ピロリ菌の胃粘膜への持続感染は、胃・十二指腸潰瘍、胃がんなどの胃関連疾病との疫学的関連性が指摘されています。日本は世界でも有数の胃がん大国ですが、その原因としてピロリ菌の感染率の高いことが挙げられています。ピロリ菌感染による疾病発症の危険因子として、ピロリ菌が分泌するCagAたんぱく質が最も重要であると考えられています。CagAは胃上皮細胞内でチロシンリン酸化注2)を受け、そのリン酸化されたCagAは細胞増殖や細胞運動、細胞死抑制など多様な細胞応答を引き起こすことが報告されています。しかし、非リン酸化状態のCagAが持つ生物活性および菌感染における役割についてはこれまで不明でした。
本研究では、CagAはリン酸化とは関係なく肝細胞増殖因子受容体Met注3)と結合し、PI3K/Akt経路注4)を活性化することにより、β-カテニン注5)およびNF-κB注6)の活性化など胃がん発症に関わる細胞増殖と炎症促進のシグナルを引き起こすことを明らかにしました。このCagAのリン酸化非依存的な活性に関わるアミノ酸配列(活性部位)に変異を導入したピロリ菌は、スナネズミ注7)の胃粘膜に対する定着能と炎症誘導能が低下しました。また、CagAの同活性部位に由来する合成ペプチド注8)を細胞内に導入すると、CagAによる発がんシグナルが著しく抑制されました。このことから、非リン酸化状態のCagAは宿主のシグナル伝達系を撹乱することで、胃粘膜でのピロリ菌の持続感染を促進し、胃がん発症に関わる細胞増殖と炎症反応を引き起こすことが分かりました。本成果はピロリ菌感染症に対する新たな治療薬やワクチン開発につながるものと期待されます。
本研究成果は、2009年1月22日(米国東部時間)発行の米国科学雑誌「Cell Host and Microbe」に掲載されます。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 | : | 「免疫難病・感染症等の先進医療技術」 (研究総括:岸本 忠三 大阪大学 大学院生命機能研究科 教授) |
研究課題名 | : | 「病原細菌の粘膜感染と宿主免疫抑制機構の解明とその応用」 |
研究代表者 | : | 笹川 千尋(東京大学医科学研究所 教授) |
研究期間 | : | 平成15~20年度 |
<研究の背景と経過>
ピロリ菌は世界人口の約半数が感染しており、日本でも50代以上の半数以上が感染しています。ピロリ菌の胃粘膜への持続感染は、胃炎や胃・十二指腸潰瘍を引き起こし、胃粘膜関連リンパ組織リンパ腫(胃MALTリンパ腫)や胃がんの発症リスクを高めることが疫学的に指摘されています。世界保健機関(WHO)の外部組織である国際がん研究機関(IARC)の発表する発がん性リスク一覧では、ピロリ菌は喫煙と同じグループ(発がん性有り)に分類されています。日本は世界でも有数の胃がん大国ですが、その原因としてピロリ菌の感染率の高いことが挙げられています。
経口的にヒト体内に侵入したピロリ菌は、胃酸を中和し、胃粘膜の上皮細胞に付着して増殖します。ピロリ菌感染による疾病発症の危険因子として、ピロリ菌が分泌する病原因子CagAが最も重要であると考えられています。CagAは、ピロリ菌が持つ特殊なたんぱく質分泌装置(IV型分泌装置)を介して、菌体から宿主細胞内に直接注入されます。CagAは胃上皮細胞内でチロシンリン酸化を受け、そのリン酸化されたCagAは細胞増殖や細胞運動、細胞死抑制など多様な細胞応答を引き起こすことが報告されています。しかし、非リン酸化状態のCagAが持つ生物活性および菌感染における役割については、これまで不明でした。
<研究の内容>
CagA陽性のピロリ菌が感染した胃上皮細胞では、本来細胞-細胞間の接着部位に存在しているβ-カテニンが高頻度に核内に移行します。核内では、β-カテニンがTCF/LEF転写因子の活性化補助因子として働くことで、サイクリンD1やc-Mycなど発がん関連遺伝子の転写を促進します(図1)。本研究では最初に、CagAによるβ-カテニンの活性化にCagAのリン酸化が必要ではないこと、CagAによるリン酸化非依存的なPI3K/Akt経路の活性化が重要であることを明らかにしました(図2)。
次に、CagAのリン酸化非依存的な活性を司る責任部位(活性部位)を同定するため、β-カテニンの活性を指標に、種々のCagA変異体を精査しました。その結果、CagAの同活性を担うのに重要なCRPIA(conserved repeat responsible for phosphorylation-independent activity)配列を同定しました(図3)。CRPIA配列によるβ-カテニンの活性化機構に関してさまざまな生化学的・分子生物学的検討を進めた結果、CagAは同配列を介して肝細胞増殖因子受容体Metと結合し、PI3K/Akt経路を活性化することにより、その下流のβ-カテニンとNF-κBの活性化など、胃がん発症に関わる細胞増殖と炎症促進のシグナルを引き起こすことを明らかにしました(図4)。
CRPIA配列(活性部位)にloss-of-function変異を持つCagAを発現するピロリ菌は、スナネズミの胃粘膜に対する定着能が野生型のCagAを発現するピロリ菌に比べて低く、PI3K/Akt経路を介したIL-8、RANTESなどの炎症性サイトカインの産生誘導能も顕著に低下していました(図5)。また、CRPIA配列に由来する合成ペプチドを作製し、それがCagAと活性化Metの結合を阻害できることを確認しました。同ペプチドを細胞内に導入すると、NF-κBの活性化などCagAによる発がんシグナルが著しく抑制されました。
