99. 一定の成果

 筆者の属する科学技術振興機構も独立行政法人化して今年初めての評価を受ける。公的資金を投じた多くの事業の評価は、民間の事業と違って定量的に評価しにくい部分が多く、決して容易ではない。だからなのかどうかわからないが、最も多く使われる総括的評価用語として「一定の成果」という言葉があるようなのだ。“一定”は第一義的には定まっていて変化しないという意味であるから、コンスタントに成果が上がっているということかと思えば、そうではなくて程度を漠然とさす意味合いで使われていて「一定の成果」とは、広辞苑によれば、十分ではないがそれなりのという意味とある。たまたまのことであるが、5月22日、23日の、日本経済新聞の朝刊で、21世紀COEの記事が眼に留まったが、予想通り(?)「一定の成果」というくだりがあった。21世紀COEは、文部科学省が2002年度からはじめた日本の大学を世界的な水準の研究教育拠点にしようというプログラムで、22日の記事は、実行委員会が整理したアンケート結果は「COEが一定の成果を挙げたとの肯定的評価が大勢を占めたが,当事者と外部評価者との間には大きな開きがあった」というもので、23日の記事は、支援対象を来年度から大幅に絞って拠点当たりの予算を手厚くして、世界水準の研究教育拠点作りを加速するという内容であった。

「一定の成果」は、評価者、被評価者とプログラムの提唱者に配慮があるような玉虫色にもとれるし、被評価者(当事者)は、身近に変化を実感できる立場にいるから、その変化を捉えて十分成果が出ているという側に触れがちであるし、外から見ていると日常的な実感のない分マクロに見ることができて本質的な改善がまだまだであると、期待が高いほど、評価は厳しい方に触れる。それらは要約されると、十分ではないがそこそこという元気が出にくい評価になるのかもしれない。

アンケートという手法がまったく役に立たないとは言わないまでも、評価者の一人一人の持つ物差しが違っていることを前提として、分析し、メッセージを引き出さないと誤った判断にいたることさえ起こりうるのではと懸念する。 

曾我廼家五郎という喜劇役者が今からちょうど100年前の1906年に関西から関東に進出し,公演後に、演劇場に足を運んでくれた観客に直接はがきを渡して感想などを書いてもらったのが日本の最初のアンケートだといわれているようである(明治維新直後に西洋からあれこれ学んだ中からアンケート手法の活用は別の場面でそれより前にあったようにも思えるが)。このようなケースでアンケートの役立ちは大いにありそうに感じるが、たとえばNHKの特番で国民のほんの一握りの人たちやゲストがスタジオに集められ、テレビを見ている人たちから寄せられるアンケート結果も素材に加えて番組を進行させ、ある種のメッセージを発信する番組などをみていると、ことが重要な議論であればあるほど、まず言葉の定義をはっきりしないままの進行で出てくる議論には、時として苛立ちを覚えることがある。最近で言えば、「日本の社会は格差が広がっているか?」などはその代表例だと思う。何の格差を問題として議論しているかがわからぬまま、番組が終わっても、番組スタッフは言うのであろうか?「一定の成果はあった」と。

それぞれの人が自信と誇りを持って生きていく過程であっても、予想もしない方向を含め、さまざまな角度から人は外部評価を受けるものなのである。あるとき、駄目だしをされた集団が大きな事業成果を上げて社会から評価を受ける。逆に、狭い社会でダントツの評価を受けていた学者が信用を失墜することも起こりうる。いずれにしても大事なことは多くの評価は,とった行動がもたらした結果のうち眼に見えやすいものに対してなされるのであって、全人格が否定されるような評価は受けるものではない(法に大きくそむけば別)。だから、自分を高める上では、受けた評価の妥当性を逆評価した上で、次へのステップに繋がりそうな評価は受け入れたらよいのである。そういった評価の効用から考えると、「一定の成果」はいただけない評価に思えるがいかがであろうか?


                              篠原 紘一(2006.5.26)

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