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平成20年7月12日

科学技術振興機構(JST)
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大阪大学
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量子符号化を用いた「量子もつれ」光子対の配信実験に成功

(現実の雑音環境での量子テレポーテーションや量子計算に道)

 JST基礎研究事業の一環として、大阪大学 大学院基礎工学研究科の井元 信之 教授らは、量子通信・量子計算注1)の新しいノイズキャンセリング手法を開発し、これを利用して量子情報処理注2)のキーコンセプトである「量子もつれ注3)」光子対を光ファイバーの自然雑音のもとで安定して供給する実験に成功しました。
 光子などの量子物理系を用いて情報を量子レベルで処理すると、非常に高いセキュリティを持つ通信(量子暗号注4))や超高速演算(量子計算)が可能になることが知られています。ただ、そのような量子レベルの信号は環境からの雑音に対して非常に弱く、現実の条件下ではすぐに壊れてしまいます。しかし、量子物理系を拡大すると、その中に雑音の影響を受けにくい部分(デコヒーレンスフリー部分空間=DFS=注5))が出現することが数学的には分かっており、そのDFSに量子情報を書き込む手法の物理的実現が待たれていました。
 本研究グループは、1光子の量子情報を、2光子のDFSの量子状態に変換(符号化)する新しい手法を考案・開発し、これを用いて、光ファイバー伝送中の雑音の影響を抑えて量子もつれ状態を配信することに成功しました。
 具体的には、1光子の量子情報から光パラメトリック変換注6)を利用して発生させた量子もつれ光子対のうち一方を、この変換(符号化)手法を利用して雑音のある光ファイバー中を伝送した後、量子もつれ光子対の性質を調べました。その結果、最大の量子もつれ状態との忠実度注7)が0.87という強い量子もつれ光子対を確認しました。
 DFSの利用は、壊れやすい量子情報を保護するための手法であり、通信だけでなく量子メモリーや精密計測などへの応用が期待されています。本研究によって、DFSが量子もつれ状態に対しても有効であることが実証され、現実環境では壊れてしまう量子情報の弱点を克服する一歩を踏み出しました。そして本研究成果は、高いセキュリティを持つ通信や超高速演算を提供する量子情報処理の実用化に役立つと期待しています。今後は通信波長帯での実現に向けた改良や、量子暗号通信や量子テレポーテーション注8)への応用を考えています。
 本研究成果は、2008年7月11日(米国東部時間)に米国科学誌「Nature Photonics」のオンライン速報版で公開されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 「量子情報処理システムの実現を目指した新技術の創出」
(研究総括:山本 喜久 情報システム研究機構 国立情報学研究所 量子コンピューティング研究部門 教授/スタンフォード大学 応用物理・電気工学科 教授)
研究課題名 「光子を用いた量子演算処理新機能の開拓」
研究代表者 井元 信之(大阪大学 大学院基礎工学研究科 教授)
研究期間 平成15~20年度
 JSTはこの領域で、情報通信技術に革新をもたらす量子情報処理の実現に向けた技術基盤の構築を目指しています。上記研究課題では、光子を用いた量子情報処理を基本ゲートから機能的タスクまで実現することを目標とし、実験および理論の両面から追及しています。

<研究の背景と経緯>

 量子力学の原理を利用すると、これまで事実上不可能であった複雑な計算(量子コンピューティング)や究極のプライバシー通信(量子暗号)などの新しい情報処理が可能になります。ところが、このような量子情報処理を行う基本単位である量子ビット注9)の状態や「量子もつれ」状態は容易に環境雑音の影響を受け、現実にはすぐ壊れてしまいます。そのため、このような雑音の影響を回避しつつ量子状態を忠実にメモリーに保存したり、別の場所に送ったりすることは、量子情報処理実用化のための最も根本的な課題でした。
 そこで理論研究として、雑音耐性のある量子状態の構造に関する研究が行われてきました。その結果、複数量子ビットの状態の中には雑音に強いものと弱いものがあることが分かってきました。雑音に強い状態をまとめて「デコヒーレンスフリー部分空間(DFS)」と呼んでいます。そこでDFSを物理的に実現し量子状態をそこへ書き込み読み出す実験が、光子や液中の分子、トラップされたイオンなどを用いて試みられてきました。しかし、DFSの量子状態は複雑なため、これまで書き込み書き出しができているのは「あらかじめ分かっている特定の量子状態」に対してのみでした(図1の「従来までの方法」)。これでは古典情報と何ら変わらず、使い物になりません。
 量子情報処理として使うには、量子もつれも含めた任意の状態でこの「DFS利用量子符号化」実験を行う必要があり(図1の「新しい方法」)、それにより初めて長距離量子暗号や量子テレポーテーションへの応用が可能となります。これまでのところ分子やイオンなどでは、それに必要な制御性を達成できていません。一方光はよい制御性を有しますが、光同士の制御を行おうとすると、現在実現されているものよりはるかに強い非線形光学効果が必要になるため、これもできていません。強い非線形光学効果の使用を避ける方法としては、光同士は線形相互作用の範囲にとどめ、光子の検出に伴って現れる非線形性を利用する方法が考えられます。これは線形光学量子演算と呼ばれますが、これもどのようにDFS利用量子符号化に使えばよいか、あるいはそれが可能かどうかすら分かっていませんでした。結局、量子もつれ状態まで含んだ任意の量子状態をDFS利用量子符号化実験で保護することは、どんな方法でもこれまで実現されておらず、その実証が強く求められていました。

