91. 苦しいときに(後編)

新しいことをやっていくと必ず、さまざまな抵抗勢力にぶつかる。蒸着磁気テープは、「金属はさびる」という常識につぶされたら陽の目は見ることはできなかった。
バナナのような形をしたナノメートルスケールの結晶の表層を酸化させて、ダイヤモンド状の硬質炭素保護膜で被覆した構造体をナノスケールの凹凸を持ったペットフィルムの上に並べることで、実使用環境、現実的な保存環境、保存時間では金属もさびないという解を、筆者の仲間たちが創りだした。これ以外の解もありえたかもしれないが、結果的には、この構成が業界標準になった。

業界標準になったことで、新しいビデオの規格が(かつて、VHS,ベータ、8ミリビデオの規格は、それぞれ新しいテープでサポートされてきたという歴史がある)市場に投入されて1,2年は磁気テープが不足したり、ある会社の製造したビデオテープレコーダーで記録した映像が、他の会社の製造したビデオで再生すると画面が乱れたり、消失したりする問題を起こしてきた歴史は、デジタルビデオでは繰り返されなかったという、顧客にしてみれば、それで当たり前と言うことがやっと出来たのである。

開発着手から気がつけば、20年の歳月が流れていた。その間「やめたらどうか」と繰り返し言われながらも(時には、蒸着磁気テープに対してだけでなく、これを使って規格を作って、ビジネスをと計画していたビデオ機器本体のグループに対しても、「蒸着磁気テープ(MEテープ)でやったら失敗する、合金微粒子塗布型テープ(MPテープと呼ぶ)でやれ」と副社長に言われても)やめずに出口にたどり着いた。苦しいときに、今振り返って有益であったと思える対応、考え方を紹介したい。ここで取り上げる事例は、製品開発から事業までのフェーズを対象とし、技術的な側面とマネージメント、経営の側面で判断を迫られた事柄から経験的に搾り出したメッセージではあるが、基礎研究の現場においても参考にしていただける部分があると思っている。

@ 極限に追い込んで考える。そして判断し、次の行動に移す。

 挑戦的な行動、や先駆的な研究を成功に導くマニュアルなどは無く、自ら切り拓く過程で苦しいときは繰り返し訪れてくる。弛まない努力が常に成果を生むとは限らないから、事は厄介である。長い目で見ると、ブレークスルーとブレークスルーの間は、やはり弛まざる努力による、データの地道な積み上げ成果が出る時間といってよい。ブレークスルーが起こるのはどのような時かはそれだけでも研究対象であって、一言で言える話ではない。技術的なことであれ、運営や経営面であれ、極限に追い込んで考え抜く、これ自体も苦しいがそれをやりきれば次の展望が開ける確率は高くなる。これはある程度意図的にやらないと、日常の発想はやはり現実から大きくはみ出した発想になりにくいものである。極限に追い込んで考えると言うことは極端な(常識的ではないことが多く、すぐに賛同が得られないことも多いかもしれないが)考えをするということと等価であることが多い。そして肝心なことは、極端にポジテイブに考えるだけでなくネガテイブにも考えを振ることである。極端な考えを肯定したり、否定したりすると言うことは仮定を検証することでもある。したがって明確に、論理だって結論が出るわけではないが、そのように考えを広げて議論することで、ここから先は悩んでも埒が明かんと言う線引きが自然にされることが重要である。

MEテープで冒頭のべたさびないテープの構成がわかってもそれを生産できるかどうかはまた極めて重大な判断であった。後に、業界の関係者から打ち明けられたことである。「MEテープの信頼性が飛躍したものが目の前にあるということは、いくらがんばっても、実用になるテープは出来ないのかもしれないと思いながら進める開発とは雲泥の差で技術者に勇気を与えた」と。しかし、社内では「このMEテープは確かにいいテープだが生産できるテープではない」と決め付けられていたし、他社の評価もおおむねそれに近かった。

そこで、極端にポジテイブにかんがえると、「量産している工場の姿がイメージされる」「遠景のイメージからカメラをどんどん接近させていくと見えてくる保護膜作成の様子は?」「フィルムの送り速度は?」などなど。一方ネガテイブに考えると「コストに見合う量産はできない」「別のテープに代えて規格を作り直す」「ビデオカメラで撮影したが画面がいくらきれいになっても、これまであったビデオカメラより大きくなることはマーケットが受け入れない」悲観的なサイクルが回って、MEテープは「終わりにする」と言うことになる。当たり前の事であるが、限られた時間と、投資での解決可能性が、まったく見えなければ、終わりにせざるを得ない。開発の日々は、この中間にあって悩むことで過ぎていく。そこで、時には両極端で考えることで、頭も気分も日常から解放してやることが大切である。いつもうまくいくとは限らないが、そこから新しく、思いも依らなかった方向が導き出されることが起こるものである。ダイヤモンド状の炭素膜を可能な限り薄くして、保護性能を落とさないで作る方法を仲間が開発し事業化の壁を突破できた。10年以上前のことであったので、ナノテクノロジーだという意識などまったく無かったが、ナノスケールの厚み制御技術としては凄い事をやってのけたものだと思っている。

A        環境を変える。

 この行動は、@で述べたようなことのかなりの部分を比較的自然な形で実行に移せるといったご利益がある。いつもの顔ぶれで、いつもの会議室で、データを前にして議論しても突破口が見えてこない、やはり壁に突き当たったなと強く感じたときには、環境を変えてみることである。ここでいう環境は、景色を変えることと、人の組み合わせを変えることと、その両方を組み合わせることが有効な策である。たとえば週末、早めに会社を出て琵琶湖のほとりにある会社の保養所に一泊して「琵琶湖サミット」と銘打って、それぞれが担当していることで抱えている課題、日ごろ考えていることを基にした提案などを存分に離してもらい、批判をせず、決めもせず、リーダーとして静かに聞かせてもらった。聴きながら気がつくこともあるし、思い切ってやってみようかと思える提案については現場でじっくり聞いて判断して実行に移していった。
深刻な課題に向き合ったとき、材料メーカーの技術屋とステーキを食べ、ワインを飲みながら、会社を超えて胎を割って語り合ううちに重要なヒントが得られ解決できたこともあった。MEテープを使ってもらう相手とはもちろんのこと、競争相手とも機会を捉えて踏み込んだ話をしたことで、業界として重要な競争と協調を両立仲間が出来ていった。そのことはMPテープとの開発競争によって力になった。

ナノテクノロジーは異なる専門を持った人たちが、同じ夢をもてたときに最も強力に前進するような気がしている。
苦しいときに役に立ちそうな別の事例はまたの機会に。
                              篠原 紘一(2006.2.6)

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