウマ体験者・PTSD患者まで一貫した理論的根拠を基にしたPTSDの新規かつ根本的な予防法と治療法の創出を目指します。

<研究の背景と経緯>

 ある出来事を経験して記憶が形成される時、シナプスを介した神経細胞間の情報伝達効率が変化することが知られています。この変化はシナプス部にあるたんぱく質の修飾によって起こり、数分から数時間で消失します。一方、強烈な経験では長期記憶注6)が形成されますが、この時はシナプスを介した情報伝達の効率変化も数日以上にわたって維持されます。この時に細胞体で遺伝子発現の変化注7)が起き、そこで合成されたたんぱく質が樹状突起注8)を経由してシナプス部に配達されて働くことで、伝達効率が長期的に変化します。これらの記憶関連たんぱく質は、その記憶に対応した特定のシナプスだけに配達され、そのシナプスの伝達効率のみを長期的に変化させることで、長期記憶を正確に保存すると想定されます。
 ところが、1つの神経細胞には数万個のシナプスがあるため、どのような仕組みで特定のシナプスだけに配達されるのかが未解決の大きな問題でした。たとえて言うなら、東京の中央郵便局(細胞体)から北海道・稚内(特定のシナプス)宛に配達される郵便物が、沖縄や大阪には配達されずに、どのようにして稚内という目的地に正確に配達されるのかという疑問です。郵便とは異なり、たんぱく質自体には配達先情報は含まれていません。
 この疑問に対する答えの1つとして、シナプスタグ仮説が提唱されています。それによると、初めに出来事を経験した時に活動した特定のシナプスにシナプスタグと呼ばれる目印が付きます。一方、細胞体で合成された記憶関連たんぱく質はいったん全てのシナプスに輸送されますが、目印が付いたシナプスに配達されたものだけが目印に捕捉されて機能するという考えです(図1)。すなわち、郵便物は稚内にも沖縄や大阪にも配達されますが、稚内の郵便局だけがそれを開封するキーを持っているので読むことができるわけです。シナプスタグ仮説は、覚えた時と同じ内容の記憶を保持する、すなわち記憶の正確さと安定性に関わる仕組みをうまく説明していますが、この仮説が正しいかどうかは実証されていませんでしたし、その目印の実体も不明でした。

<研究の内容>

 三菱化学生命科学研究所の井ノ口 馨グループリーダーと岡田 大助 主任研究員らの研究グループは今回、世界に先駆けてこの仮説の妥当性を実証しました。長期的なシナプス変化が起きる時に、細胞体で合成される記憶関連たんぱく質の1つVesl-1Sたんぱく質にGFPを融合させたたんぱく質をモニターとして、ラット脳の海馬の神経細胞にVesl-1Sを発現させました。GFP蛍光を指標として、この融合たんぱく質の局在場所をリアルタイムで観察しました(図2)。
 その結果、(1)細胞体で合成されたたんぱく質は、まず全ての樹状突起に万遍なく輸送されること、(2)シナプスが活動していない場合は、樹状突起部に留まっていること、(3)シナプスが活動した時は、活動したシナプスのスパインだけに選択的に取り込まれること、(4)取り込みは、記憶形成に重要であることが知られているNMDA型グルタミン酸受容体注9)により調節されていること――が分かりました。これらの結果から、シナプスタグ仮説が正しいことを初めて実証しました。また、シナプスタグの実体は、樹状突起からスパインへのたんぱく質の取り込みの制御であることも判明しました(図2)。今回の発見で、記憶を正確に安定して保持するための仕組みが明らかになりました。

<今後の展開>

 シナプスタグ機構は、脳の情報処理の正確さを保証する根幹の仕組みと考えられるため、記憶の形成に限らず、脳がどのように感じ、覚え、考え、応答するのかを知るための研究に大きなインパクトを持ちます。さらに、下記のように数多くの波及効果が期待できます。

シナプスタグに生じる異常は、トラウマ記憶をそれとは無関係な種々の状況と結びつけてしまうPTSDの症状に関わると想定されるので、シナプスタグ機構を制御することによるPTSD治療法の開発への展開が期待されます。
異なる出来事の複数の特徴を1つにまとめて覚えることにより連合記憶ができますが、シナプスタグ機構は連合記憶の保持に必要と思われます。統合失調症などの精神疾患の症状には、記憶の連合が不正確になり事実と異なる組み合わせで記憶をつなぎ合わせることが原因となっていると想定されるものもあるため、シナプスタグ機構を制御する薬を開発することにより、統合失調症などの改善薬になる可能性があります。
脳卒中などで脳細胞が損傷を受けた時、生き残った他の脳部位や再生した末梢に連絡する脳部位が機能を代替することが知られています。この時、リハビリテーションで体を動かすことにより新規の機能部位でシナプス伝達の改善が起きると考えられています。シナプスタグ機構を適切に制御する方法の開発が、リハビリテーションの効率を改善するのに役立つ可能性があります。
シナプスタグ機構の制御の仕組みを記憶素子とその制御演算に応用すれば、記憶の連合をコントロールして、人間のように発想することのできる新しい脳型コンピューターなどの「考える機械」の開発へと展開できます。

