量子コンピューター注2)を実現するための第一歩は、量子情報を納めているスピン状態を完全に制御する技術を確立することです。このスピン制御技術には3つの要素があり、スピン状態の初期化(古い情報の消去)、スピンの回転(新しい情報の書き込み)、そしてスピン状態の検出(情報の読み出し)です。従来、このスピンの制御には、2つのスピン準位間(基底状態と励起状態)のエネルギー差に対応した1~10GHzのマイクロ波のパルスを用いた電子スピン共鳴法注3)と呼ばれる手法が用いられてきました。この方法では、スピン制御に要する時間が数ナノ秒~数十ナノ秒(1ナノ秒=10-9秒)以上にもなります。このため、スピンに納められている量子情報が消失してしまう前に行える最大の演算回数が1,000回以下に制限されてしまいます。このことが量子コンピューターを実現する上での大きな障害になっていました。
本研究グループは、マイクロ波の代わりに周波数が5桁も高い光波のパルスを用いることにより、1ピコ秒~10ピコ秒(1ピコ秒=10-12秒)という短い時間でスピンを制御することに成功しました。この方法を用いれば、超高速でスピン制御ができるだけではなく、個々のスピンに独立して光パルスを照射することで、同時に個別スピンを制御することが可能になり、大規模な量子コンピューターを構築していくうえで、有利な道が開けるものと期待されます。
本研究成果は、平成20年11月13日(英国時間)発行の英国科学雑誌「Nature」に掲載されるとともに、同年11月25日(火)から28日(金)まで奈良県新公会堂(奈良市)で開催される「国際シンポジウム -量子技術に関する物理-(2008 International Symposium on Physics of Quantum Technology)」(実行委員長 山本 喜久 教授)にて発表されます。国際シンポジウムの概要については、別紙を参照してください。
戦略的創造研究推進事業 発展研究(SORST) 物理・情報分野
研究課題名 | : | 「光を用いた量子情報システムの研究」 |
研究者 | : | 山本 喜久 (情報・システム研究機構 国立情報学研究所 教授/スタンフォード大学 教授) |
研究期間 | : | 平成15~20年度 |
<研究の背景>
量子コンピューターを実現するためには、量子情報を保存するスピンもしくは擬スピン(2準位原子など)を自由に制御する技術を開発しなければなりません。そのために、例えば、ジョセフソン素子注4)や電子スピンを用いた量子コンピューターに対しては、2準位間のエネルギー差に共鳴するマイクロ波が用いられてきました。また、原子や分子、イオンを用いた量子コンピューターに対しては、狭帯域の2本のレーザー光が用いられてきました。いずれの方法でも、スピン制御には数ナノ秒~数十ナノ秒以上の時間を必要とします。スピンに保存された量子情報は、通常1マイクロ秒~10マイクロ秒(1マイクロ秒=10-6秒)のデコヒーレンス時間注5)で失われてしまいます。従ってこの場合、量子情報が消失してしまう前にできる演算の最大回数は1,000回以下に制限されます。これが量子コンピューターを実現する上での最大の障害でした。山本教授らのグループは昨年、この問題を解決する方法として、量子ドットと呼ばれる半導体ナノ構造(直径20ナノメートル、厚さ2ナノメートル程度の薄い半導体ディスク素子)に閉じ込められた電子スピンを1ピコ秒程度の光パルスで直接制御するアイデアと原理を提案しました [S. M. Clark, K. C. Fu, T. Ladd, and Y. Yamamoto, Phys. Rev. Lett. 99, 040501 (2007)]。
<研究の内容>
今回の実験は、このアイデアを実証したものです。まず、GaAs結晶中に埋め込まれたInGaAs量子ドットに、電子を1つだけトラップします。この素子を7テスラの直流磁場中に置くと、ゼーマン効果注6)により、電子スピンのエネルギー状態(準位)はエネルギー差が26GHzとなる基底状態と励起状態に分裂します。この系には、電子スピンの基底状態からおよそ300THz(1.5eV)だけ高いエネルギー側に第3のエネルギー状態(励起子状態:電子2個とホール1個からなる複合体)が存在します。実験では、まずこの電子スピンの励起状態と励起子状態に共鳴した3ナノ秒程度の光パルスを照射し、電子スピンを基底状態に初期化することに92%の確率で成功しました(図1)。次に、電子スピンの基底状態と励起子状態間のエネルギー差(300THz)よりも1THzほど小さいエネルギーの光子からなる1ピコ秒程度の時間幅を持った光パルスを照射して、電子スピンを回転させました(図2)。電子スピンを90°、もしくは180°回転させるπ/2パルス、πパルスの実現にそれぞれ94%、91%の確率で成功しました。光パルスによるスピンの制御性を評価するために、2つのπ/2パルス光を時間τだけ離して照射し、電子スピンの状態を測定するラムゼー干渉注7)と呼ばれる実験を行いました。電子スピンの測定は図1に示した初期化と同じ方法を用いて実現できます。結果は、図3に示すように理論的予測によく一致し、この超高速のスピン制御法が正しく動作していることが確認されました。
