84. 超微細技術

 わかりにくい外来語として、日本語への置き換えが見送りになっていた(2003年11月)「ナノテクノロジー」の言い換え語が10月6日に国立国語研究所から公表された。
言い換え語は「超微細技術」で、異論が無ければ来年の一月に確定するという。仮に異論があってもぴったりはまった代替案を提案するのでなければ単なる評論家になってしまうのを承知で感じたことを述べてみる。

ナノテクノロジーの基礎研究に科学技術予算の投入が急増した今から4年ほど前は、ナノテクノロジーといったキーワードをわかりやすく説明することは確かに簡単ではなかった。

ナノメートルは10億分の1mでと言っても、ぴんと来ないので、地球とピンポン玉の関係で説明したり苦心が続いた。これとて、地球の大きさがイメージできる人は宇宙飛行士ぐらいで、説明者側の科学者達も、実際はピンと来ているわけではなくて、イメージがわいている程度であったに違いない。
しかし、今となっては化粧品や、ゴルフ用品、テニス用品であっても、実際にナノ材料が使われてナノの冠がついた言葉が日常的に使われるようになってきていることから「超微細技術」に置き換えることがどれほど意義のあることかいささか疑問に感じる。
検索サイトに、「超微細技術」、「超微細科学技術」、「超微細化技術」などを入力してみると、「超微細技術」がナノテクノロジーと同じような意味合いで使われている比率が高いという結果の数値になった。しかし、それでいいという気が今はしないのである。

ナノテクノロジーのままで理解を深めていくほうがわかりにくい外来語として扱って、日本語の置き換えを努力するよりトータルでよさそうな気がしてきている。その根拠をいくつか挙げてみる。専門家の間では、「ナノテクノロジー」を最初に用語として使ったのは日本の先生であることは周知のことであり、それからすると外来語ではないとも言える。
言葉は大きく分けるとコンセプト(概念)を示す言葉と、機能を持つ言葉に分けられると言う。コンセプトを示せると言うことは、イメージを絵に描けることとほぼ等価であり、機能を受け持つ言葉は話をつないだり、強調したりするのに重要な役割を持つが絵にならない。「超微細技術」は走査型トンネル顕微鏡、カーボンナノチューブやサッカーボールのようなフラーレンの原子模型などいくらでも並べられるがそれでもナノテクノロジーのイメージの一部でしかない。
[超微細技術]は名詞であるが、りんごや梨よりは果物にちかいし、桜やコスモスよりは花に近いが、イメージの重なりは一部でしかない。ナノテクノロジーは、たとえばバイオの世界からも、ますます深刻になっていっている環境問題をスマートに解決しようとしているグーループからも大きな期待が寄せられ、連携も進み、競争は世界的な先端競争の世界であるのは周知のとおりであろう。そう、グローバルな競争なのである。

そんな時代にあって、わかりにくい外来語だから日本語に置き換えようという前に、そのまま使って本当に日本にとって不利益が生じるのかどうかの判断のほうが優先されるべきような気もしてくるのである。置き換えがかえって歪みを生むくらいなら外来語を素直に受け入れるべきだろう。
言葉は文化であり、大切にすることには異論はないし、電車の中などで聞こえてくる高校生たちの「チョー・・・・・」のような乱れは感心はしないが、それに近い現象はどの国にもあり一過性のことである。逆に日本から輸出され英語になっている言葉も色々増えてきている。津波(英語がないわけではなく、tidal waveという)、カラオケ、ふとん、すし、などなど。
古い話であるが、坂本九の「上を向いて歩こう」が全米ヒットチャートの#1になったときに、「すき焼きソング」と紹介された。これなど、直訳型の日本人(?)には、仰天だったかもしれないが、アメリカで人気を呼んで大ヒットとなったイメージを表すものであり、親しまれたネーミングだった。野球用語では、「ランニングホームラン」と日本では使っていて、日本人の感覚で言えば、イメージぴったりの傑作であると思うのだが、これはアメリカが採用しない。「in a ball park home run」だそうである。ボールがフェンスを越えないで球場内にあるホームランというニュアンスだが、「ランニングホームラン」を置き換え語としてみれば秀逸であると、筆者は感じるが、そこは文化の差なのであろう。

言葉はコミュニケーションの手段であり、これだけインターネットが広くいきわたった時代には、言葉へのフレキシビリテイーがもっとあっていい気がしている。「ナノテクノロジー」を短い1語で置き換えられなくても、共通のイメージを作る努力を関係者がすればいいのだと思う。
「ナノバイオ」「ナノドット」「ナノワイヤ」「ナノメデイシン」「ナノ化粧品」などのようにナノを頭につけて、幅広く言葉によって展開されるようなことも「ナノテクノロジー」を受け入れてこそ進むことである。

グローバルに活躍するにはもっと右脳を使おうといわれる(右脳はグローバル、左脳はローカル思考をつかさどるらしい)。右脳はコンセプトを生み出すところであり、イメージを浮かべるところである。英語にできない、通訳泣かせの日本語を大切にするとともに、日本語の持つイメージで表しきれない言葉は、外来語で受け入れることでいいように思う。



                              篠原 紘一(2005.10.21)

                     HOME     2005年コラム一覧          <<<>>>