平成14年5月15日

生物の“腹”と“背”を分けるメカニズムの一端を解明
― 体軸形成を担うカルシウムシグナルの標的遺伝子を発見 ―

理化学研究所
科学技術振興事業団

 理化学研究所(小林俊一理事長)と科学技術振興事業団(沖村憲樹理事長)は、東京大学と共同で、生物の初期発生時において“腹”と“背”を決める情報伝達に使われるカルシウムシグナルのメカニズムの一端を明らかにしました。理研脳科学総合研究センター(伊藤正男所長)発生神経生物研究チームの御子柴克彦チームリーダー(東京大学医科学研究所教授)、実吉岳郎研究員らによる研究成果です。

 生物の初期発生において、腹と背を分ける体軸の形成は、背側に神経管が発達するなど一つの受精卵が細胞集団を作り上げていく上で重要な役割を果たしています。研究グループでは今回、免疫系に関与するカルシウム依存性転写調節因子※1「NF-AT」にカルシウムシグナルが作用することによって、腹側化※2シグナルとして働くことを明らかにするとともに、NF-ATが、背側化と関連するGSK-3βと呼ばれる酵素に作用し、腹側化を促すことを見いだしました。このGSK-3βは、脳の老化との関連が指摘されています。

本成果は、初期発生におけるカルシウムシグナルの働きが、免疫反応や老化などを含む基本的な生命現象のメカニズムと深く関与することを初めて明らかにするだけでなく、薬剤や環境ホルモンなどの物質がカルシウムシグナルに与える影響を解明することにより、形態異常に関する新しい知見が得られることが期待されるなど、臨床医学的にも大きな貢献が期待されるものです。

 本研究成果は、科学技術振興事業団の創造科学技術推進事業「御子柴細胞制御プロジェクト(代表研究者:御子柴克彦)」および国際共同研究事業「カルシウム振動プロジェクト(代表研究者:御子柴克彦)」の一環として得られたものであり、英国の科学雑誌『nature』(5月16日号)に掲載されます。

背 景

Ca2+シグナルは、細胞内Ca2+濃度の一過的上昇、持続的上昇、Ca2+濃度の上昇と降下を繰り返すCa2+振動など多様な濃度変化の様式を持ち、その違いを利用し細胞内情報伝達に重要な役割を果たしています。一方、躁鬱(そううつ)病の治療薬であるリチウムを、生物の初期発生時に作用させると背側活性を持つことが古くから知られています。しかし、リチウムの背側化活性の作用メカニズムは、発生生物学者の長い間の謎でした。理研脳科学総合研究センター発生・神経研究チームでは、モデル動物を用いた機能喪失実験による解析手法を用いて、リチウムの作用点の一つであるイノシトール代謝回転経路の、中でも特に脳の生理活性と強く関係すると考えられている「イノシトール1,4,5三リン酸(IP3)」およびその受容体(IP3R)とカルシウムシグナルについて研究を行ってきました。研究の結果、IP3Rに対する特異的機能阻害抗体を用いて、将来の腹側でIP3Rの機能を阻害すると腹側の細胞運命が背側に運命変換することを見いだしました(図1-①)。

この成果は、IP3-Ca2+シグナルが腹側のシグナルとして働くことを示すもので、研究チームの粂昭苑研究員によって米国の科学雑誌『サイエンス』に発表されました(Kume et al., 1997)。この結果によって、“初期胚には背腹軸に沿ったIP3-Ca2+の勾配があるかどうかの問題”、“IP3-Ca2+シグナル伝達系の上流及び下流で働く分子の実体は何かについての問題”、そして“他の腹側化、あるいは背側化因子との関係、相互作用の問題”などの解明が待たれています。

研究成果と手法

Ca2+シグナルは、先に述べたように多様な濃度変化の様式を持ち、複数の転写調節因子がCa2+振動の頻度の違いをそれぞれの活性の使い分けに利用していることが分かっています。このようなCa2+シグナルの働きを解読しうる転写調節因子の一つ「nuclear factor of activated T-cell(NF-AT)」は、Ca2+/カルモデュリン(CaM)依存性脱リン酸化酵素のカルシニューリン(Cn)の制御を受ける転写調節因子です。Cn/NF-AT経路は、免疫系ではT細胞活性化を中心に解析されており、神経系ではIP3受容体の発現を調節しているほか、心肥大や骨格筋の分化に関与していることも報告されています。このように多様な機能を持つCn/NF-AT経路ですが、体軸形成に関してどのような機能を持つかはまったく不明でした。そこで、アフリカツメガエルをモデル動物として用いて実験を行ったところ、以下の研究成果が得られました。

