85. 成果評価の圧力

Plan-do(action)-see(check)は成長していく人間の行動様式の基本である。
この行動様式は個人個人で自己完結するサイクルとして回せるものもあるが、そうではないものも増えてきていて、そのサイクルのなかで評価が、個人の行動を狂わせることも起こるというのが実感であろう。したがって、このプロセスの中で最も議論になっていることが、評価のところになっているのが最近の動向である。

やれ成果主義だ、やれ外部評価委員会だとにぎやかである。成果主義にしても、成果が客観性を持ちにくい質の評価が最も難しいところである。その上ほとんどの評価は瞬間、瞬間で評価して,歴史の評価と言ったほど長い時間経過を問うのは別としてでも、時を経ての評価例も数少なく、一回評価したらそれで野評価が良くても悪くても、次に影響をもたない評価もまだまだあるのが実態であろう。

基礎科学の分野では、ひとつは、専門家による評価で構成されている、論文査読がある。それでも、論文が世に出ても、何件論文を書いたかは件数としてはっきりするが、その論文がどれほどの影響を、学会や、社会にもたらしたかの質の評価として確立してはいない。今は、論文誌に載った論文が、別の論文を書く際に引用された回数を指数化して、インパクト指数としてカウントする工夫がなされているものの、これもベターな評価かもしれないがベストかと言えばそうともいえない。

それは、論文の価値も時間軸の上で変動する要素を内在しているからである。国内では、状況が最近大きく変わり始めた。大學に競争原理が持ち込まれたと受け取れる、独立法人化以降、論文も大事だが、特許も大事、ビジネスの世界に足を踏み入れる姿勢(産学官連携、大學発ベンチャーなど)も大事と変化の真っ只中に研究者が置かれている。そんな時代のプレッシャーも影響してのことなのか、時折新聞をにぎわす話として、研究者の不正行為がある。
朝日新聞の夕刊で10月に3回に渡って特集された「評価って何だろう」の記事を読んで、筆者も苦い経験を思い起こした。

紹介されていたデータは日本よりも、はっきりした競争原理で動いているアメリカの例である。国立保健研究所(ノーベル賞学者を大量に輩出している有名な研究機関でNIHといわれることのほうが多い)からファンドを受けた研究者のアンケート結果によれば、「欠点や疑問のあるデータ解釈の利用を見逃す]「不都合なデータの隠蔽」「研究データの偽造や加工」がそれぞれ、1割強、6%、1%以下ではあるが、身に覚えがあるということだとある。
実は、筆者も会社に入ってすぐに、応用物理学会で実験データの一部をカットして発表したことがあった。
いまは半導体素子の製造プロセスに定着しているイオン注入技術に関しての実験結果で、まだ業界としては取り組みが始まったばかりのことであった。(最近早稲田大学のCOEとして知られる分子ナノ工学研究拠点での研究成果のひとつとして新聞に公表された、ひとつ、ひとつのイオンを半導体に不純物として丁寧に打ち込んだ時に得られる性能の改善が、将来の半導体の躍進に貢献する知見となるといった記事にあるように、今の時代の先端研究はここまで進んでいることに驚くが、35年ほど前は大量のイオンをシリコン基板に打ち込んで、電流の流れるメカニズムが異なる2つのタイプの半導体の接する境界を作る技術として、当時工場で使われていた不純物を熱をかけて基板の中にしみこませていく、いわゆる熱拡散技術に将来置き換えようとの期待から研究が立ち上がったころのことであった)。


筆者は、イオンの発生源を自作し、100キロボルトの電圧でエネルギーを与えて、シリコン基板に金属イオンを打ち込んで、金属イオンが基板の深さ方向でどのように分布しているかを実験的に調べる研究を行った。6月21日に、途中入社して、10月の中ごろの学会発表であった。
分布は大阪府の南部にある京都大学の実験用原子炉でイオンを打ち込んだシリコン基板に中性子をあてることで、打ち込まれたイオンに放射能をもたせ、イオンが打ち込まれたシリコンを表面からビーカーの中の薬品で少しずつ溶かして、その溶液の中の放射能を計ることで調べるというやり方であった。この溶かすという方法は電解研磨のような電気化学的な方法に比べると精度の面で劣るにしても、研究の初期の議論としては耐えうるものと判断しての実験であった。グラフを書くと基板に少し入ったところに大きな山があってそのまま、富士山の裾野のように量が減っていってゼロになるかと思いきや、小さなこぶのようなものが実験データとして記録された。

上司はそれを見て、学会にはそのこぶの前までの実験データで発表するように指示した。こぶがあるのは、実験の誤差であると切って捨てられた。このこぶはあって不思議でないことがその後他の研究グループが明らかにした。このこぶはシリコンの結晶面によっては明確に出るもので、ある種の拡散増強によって引き起こされることもはっきりした。こぶも含めての実験結果を発表していれば、この物理現象の最初の発見者となったものをと思う反面、上司に組みふされてやってはいけないことをやってしまったのだから名誉はすり抜けたのだとも思っている。

今はコンピュータによって実験に裏打ちされたイオンの輸送過程を、欠陥や、結晶の受けるダメージなども考慮して解析出来るのだというが、ナノテクノロジーの工業利用を進めていくにしたがって、量子現象も考慮したモデルの確立が求められるであろうし、その計算ひとつとっても、まだまだ量子コンピュータのような新しい原理に基づくコンピュータでなく、今実用になっている原理のままでいいから、計算能力はいくらあってもいいというのが、多くの研究者の期待であろう。

その期待にこたえる研究開発は今もたゆまず続いているが、一方ではコンピュータが研究に多大の恵みを与えて来ている反面、研究現場に疑念を持ち込むことになっているともいえるような気がしている。というのは、表面化してきている有名な論文誌(先に述べた、インパクト指数の大きな論文誌)に、再現できない実験結果が載っていて、何らかの不正が隠されているのではといったいわゆる、論文捏造問題で、必ず出てくるといっていい「実験ノートがない」というくだりがある。しかし、いまどきの実験室を見ればすぐ理解できるように、実験ノートを持った研究者が実験装置や計測器に向かっている姿はメジャーではないのである。
コンピュータで、実験パラメータは制御され、データもコンピュータに取り込まれて処理されて、美しいグラフや3次元グラフィックスとして打ち出されてきている時代なのである。実験ノートの有無と不正とはこのように直接的な結びつきを持っていないと思えるくらいコンピュータ頼りになっているともいえるのである。

不正があったかどうかは明らかにされるべきであるが、慎重な調査であって欲しいものである。評価は難しいといって、とめないで評価法の評価を時間をかけてでも行って,それを評価法に戻していく地道な努力が競争が熾烈になるほど大事になってきていると感じている。

 



                              篠原 紘一(2005.11.4)

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