現在のSIMSでは一次イオン照射による試料分子の解離が起きるため、解離させずに検出できる分子の分子量は500~1000程度にとどまっており、このことがSIMSを生体分子へ応用するうえで大きな障害となっていました。
本研究グループは、この問題を解決するために、数百から数千に及ぶアルゴン原子から構成された巨大なアルゴンクラスターイオンを一次イオンに利用しました。アルゴンクラスターイオンの構成原子数と加速電圧を制御することにより、構成原子1個当たりの運動エネルギーを1eVまで低下させて照射し、試料分子の解離を抑制する方法を開発しました。この方法をいくつかの生体分子の薄膜試料に応用した結果、インシュリン(分子量:5,808)とチトクロームC(分子量:12,327)の試料をマトリックス化注3)せずに、これらの分子イオンを非解離状態で検出しました。
これより、SIMSを生体高分子などの非破壊計測に応用する道が開かれました。
本開発成果は、2009年1月27日(米国東部時間)に質量分析分野の米国学術雑誌「Rapid Communications in Mass Spectrometry」のオンライン速報版で公開され、後日発行の同誌にも掲載されます。
事業名 | : | 先端計測分析技術・機器開発事業/要素技術プログラム |
開発課題名 | : | 「ガスクラスターSIMS基本技術の開発」 |
チームリーダー | : | 持地 広造(兵庫県立大学 大学院工学研究科 教授) |
開発期間 | : | 平成18~21年度(予定) | 担当開発総括 | : | 高木 誠(福岡女子大学 学長) |
<開発の背景と経緯>
SIMSにおいては、試料への損傷や二次イオン収率の改善を目指して、従来の単原子イオンに代わって、BimやAunなどの金属クラスター やC60などの分子のイオンが一次イオンに利用され始めています。しかし、これらのイオンの構成原子数は10程度であるため、1原子当たりの運動エネルギーを試料分子の解離エネルギーレベル(3~5 eV)まで下げることは困難でした。このため生体分子のような大きな分子を解離させずにイオン化して脱離させることは不可能でした。本研究グループは、1イオン当たり数百から数千の構成原子数からなるガスクラスターイオンに着目し、これを一次イオンに利用したSIMSの開発を進めてきました(図1)。
<開発の内容>
開発したSIMS装置は5つの部分より構成されます(図2、3)。数気圧以上のアルゴンガスを直径0.1mmのノズルから断熱膨張させた時の冷却効果注注4))によって、構成原子数が数百から数千個に及ぶアルゴンクラスターが生成されます。これらのクラスターを電子衝撃によってイオン化した後、イオンを加速して構成原子数選別部へ送ります。ここでは、エネルギーの等しいイオンが所定距離を飛行する時間がイオンの質量で決まることを利用して、クラスターイオンの構成原子数を選別します(図4)。
この結果、加速電圧を5~10 kVに設定した場合、1原子あたりの運動エネルギーを1~20 eVの範囲で調整して試料に照射することが可能となりました。試料から放出された二次イオンは、リフレクトロン型質量分析計注5))によって計測します。このように、1原子あたりの運動エネルギーを分子の解離エネルギー以下に調整したクラスターイオンを照射することによって、インシュリン(分子量:5,808)、チトクロームC(分子量:12,327)などの生体分子イオンを解離させることなしにシャープに計測することができました(図5)。このチトクロームCの計測結果は、SIMS装置による計測において世界最高の精度です。
<今後の展開>
高い分子量を持つ生体分子の質量分析には、これまでMALDI法(マトリックス支援レーザー脱離イオン化法)が利用されてきました。しかし、この方法は試料分子をマトリクッス剤とよばれる物質に混ぜる必要があります。今回開発したSIMSでは試料のマトリックス化は必要ないので、固体や薄膜の試料をそのままの状態で計測できます。化学工業などにおける有機材料の表面分析のニーズは、ますます高まっています。さらに最近、DNAチップ注6)やバイオセンサー 注7)など生体高分子を利用したバイオデバイスの開発も盛んとなっていることから、分子レベルでのデバイスの評価が必要とされています。
今後、有機材料表面上の極微量分析やデバイス上に固定化された生体高分子の分析などに本開発方法を応用し、ライフサイエンスやバイオテクノロジー分野におけるSIMSの新しい可能性を探る予定です。
<参考図>
図1 従来の一次イオン照射方法との比較
図2 開発したSIMS装置の構成
図3 開発したSIMS装置の概観
図4 クラスター構成原子数の選別結果
図5 インシュリンおよびチトクロームCの二次イオン質量スペクトル
<用語解説>
注1) クラスターイオン
原子あるいは分子が多数寄り集まってできたクラスターをイオン化したもの。
注2) 二次イオン質量分析法
固体表面にイオンを照射し、表面から放出される二次イオンを質量分析する方法。
注3) マトリックス化
一次イオンの衝撃を和らげるための補助材と試料を混ぜ合わせること。
注4) 断熱膨張させた時の冷却効果
外界から熱の供給が無い条件で気体を膨張させると気体の温度が下がる。
注5) リフレクトロン型質量分析計
反射電場によりイオンの飛行経路を往復させて分解能を高めた質量分析計。
注6) DNAチップ
ガラスや半導体の基板の上にDNAを貼り付けたもの。
注7) バイオセンサー
たんぱく質など生物の機能を利用したセンサー。
<掲載論文名および著者名>
“Matrix-free detection of intact ions from proteins in argon-cluster SIMS”(アルゴンクラスターSIMSにおけるマトリックスフリー条件下での非解離たんぱく質イオンの検出)
doi: 10.1002/rcm.3922
Kozo Mochiji, Michihiro Hashinokuchi, Kousuke Moritani, and Noriaki Toyoda.
<参考論文>
“Extremely low energy projectiles for SIMS using size-selected gas cluster ions”(SIMS用極低エネルギー一次イオンとしてのサイズ選別型ガスクラスターイオンの利用)
doi: 10.1016/j.apsusc.2008.05.010
Kousuke Moritani, Michihiro Hashinokuchi, Jun Nakagawa, Takahiro Kashiwagi, Noriaki Toyoda, and Kozo Mochiji, Appl. Surf. Sci. 255, 948 (2008).
<お問い合わせ先>
<開発内容に関すること>
持地 広造(モチジ コウゾウ)
兵庫県立大学 大学院工学研究科 教授
〒671-2280 兵庫県姫路市書写2167
Tel:079-267-4924 Fax:079-267-4924
E-mail:
安藤 利夫(アンドウ トシオ)
科学技術振興機構 先端計測技術推進部
〒102-0075 東京都千代田区三番町5番地
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