「新薬につながる高品質タンパク質単結晶作製に成功」

補足資料


1.背景
1-1 タンパク質の結晶はなぜ必要か
 現在、解読が進みつつある「ゲノム情報」は、生物の体内でタンパク質を作るための情報である。従って、ゲノム解読の次に来るもの、すなわち「ポストゲノム」の問題は、ゲノムを基に生産されるタンパク質の理解ということになる。そのタンパク質構造を精度よく決めるには良質のタンパク質結晶が必要であるが、そのような単結晶を作製することは非常に難しい(数千回試して1つ得られるかどうか)。いかにして良質のタンパク質結晶を作るかという問題は、20世紀の後半を通して、各国で真剣に追求されてきた。
 タンパク質の単結晶にX線を当てることにより、タンパク質分子の立体構造を精密に決めることができる。これまでに分かっているタンパク質立体構造の約85%は、単結晶を使って決めたものである(その例を図1aに示す)。しかし、まだ分からない構造の方がはるかに多い。結晶ができれば、それらが順次明らかになる。
 タンパク質分子の構造が精密に分かると、生命現象の基本的理解が深まるほか、医薬の設計に応用できる。ヒトだけでなく、動物や植物もタンパク質を使って生きているので、それらの病気を理解し治療法を考えたり、食糧の増産や環境の保全を図ったりするためにもタンパク質の構造は重要である。
1-2 重力制御手段としての磁場
 すべての物質は磁場の中で磁化される。タンパク質の溶液や結晶を含む、99%の物質は「反磁性体」であり、磁場中では、磁場が弱い方向へ逃れようとする力を受ける。この力を磁気力と呼ぶ。
 工業技術院物質工学工業技術研究所(物質研)の若山信子主任研究官は、この力が鉛直方向に働くように磁場を設計することにより、磁気力を重力と重ね合わせると、実質的に重力が制御できるというオリジナルなアイデアを提出した。この場合、例えば、重力の約30%に相当する磁気力を上向きに作用させる(図1b)。すると、重力の値が70%まで減ったと同じ環境が得られる(この程度の磁気力は、現在の技術レベルでは、比較的容易に得られる)。これは、月の表面と同じような低重力環境を、地上で得る方法である(宇宙空間でのみ得られる無重力や微小重力ではない)。
2.今回得られた成果

 2つの重要なタンパク質、フルクトース・ビス・ホスファターゼと、17βヒドロキシステロイド脱水素酵素(磁性はいずれも反磁性)を磁場中で結晶化させると、従来になかったほど結晶性の良い(欠陥を含まず、完全性が高く、X線をよく回折する)結晶が得られた。磁場を結晶育成の制御方法として利用するというのは、まったく新しい試みである。タンパク質結晶の磁性と磁場の関係から、この手法は原理的に他のタンパク質の精密な構造決定にも適用できると考えられる。