この結果から、ピロリ菌の病原因子が宿主のシグナル伝達系を攪乱することで、胃粘膜における菌の持続感染を促進し、胃がん発症に関わる細胞増殖と炎症反応を慢性的に引き起こす新たな感染戦略が明らかとなりました(図6)。
<今後の展開>
現在のピロリ菌感染症の治療は、3剤併用療法とよばれる抗菌治療が標準となっていますが、臨床分離されるピロリ菌の薬剤耐性化は年々進んでおり、従来の抗菌剤による除菌とは異なる新しい治療法の開発が求められています。本研究では、ピロリ菌の主要な病原因子であるCagAが胃がん発症に関わる細胞内シグナルを活性化するための新たなメカニズムを明らかにしました。日本で臨床分離されるピロリ菌はほぼ全てCagA陽性であり、CagA陽性のピロリ菌は陰性のピロリ菌よりも胃がん発症リスクが高いことが疫学的に証明されています。本研究では、人工的に合成したペプチドを添加することによって、CagAによる多様な発がんシグナルを抑制することにも成功しました。本成果は、CagAを標的にしたピロリ菌感染症に対する治療薬やワクチン開発につながるものと期待されます。
<参考図>
図1 CagAは胃上皮細胞のβ-カテニンを活性化する
図2 CagAは胃上皮細胞のPI3K/Akt経路を活性化する
図3 種々のピロリ菌株に保存されたCagAのCRPIA配列(緑)とリン酸化配列(赤)
図4 CagAのCRPIA配列は胃上皮細胞のMetを標的にする
図5 CagAのCRPIA配列はピロリ菌の病原性に重要である
図6 本研究によって発見されたピロリ菌のCagAによる胃発がんメカニズム
<用語解説>
注1)CagA
ピロリ菌が分泌する病原たんぱく質。CagAは、本菌の有する特殊なたんぱく質分泌装置(IV型分泌装置)を介して、菌体から宿主細胞内に直接注入されます。日本で臨床分離されるピロリ菌はほぼ全てCagA陽性であり、CagA陽性のピロリ菌株は陰性のピロリ菌株よりも胃がん発症のリスクが高いことが疫学的に証明されています。
注2)リン酸化
キナーゼ(リン酸基転移酵素)の触媒作用によって起こされる化学修飾。CagAに存在する複数のリン酸化配列のチロシン残基は、宿主のチロシンキナーゼによってリン酸化されます。たんぱく質のリン酸化修飾は細胞内シグナル伝達にとって非常に重要であるため、これまで多くのピロリ菌の研究はCagAのリン酸化を中心に行われてきました。
注3)Met
肝細胞増殖因子(HGF)の受容体であるチロシンキナーゼ。HGF/Met経路が活性化すると多様な細胞増殖シグナルが引き起こされます。ある種の胃がん細胞では、Metの過剰産生あるいはMetの突然変異が起きていることが報告されています。これまでCagAの機能は、活性化Metの機能と非常によく似ていることが指摘されてきました。
注4)PI3K/Akt経路(phosphoinositide 3-kinase/Akt経路)
PI3Kはイノシトールリン脂質のイノシトール環3位のヒドロキシル基のリン酸化を行うリン脂質キナーゼ、AktはPI3Kによって活性化されるセリン/スレオニンキナーゼ。PI3K/Akt経路が活性化すると多様な細胞増殖シグナルが惹起されます。多くのがん細胞でこの経路が異常活性化していることが報告されています。
注5)β-カテニン
細胞増殖に関わるTCF/LEF転写因子の活性化補助因子。通常の上皮細胞では、細胞-細胞間の接着部位に存在していますが、Wntたんぱく質など発がん性の刺激によって高頻度に核内に移行し、サイクリンD1、c-Mycなど発がん関連遺伝子の転写を促進します。
注6)NF-κB
炎症・免疫反応を司る転写因子。病原体の感染に応答して活性化し、炎症性サイトカインであるIL-8、RANTESなどさまざまな免疫関連遺伝子の転写を促進します。発がんにも深く関係しており、多くのがん細胞では、恒常的な活性化を受けていることが報告されています。
注7)スナネズミ(Mongolian gerbil)
ピロリ菌の感染に用いる動物。ヒトから分離されたピロリ菌は、通常の実験で用いるマウスには持続感染できません。スナネズミに対するピロリ菌の経口投与は日本で開発されたピロリ菌感染症の動物モデルで、本菌の病原性を実験的に評価することが可能です。
注8)合成ペプチド
人工的に作られた短いアミノ酸鎖。本研究では、CagAの活性化Metとの結合に重要なCRPIA配列に由来する合成ペプチドを作製しました。この合成ペプチドは、CagAと活性化Metの結合を阻害し、CagAによる多様な発がんシグナルを抑制する阻害剤として使用しました。
<論文名>
“Helicobacter pylori CagA Phosphorylation-Independent Function in Epithelial Proliferation and Inflammation”
(ピロリ菌CagAのリン酸化非依存的な細胞増殖および炎症促進作用)
doi: 10.1016/j.chom.2008.11.010
<お問い合わせ先>
笹川 千尋 (ササカワ チヒロ)
東京大学医科学研究所 細菌感染分野
〒108-8639 東京都港区白金台4-6-1
Tel:03-5449-5252
E-mail:
瀬谷 元秀(セヤ モトヒデ)
科学技術振興機構 戦略的創造事業本部 研究領域総合運営部
〒102-0075 東京都千代田区三番町5番地 三番町ビル
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