1) 腹側化シグナルであるIP3-Ca2+シグナル伝達系の下流で働く分子を同定することを目的に、Cn/NF-AT経路が腹側化シグナルとして機能するかを検討しました。転写調整因子NF-ATを阻害した表現型は、IP3受容体を阻害した場合と同様に背側化の特徴的な表現型である異所性の体軸(二次軸)が形成されました(図1-②)。さらに、NF-ATを過剰に発現(活性化)させると、背側(神経管など)が消失します(図2)。この結果から、転写調整因子NF-ATが腹側化シグナルとして作用していることが分かりました。
2) IP3-Ca2+シグナル伝達系とCn/NF-AT経路との関係を調べるため、IP3受容体の阻害によって二次軸が形成された個体に対して、活性化させた転写調整因子NF-ATを共発現させたところ、二次軸が消失し、個体の形状が回復しました(図3)。このことは、IP3-Ca2+シグナル伝達系よりも、Cn/NF-AT経路が下流にあることを意味しています。
3) 発生初期の分泌性細胞間シグナルの1つであるWntは、初期発生や形態形成過程で生じる細胞間相互作用を仲介する物質(糖タンパク質)の一つです。Wnt経路には現在のところその機能から二つのグループ、「背側化活性を持つWnt/β-catenin経路」と、「Gタンパク質を介してCa2+動員を起こすとされるWnt/Ca2+経路」の二つに分けられます。このWnt/Ca2+経路とNF-ATとの関係を解析したところ、“Wnt/β-catenin経路の活性を抑制する点”や、“得られる表現型が酷似している点”、さらに“Wnt/Ca2+経路は細胞内Ca2動員を起こす点”などから、Wnt/Ca2+経路は、Cn/NF-AT経路の上流にあることが予想されます。そこで、Wnt/Ca2+経路が直接NF-ATを活性化させるか否かを検討したところ、培養細胞において“Wnt/Ca2+経路がNF-ATに依存的な転写を活性化したこと”や、“NF-ATの核内移行を促進したこと”などから、Wnt/Ca2+経路がCn/NF-AT経路を活性化させる上流経路であることが強く示唆されました。
4) 最後にWnt/β-catenin経路と転写調整因子NF-ATとの関係を調べました。NF-ATを阻害すると、背側化シグナルであるWnt/β-catenin経路に特異的な標的遺伝子産物であるXnr3、 siamoisが誘導されました。すなわち、NF-AT経路の抑制がWnt/β-catenin経路を活性化したことを意味しています。そこでWnt/β-catenin経路との作用点がどこであるかを、不活性化したNF-ATとWnt/β-catenin経路を抑制する方向に働く“負の調節因子(frzb, 顕性不活性型dsh、Glycogen Synthase Kinase 3β [GSK3-β]、顕性不活性型T-cell Factor 3 [Tcf3])”との共発現により解析しました(図4)。NF-AT阻害によるsiamois、Xnr3の発現誘導は、GSK3βおよび顕性不活性型Tcf3によって消失していることから、NF-AT経路はWnt/β-catenin経路を少なくともβ-cateninより上流、dshより下流で負に制御していると考えられます。

これらの成果から、ツメガエルの背腹軸形成時においてIP3-Ca2+シグナル伝達系は、Wnt/Ca2+経路を上流としCn/NF-AT経路を介して、背側化シグナルであるWnt/β-catenin経路の活性を阻害することで腹側化シグナルとして機能していることが明らかになりました(図5)。Wntにより惹起される細胞内シグナル伝達のネットワークは、形態形成だけでなく細胞増殖、形質転換(がん化)、細胞の極性決定に関連する多くの因子が関与していますが、上記の解析結果から、発生初期の極めて重要な背中と腹の決定が、免疫系学で一般的に使われている転写因子であるNF-ATを介していることが明らかになったことは極めて重要です。本研究成果は、発生初期における生物の体軸の形成にカルシウムシグナルが関与していることを詳細に解明することに成功するとともに、初期発生におけるカルシウムシグナルの働きが免疫反応や老化等を含む基本的な生命現象のメカニズムと深く関与することを世界に先がけて、初めて明らかにできたことを意味しています。

今後の展開

GSK3-βは、脳の老化などの原因による神経細胞死を引き起こす際に、神経細胞内で活性化されている酵素の一つとして見いだされており、アルツハイマー病との関連も指摘されています。この酵素の活性により体軸形成の異常が消失するという今回の私たちの成果は、GSK3-βの活性が脳の老化だけでなく初期発生と密接に関連するという極めて興味深い結果を示しています。また、初期発生時の身体の形成にカルシウムメッセンジャーの働きが深く関与することは、健全な脳や身体の発達など体作りの仕組みを解明する上で今後新しい知見をもたらすとともに、カルシウムメッセンジャーに対する薬品や物質の作用を解析することで、副作用の少ない薬品の開発や、環境ホルモンがカルシウムメッセンジャーに作用して形態異常に及ぼす影響の検討が可能になるなど臨床医学的にも大きな寄与が期待されます。

(問い合わせ先)
理化学研究所 脳科学学総合研究センター
発生神経生物研究チーム チームリーダー 御子柴 克彦
TEL:048-449-5315 FAX:048-467-9745
TEL:03-5449-5316 FAX:03-5449-5420(東大医科研)
脳科学研究推進部 田中 朗彦
TEL:048-467-9596 FAX:048-462-4914
科学技術振興事業団 国際室 佐藤 雅之、黒澤 郁夫
TEL:048-226-5630 FAX:048-226-5751
(報道担当)
理化学研究所 広報室 嶋田 庸嗣、仁尾 明日香
TEL:048-467-9272 FAX:048-462-4715

補足説明

※1 転写調節因子
転写とは、生体内の遺伝情報が発現する際、DNAを鋳型にしてメッセンジャーRNAを合成する過程を指し、転写によって作られたメッセンジャーRNAの情報をもとにタンパク質を合成する。この転写を調整する因子が転写調節因子であり、NF-AT(nuclear factor of activated T cells)のように、細胞内のカルシウムイオン濃度の変化によって免疫反応を制御する転写調整因子もあると考えられている。
※2 腹側化・背側化
生物の発生過程において、体軸の形成は発生初期過程における基本的な現象の一つである。背腹軸・前後軸などの体軸を形成することにより、一個の受精卵から脳・神経や組織等の細胞集団を形成する事が可能となる。特に背腹軸の形成は、背軸側に神経系が発達するため、発生初期において極めて重要である。

This page updated on May 15, 2002