86. 基礎研究と出口

基礎研究も社会とのつながりを意識すべきであると言う議論が最近富に高まりつつある。勇ましい人は「税金の無駄使いだ」とずばっというが、基礎研究がどの程度社会の役に立ったかを示すデータの蓄積が整理されていないから、正面きって反論もしにくいのが実態であるし、言っている方も根拠が明確なわけではない。
統計に基づいて理路整然と論じられるだけの、背景知識もないが、実体験として筆者が企業において経験したことが基礎研究の出口を考える上である程度のアナロジーとして扱えそうなことがあるのでここで紹介したい。

多くの会社がそうであったと思うが、中央研究所(今は本社技術部門の中の先端を担う部門に位置づけられて居るがこの名前が使われることは少なくなっている)、と事業部門の関係が基礎研究(開発)と出口の関係に類似している時代が、アメリカの後追いのリニアモデルではあったが1970年代から80年代にわたって続いた。
今回の話も、これまで繰り返し書いてきたデジタルビデオ用の磁気テープに関連した話である。このテープそのものは中央研究所が始めたわけではなくて、事業部門の開発機関が始めたテーマであるが、全ての要素技術を自前で仕立て、仕上げたわけではない。
蒸着磁気テープの実用信頼性を著しく高めた要素技術は、本社の技術部門がテープの保護膜ではなく、別の用途に向けて研究をしていたダイヤモンド状硬質炭素膜(DLCと略す)で、この研究開発を基礎研究と見立て、出口である蒸着磁気テープの事業化との間で展開された2つのエピソードを紹介する。

世の中にはある限られた時間、空間の中で見ると「いいこと尽くめ」に思えることがまれにあるが,多くは得ることがあれば、失うこともあると言った例が多い。先に、失ったほうについて考えてみる。

蒸着磁気テープはぺットボトルの材料をフィルムにして、超微粒子(直径が100nm以下の酸化物の微粒子)で、細かな凸凹を作った上に、磁界の中に置くと磁石になるコバルトを蒸着する。そのときにわずかに、酸素ガスを真空容器内に入れてやると磁石になる細かい結晶の表面が酸化された層を持つことになる。
この酸化層は磁気テープにとって必要な特性、機能から重要な役割を持っている。この磁気テープに音や映像を記録したり、再生したりするときには、磁気ヘッドと言う磁界を発生したり、磁界を感じたりする素子が必要になる。この磁気ヘッドは磁気テープの表面を、1秒間に数メートルの速さで移動するように設計されるので、テープを安定に送り出し、巻き取っていく機構の構成部材を含めテープの表面に当たる材料と良好な潤滑状態の維持が必須となる。
丈夫ですべりの良い潤滑剤は、磁性結晶の表面の酸化層と化学的に強く結びつくよう設計されることが多い。磁気テープの使用される環境、保管される環境で問題を起こさないようにするのは簡単なことではなく分子設計をし、合成したものが使われ、それらは当然特許出願され、多くの権利が取得された。ところが、それら特許は権利化の時点では、DLCが後に導入されることはまったく想定されていなかったため、磁気記録媒体(テープと、デイスク)の権利範囲は磁性結晶表面が酸化層を持ち、その酸化層に結合する潤滑剤が特別な材料であると言った特許になっていた。

しかし、後の開発でDLCが磁気テープの実用化にとって不可欠の要素であるとの認識に立って、いくつかのブレークスルーが成し遂げられて事業になったときには、磁気テープの重要特許リストから酸化層と結合して良好な働きをする潤滑剤の特許は消えてしまったのである。

この事例は基礎研究よりはずっと下流の実用化を視野に入れても研究開発で生まれた特許であっても、その評価がドラステイックに変わった例である。まして、基礎研究と実用化までの距離はもっと離れているのであるから、基礎研究において生まれる発明が、事業化において回避することのできない基本特許(原理特許)であることを期待するのはわかるが、期待通りに世の中が回っていくと言う保証はないと見ておかないといけないことは理解が得られよう。
特許出願においては、限定条件を減らす工夫はするにしても、明細書の作成のテクニックを駆使しても、それ以上に産業界の10年後の競争において武器となる技術が読みきれないと言った要因のぶれのほうが大きいからである。


前半で紹介したように、DLCの技術は潤滑剤の発明の価値をゼロにしたが、DLCがあったから今日のデジタルビデオ用の磁気テープが世界中でたくさん使われているのも事実である。DLCは民間企業においては、上流の研究所で研究開発されていた。事業サイドはこの技術によって出来上がるテープの総合的な特性のよさに驚愕した。そのテープは歴史のある従来技術の延長上の塗布型メタルテープを凌駕するレベルであったからである。

テープ化は、8ミリビデオの事業化の際に、事業部門に移動した仲間が上流の研究所に戻ってからやってくれた。DLCの厚みはわずか10ナノメートルであるにもかかわらず、緻密な膜になっていて,これを量産できれば蒸着磁気テープは世に広がるに違いないと確信できるレベルであった。ところがDLCの製膜速度を聞いて事業サイドは一気に引いた。製膜速度は,とても量産をイメージできるレベルではなかったから無理も無いが、あきらめるのはまだ早いと筆者は動いた。テープ化に応用してみたのは、以前の仲間であったが、その元になる技術は別の研究グループの成果であった。速度を上げてテープ製造技術まで持っていけそうな技術かどうかを教えてもらいに行った。その答えを聞いた瞬間筆者の胎は決まった。「実用化に仮に今の速度の100倍の速度がいるというなら、膜を作るエリアを100箇所持った設備を開発しなはれ」が答えだったからである。

基礎研究の成果も、極めて低い温度での物理現象であったり、一個の素子を作るのに何日もかかったりすると、ほとんどの人は出口の話などはしないで終わる。再現できないチャンピオンはごめんこうむりたいが、すごいものがあるという事実は時には大きな価値を持つものである。長い時間をかけて事業化に取り組んできた多くの仲間のことを考えながら、世界中の人たちにたくさん使ってもらえるものを作りたいと思って挑戦を繰り返してきたのに見つからなかった答えが目の前にあるのだ。

繰り返し使用と長期の保管に対してこれで大丈夫と言う信頼できる、高性能テープがそのDLCを保護膜としたテープなのである。DLCを高速で作れるようにするだけでいいのだ(それは容易ではなかったが、後輩たちはやりきった)。基礎研究のひとつの価値はこれまで無かった物性、機能、メカニズムなどを明確に示すことである。桁違いの事実を目の前に示されたときに、少ないかもしれないが産業界が動き出して出口にいたるケースのほうが、今の産業界の持てる力やインフラを考慮して、一見バランスのとれた条件で実験されて得られた数倍クラスの改良は出口に近いかもしれないが、それは基礎研究の成果が世の中を変えたというレベルからはほど遠い。

多くの挑戦は失敗するといって間違いない(そうでない成功率の高い挑戦は挑戦といえないレベルの進歩にとどまってしまうことが多いといったほうがいいのかもしれない)。DLCテープの例は、どういうものを作ったら良いかがわからないときの挑戦と、これを大量作りさえすれば世に問えるという解がわかったときの挑戦では、後者の成功確率がはるかに高いことを示した例であろう。少ない筆者の経験から言っても、基礎研究に没頭する研究者の志と、産業界にあって世の中の役に立ちたいと思う人の志がどこで接点を持つかはあらかじめわかっていることではないように思われる。



                              篠原 紘一(2005.11.17)

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