本新技術の背景、内容、意義は次の通りである。
ある一定の温度に保たれた同種の粒子がどのようなエネルギー分布を持つか"、という問題は蒸気エンジンや冷凍機の原理を理解するために始まった熱力学・統計力学の中心的なテーマであった。粒子の密度が低く温度が高い極限では、粒子のエネルギー分布は、いわゆるマックスウェルーボルツマン(MB)分布に従うことが19世紀末には明らかになっていた。これを古典統計といい、MB分布が古典力学により導出できるからである。しかし、粒子密度が高く温度が低い逆の極限では粒子のエネルギー分布は、このマックスウェルーボルツマン分布では説明できなかった。
これとは別に熱放射(光子)のスペクトル分布も古典的な波動光学で説明することができなかった。プランクは1900年にエネルギー量子仮説を導入し、続いてアインシュタインは1905年に光量子を提案して、粒子と波動の2重性という量子力学の基礎概念はまず光子に対して確立された。熱的光源から放射される光子のエネルギー分布はマックスウェルーボルツマン分布とは異なるボーズ・アインシュタイン分布に従うことが示された。これは、光子が1つの状態にかたまって存在しやすい性質(バンチング性という)を持っていることに起因していて、量子統計力学の誕生を象徴する発見であった。
一方、自然界には多数の粒子が同一の状態を占有できるボーズ粒子と、1つの状態に粒子1つだけしか存在できないフェルミ粒子と呼ばれる2種類の粒子が存在する。光を構成する光子はボーズ粒子であるため、振幅が一定とみられる光でも光子が固まった密の部分とまばらな粗の部分が生じ(バンチング効果)、個数に大きなばらつきを持つ。この量子力学の基本原理に基づく現象は、1956年にハンバリー・ブラウンとトアイスにより実験的に検証されていた。彼等は、天体の星から飛来する光の強度ゆらぎを空間的に離れた2ヶ所で測定し、その間に正の相関があることを示したのである。
この実験は、熱的光源から放射される光子が確かにかたまって飛来する様子を強度相関の測定から直接確認したものである。すなわち、図1に示すような熱的光源から放射された光をビーム・スプリッタで2つの径路に分け、各々検出器で強度を測定し、その相関を遅延時間を変えながら評価した。測定系の遅延時間が熱的光源の相関時間(光子の放出を熱的光源が記憶している時間:スペクトル幅の逆数である)に比べて十分に長い場合は、2つの検出器で測定された強度には何の相関もないが、逆に測定系の遅延時間が熱的光源の相関時間に比べて十分に短い場合には、2つの検出器で測定された強度には正の相関が現れた。これは、光子がかたまって発生されやすいバンチング性を持つことを実証した最初の実験であった。光子の持つこのような性質に基づいて、その後レーザが発明された。このように1つの状態にかたまって存在しやすい性質を持った粒子を一般にボーズ粒子と呼び、金属中の電子対(クーパーペア)、半導体中のエキシトンなどがそれに当たり、超伝導やボーズ凝縮などの様々な、しかし同じ起源(バンチング性)に基づく物理現象がその後次々と発見され、様々な技術分野に応用された。
しかしながら、自然界に存在する粒子が互いに重なり合う性質を持つボーズ粒子だけであるとすると、宇宙は安定に存在することはできない。結局のところ、原子核も原子も物質も実はすき間だらけだからである。宇宙を構成しているもう1つの粒子であるフェルミ粒子が、互いに反発し粒子の重なり合いができないからこそ、宇宙は崩壊せず安定に存在できるのである。
このフェルミ粒子に対して、全く逆の現象が観測されるはずだという理論的予測が、ハンバリー・ブラウンとトアイスの論文が発表された1956年の同じNature誌に、ノーベル物理学者パーセルによって発表された。フェルミ粒子は、1つの状態に粒子1つまでしか存在することができず(パウリの排他律)、フェルミ・ディラック分布に従う。例えば、連続した電流では電子数に粗密が無いため(これをアンチバンチング効果と言う)、ハンバリー・ブラウンとトアイスの実験と同様の実験を電子に対して行うと、ボーズ粒子の場合と反対の負の相関が得られるはずである。すなわち、一方の検出器で粒子がある時刻に観測されたら、同時刻に別の検出器で粒子が検出されるはずが無いからであり、遅延時間が粒子源の相関時間に比べて十分に短い場合に、2つの検出器の間には負の強度相関が観測されるはずである。しかし、このパーセルが行なった理論的予測は、その後40年以上にわたって実験により検証されることはなかった。その理由は、電子のようなフェルミ粒子を各状態に必ず1つ存在するような高密度で(この状態をフェルミ縮退という)発生させる技術がなかったためである。今日、最も高密度