<今後の展開>
本研究成果により、電子スピンの状態は、極短光パルスを用いて1ピコ秒から10ピコ秒程度のゲート時間で自由に制御できることが実証できました。一方、電子スピンのデコヒーレンス時間の測定値は、これまで1~10マイクロ秒程度の値が報告されています。しかし、本研究グループは最近、電子スピンのデコヒーレンス時間(スピン緩和時間)は、理論的には10ミリ秒程度と非常に長いことを発見しました [K. C. Fu, W. Yao, S. Clark, C. Santori, C. Stanley, M. C. Holland, and Y. Yamamoto, Phys. Rev. B74, R121304 (2006)]。
今回、開発に成功した光パルスを用いたスピン制御技術を用いれば、このデコヒーレンス時間の理論限界値を達成できる可能性があります。これが実現されるとすれば、デコヒーレンス時間内に10億回もの演算を行うことができ、量子コンピューター実現の上での大きな障害が取り除かれることになります。
<参考図>
図1 光ポンピングによる電子スピンの初期化と測定
図2 光パルスによる電子スピンの回転
図3 電子スピンのラムゼー干渉パターン
<用語解説>
注1)電子スピン
電子は右回りか左回りに自転しており、これにより上向きか下向きに磁場が発生します。前者をアップスピン、後者をダウンスピンといいます。
注2)量子コンピューター
量子力学の線形重ね合わせ状態を用いれば、これまでは計算が困難であるとされてきた問題を解くことが可能であると数学的に証明されています。これをどのようにして実現するかについて世界各国で研究開発が行われています。
注3)電子スピン共鳴法
電子のゼーマン分裂周波数(基底状態と励起状態のエネルギー差に相当する電磁波の周波数)に共鳴したマイクロ波を照射すると、電子スピンはマイクロ波の振動(磁場)の方向を回転軸として回転を始めます。この現象を利用して電子スピンの状態を制御する方法をいいます。
注4)ジョセフソン素子
超伝導体を薄い絶縁膜で挟んだトンネル接合をいいます。非線形なインダクタンス素子として振る舞い、様々な目的に応用されていますが、量子コンピューターを構成する素子としても研究開発が行われています。
注5)デコヒーレンス時間
スピンに保存された量子情報が消失してしまう時間のスケールです。基底状態と励起子状態の間の位相関係が外部からの擾乱により乱されることにより起こります。
注6)ゼーマン効果
電子を直流磁場中に置くと、アップスピンとダウンスピンは異なった磁気エネルギーを獲得し、エネルギー差が生じます。これをゼーマン効果といいます。
注7)ラムゼー干渉
2準位原子やゼーマン分裂した電子スピンを、第1のπ/2パルスで基底状態と励起状態の線形重ね合わせ状態に準備します。基底状態と励起状態は異なったエネルギーを持つため、2つの状態間の位相はその後時間の経過と共に周期的に回転します。そのため、第2のπ/2パルスを照射する時刻を変化させると、最終状態は基底状態と励起状態の間を周期的に変動します。この現象をラムゼー干渉といいます。
<論文名>
"Complete quantum control of a single quantum dot spin using ultrafast optical pulses"
(極短光パルスを用いた単一量子ドットスピンの完全な量子制御)
doi: 10.1038/nature07530
<お問い合わせ先>
<研究に関すること>
山本 喜久(ヤマモト ヨシヒサ)、Timothy Byrnes(ティモシー・バーンズ)
情報・システム研究機構 国立情報学研究所 情報学プリンシプル研究系
〒101-8430 東京都千代田区一ツ橋2-1-2
Tel:03-4212-2506 Fax:03-4212-2641
E-mail:(山本)、(Timothy)
内田 信裕(ウチダ ノブヒロ)
科学技術振興機構 戦略的創造事業本部 研究推進部
〒102-0075 東京都千代田区三番町5番地 三番町ビル
Tel:03-3512-3526 Fax:03-3222-2065
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