89. 年が明けて

  2006年が明けた。イタリア、トリノでの冬のオリンピック、ドイツでのワールドカップサッカー。テレビの画面に揺れる日の丸、会場のポールにあがる日の丸に、涙することは無くても大多数の国民が日本を(抱えている課題をこのときはすっかり忘れて)応援し国の色が鮮明になる年を迎えた。安心、安全にお金のかからない方の筆頭の国と信じてきた日本も並みの国に向かっているように見える事件がおきている。深刻な課題を抱えているのは確かであるが、好ましい変化もある。

たとえば、スポーツで若い人たちが、大舞台でも力を発揮するようになってきたことがあげられる(お家芸であったスポーツがさっぱりだめという逆の現象も起きてはいるが)。一方、大舞台で物怖じしない選手が増えてきているが、時代適合がどうかなと感じる代表選考の考え方とそれを示す具体的な手順である。
単純化して言えば、オリンピックや世界大会では発揮できた力が参加選手の中で一番で、ステロイドなど姑息な補助手段を使わなかったアスリートに金メダルが与えられるということなのだが、日本の選考方法は米国に勝てる選考方法をとっていないのではと素人ながらに感じて久しい。これも単純化していえば、日本の代表は平均値が高いことに重点があり、実績があるとか、何回かの競技で、一度力が出たら代表になれることが多い。
米国は直前の一回の勝負で決めることにしていて、オリンピック本番に一発勝負で勝ちに行くスタンスを貫いていて実績も残している。いやみな言い方になるが今回、特に女子のフィギュアがトリノでどんな結果を出せるか楽しみである。詳しくはわかっていないが、いくつかの大会のポイントの集計で代表が決まったようで、最後の大会で、一位と3位と6位の選手が代表になった。この大会の2位はオリンピックの年齢制限で出場権がない浅田真央。3回転半のジャンプを二回決め、やってみたかったと。この素質がそのままトリノでのオリンピックの舞台で花開くかはわからないが、年齢制限に引っかからなかったら、あっさり日本女子フィギュアで初のゴールドメダルとなったのではと思わせる力の発揮振りであった。
くどくなってしまったが言いたかったのは考え方が代わらない限り、格差は縮まらないと言うことである。

年が明けてしばらくは、マスコミの多くが今年を展望し、日本が抱える課題に対して楽観論、悲観論が飛び交う。視線が未来に向くのは大切なことであり、歓迎すべきことであるが、真に長期的な考察に基づいた論議を望むには2010年の日本を展望するくらいでは理想に迫るのは難しい。
どのように日本を変えていくかの議論がどこに向かおうと、変わらないのは科学技術を好ましい方向に進化させていくことであり、その基盤となる第3期の科学技術基本計画は、日本の財政が苦しいにもかかわらずこれまでを上回る投資を目指しこの4月にスタートを切る。「社会・国民に成果を還元する科学技術」「人材育成」が、第3期の目指す重点である。

そうした中で科学技術がどんな成果を生み出すことを、国民や社会が期待するのかと言うことは、5年後、10年後、30年後、50年後、日本の国がどんな国であって欲しいかの描像が多くの国民によって共有化される必要がある。5年、10年は描けても30年、50年は描けないと言う意見がすぐでそうである。
しかし5年、10年を対象にした時と30年、50年を対象とした時では発想が変わる。5年、10年は既得権に対してのこだわりがあったり、業界常識の円から出られなかったりして(もちろん現実的な判断が重要となる課題解決もたくさんある)ほとんどがあるべき姿を映すというより延長上の世界像になりがちである。50年後となると筆者であれば113歳になるから、言ったことに責任も取れない代わりに、理想の姿を思い描くのに一切のしがらみから開放され自由な発想が出来そうに思うのである。したがって議論もはしょった議論にならずに広がりが出てこよう。

いずれにしても1970年代、80年代は先頭を走るモデルがあった。そして我が国は高い成長を実現し、気がついたら先を行くモデルがない状況に立ち至っていたのである。情報の流通量も速度もどんどん増えていき、競走が激しさを増していったため、よく見えた隣(外国の)の芝生を鵜呑みにし、それらを日本のよき価値観(文化)で十分租借できないままに取り込んでしまったことが今抱えている日本の課題を一面で深刻化しているように感じる。とりわけアメリカの価値観から生み出される競争原理や、仕組み、制度等々が日本の社会に大きく影響を与え、一部は歪を大きくしてしまったと言えるのではなかろうか。

一気に導入した形の民間会社での評価制度は見直しが始まっている。ゆとり教育も見直しだ。特許に対する報い方の議論も極端である。アメリカから理解に苦しむとの声が上がったが、筆者の付き合った範囲でも、技術者は何によってやる気が出るかは報酬が主ではなく仕事(テーマ)そのもののやりがいにあるという人が大半であった。この点での日米の差は小さかったことから昨今の日本の特許報酬問題に関してのアメリカの反応もわかる気がしている。

日本の将来を決めるのは人である。その人の数が減少する問題と、年齢構成が高齢者側にシフトしていくといった問題にどう立ち向かったらいいのだろうか?これらは数の問題と言うより質の問題として解きほぐしていくべきであろう。キーワードはひとつあげるとすれば「イノベーションの連鎖」ではないか。イノベーションを科学技術だけではなく、制度や、仕組みにおいて柔軟に時代適合させていく。そのベースは個人個人の変身対応力であろう。少子化で、大學も淘汰される。高校、中学、小学校も自主的に再統合して、使わなくなった校舎は廃墟にしないで、保育所や、幼稚園の拡充に利用し、女性の労働環境を支援したり、生涯教育の道場や、地域の活力を高める場として活用できるであろう。
50年後の日本の社会への道筋を示すことなどまったく手に負えないことなので、この当たりで終わりにする。抽象的であるが、日本型の格差社会を、自然との共生をこれ以上崩すことなく築いていけないものだろうかと思う。

競争は避けて通れないが、成果配分を大きくしすぎるのは、日本人にはなじみにくい。生活に不安を感じないで、仕事に全力投球できる報酬があって、そこから先は成果に見合う適正な配分がなされ、変身が加速されていけば、日本の労働力の質はかつて無かった高みに達していくことが期待でき、活力にあふれた社会を実感できるようになっていくのではないかと思う。

 



                              篠原 紘一(2006.1.6)

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