<研究の内容>

 本研究グループは、もつれた状態を含めた任意の量子ビット状態のDFS利用量子符号化復号化を初めて実験的に実証しました。これは井元 信之 教授の元で、山本 俊 助教および小芦 雅斗 准教授が量子パリティゲート(線形光学量子演算の1つ)注10)を用いたDFS利用量子符号化法を独自の発想に基づき発見したことによるものです。きっかけは、45度偏光の光子を量子パリティゲートに入力した場合、もう一方の入力光子がどのような偏光状態であってもDFS状態に符号化できる性質に気がついたことでした。また、正しく符号化された部分の抽出と復号化を同時に行うことで、非線形光学効果を使わずに実現可能な通信方法にすることができました。
 このアイデアをもとに、林 浩大 大学院生、Sahin Kaya Ozdemir 研究員とともに図2のような光学システムを構築しました。井元教授の研究室で開発した世界屈指の偏光量子もつれ光子対発生技術を用いて、発生させた強い量子もつれを持つ光子対の一方を光ファイバーで送信します。その際に、光子の偏光状態は光ファイバー中の雑音によって乱されます。まずはそれを観察し、実際に量子もつれが非常に弱くなってしまうことを確認しました。次に、符号化のための別の光子を用意して、発案した量子符号化機構および復号化を用い、DFSによって量子状態を保護し、DFSへの量子符号化による量子もつれ配信実験に初めて成功しました。配信後の光子対について、最大量子もつれ状態との忠実度を測定したところ、0.87という強い量子もつれが達成されていることが分かりました(図3)。

<今後の展開>

 現実の環境で雑音自体は避けられないため、雑音の影響をできる限り除くことは、今後の量子情報処理の実用化に向けて非常に重要になると考えられます。本方法による簡単なDFS実現法は、そのための強力な手段になると予想されます。本研究成果は、量子もつれ配信におけるDFSの有用性を初めて示したものですが、今後は通信波長帯での実証や不可避雑音のもとでの量子テレポーテーション、量子もつれ利用量子暗号、量子メモリーといった幅広い応用が期待されます。

<参考図>

図1

図1 従来法と新しい方法の相違

 従来法では古典的な情報を用いてDFS状態を直接発生させる方法であったため、量子もつれ状態を成す光子を保護することができませんでした。本研究では、状態に依存しない符号化方法を利用しているので量子もつれを保護することが可能になりました。

図2

図2 実験装置

 光パラメトリック変換を利用して発生させた量子もつれ光子対の一方を、DFSに符号化するための補助光子と一緒に、光ファイバーを通して送信します。単に補助光子を追加しただけですが、この2光子は符号化された状態とそうでない状態とが混在した状態と見なせることがポイントです。受信側では、正しく符号化された部分の抽出と、1光子状態への復号化のふたつの手続きを、量子パリティゲートを用いて同時に行います。このようにして抽出された光子は、途中の光ファイバーにおける雑音の影響から保護されており、送信者の持つ光子との間に強い量子もつれを持ちます。

図3
図3

図3 光子対の偏光状態の密度行列表示(実部)

 送信側で発生した光子対は非常に強い量子もつれを持ち、特徴的な非対角項が大きく現れています。DFSを使わない場合は送信後に光子対の量子もつれが壊れてしまっていますが、DFSを使うと量子もつれが保護され、非対角項が大きく現れていることが分かります。