2-1 タンパク質結晶試料
 医学的・生物学的に意義のあるタンパク質を導入するために、カナダ・ケベック市のラバル大学から、リン教授を招へいして共同で結晶成長実験を行った。血糖値の増減に影響し糖尿病に関与するフルクトース・ビス・ホスファターゼと、性腺ホルモンの合成に影響を与え乳ガンや子宮ガンの細胞増殖に関与する17βヒドロキシステロイド脱水素酵素の結晶を作った。
2-2 結晶の質の向上
 磁気力の作用する低重力環境(マグネット内側:0.7G相当)でフルクトース・ビス・ホスファターゼの結晶を成長させ(図2)、マグネットの外で成長させた結晶と比べた。すると、結晶の質(完全性)が(分解能が増すという形で)明確に向上した。すなわち、磁場中で作った結晶に放射光からのX線を当てると、2.0Åまでの反射が起きた。同じリン教授のグループから発表されていた、同じ酵素の結晶では、2.8Åが分解能の限度であった(表1)。構造決定においては、この違いによって、タンパク質と相互作用する医薬の設計が確実に行える、などのメリットが発生する(表1下のイメージおよび図3参照)。重力の影響を明確にする目的で、磁気力を下向きに作用させ、地球の重力と重ね合わせて、見かけの重力が増加した(1.3G)環境でも実験を行った。その場合、0.7G相当の環境に比べ、明らかに質の低下が観察された(表2)。現在、磁場の中で得た結晶から得た2.0Åという精度での結晶構造の決定を進めている。
 別のタンパク質である17βヒドロキシステロイド脱水素酵素を磁場の中で成長させ、それと補酵素との複合体にX線を照射した。すると、1.3Åまでの反射が起きた(表1)。従来の構造解析では、2.2Å程度が限度であったので、この場合も、結晶の質の顕著な向上が起きている。磁場中で得た結晶を使って得たこのタンパク質の1.3Å分解能の立体構造は既に決定が終わっている。
 大きな磁気力の働く環境は、科学技術庁金属材料技術研究所の強磁場ステーションの提供するマグネットを使って作ることができた。
2-3 研究のスピードアップ
 マグネットの内側で成長させた結晶は高い品質を示したので、ただちに精密な立体構造の決定に取りかかることができた。従来のように試行錯誤を繰り返しながら、良質の結晶を捜していくというプロセスが省略でき、1,2回程度の実験で2・2のような反射データが取得できた。
3.補足
3-1 チームの構成
 この研究を成功させる上で重要だったのはチームの構成である。マグネットで磁気力を発生させ、それを重力と重ねるという基本的な発想は工業技術院物質工学工業技術研究所(物質研)の若山信子主任研究官が提供した。そのアイデアの面白さをいち早く見抜いた工業技術院生命工学工業技術研究所(生命研)の安宅光雄室長に、若山が科学技術庁金属材料技術研究所(金材研)の強磁場ステーション長・和田仁総合研究官を紹介して研究チームが実現した。これらの個人的なつながりができていたのは、つくばという環境のおかげだった。
 そのチームでは、基本的なアイデアをタンパク質結晶育成手段として確立するため、マグネットの設計と製作に実績のある金材研チームが全面的に協力し、磁場を提供した。低重力環境では多くの合成・反応の実験が実行できるが、タンパク質結晶成長を試みることについては生命研の二十年来の経験が役立った。さらに、重要なタンパク質の獲得と、磁場効果の客観的な評価・判断のため、カナダの研究者に参加を求めた。
 このチームを、科学技術振興事業団の戦略的基礎研究推進事業(極限環境状態における現象・研究領域、立木昌・研究総括)が支援した。自由度の高いこの制度により、研究所、省庁および国境を越えた研究活動のスムースな展開が可能となった。
3-2 本研究の基本的考え---磁気浮上との相違
 反磁性体が磁石の中で浮上することはよく知られている(水や木やカエルの浮上、あるいは超伝導体の上に乗った人の浮上)。本研究では、単なる浮上現象を求めたのではなく、磁気力による重力の制御を目的とした。
 磁気浮上には、25T程度の超強磁場が必要となる。そのようなマグネットは、連続運転時間も数時間が限度であろう。長時間の実験が必要なタンパク質結晶成長には不適当な条件である。本研究では、10T程度の磁場を発生する通常の超伝導マグネットを用い、最高1週間程度、磁気力を連続的に加え続けた。このことは、浮上という極限状況、あるいは1つの現象を狙うのではなく、低重力環境の実現を狙うという発想の転換があったために可能となった。
3-3 最新の超伝導材料技術の導入
 タンパク質結晶成長用に磁場を利用するためには、超伝導マグネットの長時間連続運転が必要である。本実験では、液体ヘリウムを使用しない「無冷媒冷却方式」の採用によってこのことを実現した。
 この冷却方式は、ビスマス2223と呼ばれる超伝導材料を電気的接続部分に採用し、熱的には絶縁しつつ電気的には接触させるという、この材料のみのもつ特性を利用している。この材料は、1986年以降に発見された高温超伝導材料の1つであり、応用に結びついた最初の例に属している。
3-4 メカニズム
 なぜ、磁気力が働く低重力環境で作った結晶の質が良くなったのか、詳しいメカニズムの解明はまだである。既に、シミュレーションや実験で、磁気力が存在するときのタンパク質溶液やタンパク質結晶の様子を調べ始めている。
 我々は、現時点では、低重力環境で対流と沈降が抑制されることが、良質の結晶の成長に有利に働くと考えている。一般に、結晶ができ始めると、その周りではタンパク質濃度が下がり、密度が減るので、密度差対流が発生する。また、結晶が、ある程度大きくなると、まわりの溶液より重いので底に向かって沈降し始め、底面で成長を続ける。これに対して、重力に磁気力を重ね合わせた低重力環境を作ると、溶液内にできる濃度差に起因する対流も抑制され、また、溶液と結晶の比重差に起因する沈降も抑えられる。これらが複合的に作用して、結晶の質が高まると考えられる。
4 今後の展開

 さらに多くのタンパク質結晶について同様の実験を繰り返し、ここで確かめたのと同じような品質の向上が起きるという例の数を増やす。それと共に、なぜ、結晶の質の向上が起きたのかというメカニズムを突き止め、最適のマグネットの利用法を追求したい。
 そのためには、磁気力と重力を、ある広がりのある空間内において一定に制御できるマグネットが必要である(行き当たりばったりの磁場では、再現性のあるプロセスにはなり得ない)。金材研は、そのような視点に立ち、均一磁気力場を発生できる超伝導マグネットを開発中である。これにより、磁気力の効果がより明瞭かつ定量的になると期待される。

5.問い合わせ先
・安宅光雄 
 生命工学工業技術研究所 生体分子工学部 分子システム研究室長
電話 0298-61-6174
FAX 0298-61-6161
・若山信子
 物質工学工業技術研究所 基礎部
電話 0298-61-4519
FAX 0298-61-4524
・和田 仁
 金属材料技術研究所 強磁場ステーション 総合研究官
電話 0298-59-5024
FAX 0298-59-5023

●表1

 実行できた構造解析の質の比較。ここに示す値が小さいほど、精密な構造決定が可能となる。従って、タンパク質結晶成長では、この値の小さい結晶を作ることを目標とする。

タンパク質名 磁場の中で作った結晶を用いたときの
最高分解能
磁場を使わない結晶の
最高分解能*
フルクトース・ビス・ホスファターゼ 2.0Å 2.8Å
17βヒドロキシステロイド脱水素酵素 1.3Å 2.2Å
分解能の違いのイメージ
同じタンパク質の構造を過去にリン教授のグループが発表したとき(磁場なしで作った結晶を利用)の最高分解能。出典はD.-W. Zhu et al., Acta Cryst. D55 (1999) 1342-1344 およびD.Ghosh et al., Structure 3 (1995) 503-513.

●表2(参考)

同時に異なる環境で作ったフルクトース・ビス・ホスファターゼの結晶のあいだで最高分解能を比較した結果。X線源が表1とは異なるので、直接には表1と対応しない。ここに示す値が小さいほど、結晶の完全性が高く、広い範囲からデータが取得できることを表す。

結晶を作った環境 最高分解能
磁場外 4.1Å
0.7G相当の環境 3.2Å
1.3G相当の環境 6.5Å

This page updated on July 4, 2000

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