<参考図>

図1

図1 シナプスタグ仮説

 ある記憶に対応するシナプスが使用されると、そのシナプス部位のスパインに目印(シナプスタグ)が付される。一方、細胞体で合成された記憶関連たんぱく質(星印)は樹状突起全体に輸送されるが、目印の付いたスパインだけで機能することができる。シナプスタグ仮説はあくまで電気生理学的な観察結果をうまく説明するための仮説にすぎず、まだ実証されていなかった。また、この図ではシナプスタグが記憶関連たんぱく質をキャッチするイメージで描いているが、タグの実体がどのようなものでものであるのかは不明であった。

図2

図2 蛍光たんぱく質の可視化

 GFP-Vesl-1S融合たんぱく質を脳海馬の神経細胞に導入し、顕微鏡下でリアルタイム観察した。シナプスが活動すると、そのシナプスのスパイン内の蛍光が増大した。これは、融合たんぱく質のスパインへの取り込みがシナプス活動により制御されていること、また、シナプスタグの実体がスパインの入り口にあるゲートの開閉であることを示している。一番右の図は、蛍光の増加分を疑似カラー表示したもの。

図3

図3 シナプスタグの実体

 細胞体で合成された記憶関連たんぱく質(黒丸)は樹状突起に運ばれるが、使用されていないシナプス部位のスパインには入れない(水色の閉じたドア)。一方、シナプスの伝達効率が代わる刺激(稲妻型矢印)を受けたシナプス部位のスパインではこのドアが開き(赤)、輸送されてきたたんぱく質がスパインの中に入れるので、シナプスに到着して機能できる。

<用語解説>

注1)シナプス
 神経細胞同士が数十ナノメーター間隔で接近した部位で、神経細胞同士の情報伝達が起きる場所である。

注2)記憶関連たんぱく質
 長期記憶が形成される時に神経細胞の細胞体で合成され、記憶の保持に関わる働きをするたんぱく質のこと。

注3)緑色蛍光たんぱく質(GFP)
 オワンクラゲが作る蛍光を発するたんぱく質。他のたんぱく質と融合させても蛍光を発する機能は変わらないので、融合たんぱく質を細胞内に導入することで、融合相手のたんぱく質の細胞内の居場所をリアルタイムで明らかにすることができる。下村 脩 ボストン大学名誉教授が発見、2008年度のノーベル賞を受賞した。

注4)スパイン
 樹状突起棘ともいう。哺乳類脳の主な興奮性シナプスでシナプス伝達の受け手側となる樹状突起にある径1ミクロン弱の突起。細胞体からシナプスに、たんぱく質などの物質を送り届けるには、樹状突起を通ってまずスパインに入り、それから突起の先端にあるシナプスに運ぶ必要がある。

注5)連合記憶
 条件反射のように本来独立した複数の刺激応答を結び合わせて記憶すること。

注6)長期記憶
 ほ乳類では一日以上続く記憶で、短期記憶とは異なり神経細胞での遺伝子の発現やたんぱく質合成を必要とする。一生続くような記憶も長期記憶の分類に入る。

注7)遺伝子発現の変化
 細胞核にある遺伝子がコードするたんぱく質のうち、一部は細胞が受ける刺激に応じて随時転写翻訳されて新しく発現する。この仕組みにより細胞は刺激に対応することができる。

注8)樹状突起
 他の神経細胞からの情報を受け取るために、神経細胞が細胞体から枝のように分岐させた突起のこと。

注9)NMDA型グルタミン酸受容体
 グルタミン酸受容体の一種。学習や記憶、さらに脳虚血に深く関わる受容体である。脳を中心に生体内に広く分布し、神経伝達物質であるグルタミン酸の結合により陽イオンを透過するイオンチャネル型受容体である。

<論文名>

“Input-specific spine entry of soma-derived Vesl-1S protein conforms to synaptic tagging”
(細胞体由来Vesl-1Sたんぱく質の入力特異的な樹状突起棘への進入はシナプスタグ仮説に合致する)
doi: 10.1126/science.1171498

<お問い合わせ先>

<研究に関すること>
井ノ口 馨(イノクチ カオル)
株式会社 三菱化学生命科学研究所 記憶形成研究グループ
〒194-8511 東京都町田市南大谷11号
Tel&Fax:042-724-6318 E-mail:

<JSTの事業に関すること>
河村 昌哉(カワムラ マサヤ)、松丸 健一(マツマル ケンイチ)
科学技術振興機構 イノベーション推進本部 研究領域総合運営部
〒102-0075 東京都千代田区三番町5番地 三番町ビル
Tel: 03-3512-3531 Fax:03-3222-2066 E-mail:

<報道担当>
科学技術振興機構 広報ポータル部
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株式会社 三菱化学生命科学研究所 研究推進センター・広報室
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