<用語解説>

注1)量子計算
 量子もつれにある量子ビットは、爆発的に多数の数になる場合でも、それほど多くない数の量子ビットで表すことができます。これを利用して複雑な計算を並列処理するのが量子計算です。ある種の問題を解く際に、原理的に従来のコンピューターをはるかにしのぐ性能が得られます。特に公開鍵暗号を破る力があるとされています。

注2)量子情報処理
 量子力学の不思議な性質を利用して古典的にはできない情報処理を行うこと。不思議な性質とは、主に重ね合わせ状態と観測による量子ジャンプ、および、量子もつれを指します。量子計算、量子暗号(注4参照)、量子テレポーテーション(注8参照)などが含まれます。

注3)量子もつれ
 複数量子ビット間の量子力学的な相関で、エンタングルメント(entanglement)の略語。例えば、量子もつれ状態にある2つの光子の場合、片方の状態が決まると、もう一方の状態もそれに応じて決まり、その関係は光子間の距離に依存しないといった特異な性質があります。量子情報処理において、情報伝達、高速(効率)演算、セキュリティなど、ほぼ全ての応用においてリソースとしての重要な役割を果たしています。

注4)量子暗号
 「量子力学的信号は傷つけずに覗くことができない」という原理を用いて、送られた乱数表についた傷はすべて盗聴行為によるものと仮定し、乱数表を縮めて傷を直したものを秘密鍵暗号の鍵とする暗号方式。量子暗号は量子計算ができても破られません。量子もつれは、短距離では必ずしも必要ありませんが、長距離では制御が必要になります。

注5)デコヒーレンスフリー部分空間(DFS)
 多量子ビットの全状態空間のなかで、各量子ビットが同じ揺らぎを受ける場合に、その量子状態が不変な部分空間。実際によく起こる雑音がこれに対応するため、DFSに含まれる量子状態は雑音に強いものです。

注6)光パラメトリック変換
 非線形光学効果を利用した波長変換技術の1つ。強いレーザー光を用いて非線形光学結晶を励起することで、エネルギーおよび運動量保存則を満たした、励起光よりも低い周波数の光を発生します。本研究では発生する2つの光の周波数が等しい場合を利用して、偏光状態の量子もつれ光子対を発生させています。

注7)忠実度
 ある量子状態と別の量子状態の近さを表す指標。同一の量子状態の場合には忠実度は1となり、直交する場合には0になります。本研究では最大の量子もつれ状態と実験で得た量子もつれ状態の忠実度を表しました。忠実度が0.5を超えていれば量子もつれ状態といえます。

注8)量子テレポーテーション
 「量子状態を含めた物質の状態の情報」を古典的通信のみで送ること。ただし、準備として量子もつれを持つ量子ビット対を送信地点と受信地点に配布しておくこと、また、完全なテレポーテーションには完全な量子もつれがリソースとして必要です。

注9)量子ビット
 量子演算を行う情報の最小単位で、デジタル信号の1ビット(0または1)と異なり、0と1の重ね合わせ状態(例えば、0が30%で、1が70%という確率情報)をとり得る物理的実体により構成されます。光子の偏光の他、光子の位置や位相、電子の位置、電子スピン、核スピン、二準位原子・分子、超伝導電流の方向などで実現されます。

注10)量子パリティゲート
 量子ビットが2つ入力される場合に、それらのビット値が同じかどうかを見分ける量子ゲート。すなわち|0〉と|0〉(または|1)と|1))なら「同じ」と答え、|0〉と|1〉(または|1)と|0))なら「違う」と答えます。しかし、個々のビット値が|0〉か|1〉かを測定しないのが特徴で、これにより入力の状態からDFSに含まれる状態を取り出すのに利用できます。

<論文名>

"Robust photonic entanglement distribution via state-independent encoding onto decoherence-free subspace"
 (デコヒーレンスのない部分空間への任意状態符号化法を用いた量子もつれ光子対の耐雑音伝送)
doi: 10.1038/nphoton.2008.130

<お問い合わせ先>

<研究に関すること>
井元 信之(イモト ノブユキ)
大阪大学 大学院基礎工学研究科 教授
〒560-8531大阪府豊中市待兼山町1-3
Tel:06-6850-6445 Fax:06-6850-6445
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<JSTの事業に関すること>
瀬谷 元秀(セヤ モトヒデ)
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