な電子流を真空中へ取り出すことができる電界放出形電子銃(ナノチップと呼ばれる)でも、100万個の状態につき1つの電子を取り出せるだけである。このような低い電子の占有確率では、先に述べた負の強度相関を観測することは不可能である。過去、40年以上にわたって様々な実験的試みが行なわれたが、パーセルの予測が実証されなかったのはこのような理由によっていた。
山本量子ゆらぎプロジェクトでは、GaAs/AlGaAs半導体界面に流れ込んだ電子が膜圧方向に閉じ込められ、面内ではあたかも真空中の自由電子のような振る舞いを示し、1μm程度(波としての電子の波長〜50nmの数十倍程度に相当する)まではほとんど散乱が起きないことに着目して、この電子を電子の波長程度の極微小領域を通過させることにより、フェルミ縮退した高密度で位相のそろった単一モードの電子ビーム(電子ガス)を作り出すとともに、この半導体上にハーフミラー(ビームスプリッタ)を形成し、電子流を2つの径路に分けることに成功した。このようにして発生された電子ビームでは、各状態を必ず電子が1つ占有するフェルミ縮退の状態になっていることが、電気的抵抗の測定と電流のゆらぎ(雑音)の測定から確認された[Nature,
Vol. 391, P. 263, 1998に発表]。 (1μmは百万分の1m、1nmは10億分の1m)
今回、このようなフェルミ縮退した電子ビームを図2に示すような50/50%のビームスプリッタで2つの径路に分け、各々の電子ビームのゆらぎ(電流雑音)の間に果たしてパーセルが予測したような負の相関があるかどうかを実験的に調べた。実験に用いた素子のSEM写真を図3に示す。ショットキー接合で作製した中央電極の下部がビームスプリッタ、上下左右の四隅が電子ビームの入出力端子になる。中央電極に印加する電圧を変化させることでビームスプリッタの分岐比を1:1に調整することができる。相関値の測定は相関計を用いて行い、一方の入力に接続する同軸ケーブルの長さを変えて遅延時間を設定した。実験結果は、図4に示すように、遅延時間が電子ビーム源の相関時間よりも十分に短い時には(測定系の積分時間:周波数帯域幅の逆数)、予測どおり負の相関が観測された。観測された負の相関値は−0.8であり、これは理想的なフェルミ縮退した粒子源に対して期待される理論値の−1.0に近い値であった。
今回の実験結果は、フェルミ粒子である電子の量子統計性、アンチバンチング効果を初めて直接に観測したものである。ボーズ粒子である光子の量子統計性、バンチング効果が直接に観測されてから40年以上遅れたものの、これでこの世界に存在する2種類の粒子の量子統計性の実験的検証が確立したことになる。今後、ボーズ粒子の量子統計性をうまく利用した様々な技術(レーザや超伝導)と同様の技術がフェルミ粒子の量子統計性を利用して誕生することが期待される。
1) | ハンバリー・ブラウンとトアイスの実験:星からの光(人為的な操作のない)を均等な確率で分離できるハーフミラーで2つの径路に分け、2カ所の検出器で測定し、各々の強度の相関を遅延時間を変えながら評価した実験。一方の検出器での強度が増えると他方の強度も増える正の相関があることを確認し、光子の量に粗密があることを検証した。 |
2) | パウリの排他原理:2個以上の電子が同一の量子状態にはならないという量子力学の基本原理。 |
This page updated on May 11, 1999
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